#52 本番直前でも人生は待ってくれない件
本番当日、クリスタルアークの控え室は賑やかだった。
スタッフが慌ただしく動き回り、メンバーがメイクをしている。
先輩や関係者が挨拶に出入りしていて、マネージャーと特にきらりは忙しそうだったが、ひまりは誰にも会わないようにシャワー室の隅に籠っていた。
(大丈夫……大丈夫……)
何度も自分に言い聞かせる。
しかし、手の震えが全身に広がっている。
心臓が、破裂しそうなほど鳴り響いている。
(怖い……息……できない……)
ひまりは、立ち上がった。
(逃げなきゃ……人がいないところ……どこか……)
ひまりは誰にも見つからないように控え室を出た。
人気のない廊下を歩いて、どこか隠れて安心できそうな所を探す。
しかし、廊下の角を曲がるたび、何かの陰が人の姿に見えるたびに、「中止だ」とあの声が聞こえる気がして泣きそうになった。
(ダメだ……どうしよう……)
息が浅くなって、呼吸ができない。
一歩も歩けなくなって、廊下の真ん中で立ち止まった。
(類くん……)
心の中で呼んだ時、後ろから腕を掴まれた。
「ひまり」
その声に、ひまりの体が反応した。
振り返ると、そこには類が立っていた。
「類くん……!」
ひまりの目から、涙が溢れた。
(来てくれた……)
類の顔を見た途端に、息ができるようになった。
締め付けられていた胸が、ふっと楽になる。
「大丈夫か?」
「……」
ひまりは必死に笑顔を作ったが、頷くことはできずに涙が溜まった目で類を見つめた。
類は、ひまりの顔を見つめて、そして静かに言った。
「ひまりに、見せたいものがある」
「……え?」
「こっちだ」
類はひまりの手を引いて歩き出した。
ひまりはふわふわとする足で類に引かれるままについて行く。
呼吸が戻って少し楽になったが、心臓の鼓動は激しいままで指先が震えていた。
しばらく歩いて、類は人気のない倉庫の前で立ち止まった。
「ここ……?」
「そう」
ひまりが尋ねると、類はドアを開けた。
薄暗い倉庫の中に台車があって、大きな段ボールが乗っている。
類が電気をつけると、古い蛍光灯がチカチカと音を立ててついた。
そして、類は段ボールのテープを剥がして開ける。
ひまりが中を覗くと、そこには人が入っていた。
「……」
ひまりの呼吸が止まった。
下着姿で縛られた男性。
口に酸素マスクのようなものがついている。それが男性の動きに合わせて曇るから、生きているのだとわかった。
(これ……人……?)
ひまりの頭が、真っ白になった。
でも、不思議と叫び声は出なかった。
(燐ちゃんのおかげ……かな)
燐がいつも突拍子もない話を世間話のようにしてくるからだ。
自分は非日常に少しだけ慣れ始めている。
ひまりは、冷静に自分を観察していた。
そして、段ボールの中の人物の顔を見て、ひまりは気づいた。
「類くん、この人、坂木さん?」
「ああ、捕まえてきた」
「……そうなんだ」
類が普通に答えるから、ひまりも普通に答えた。
段ボールに詰まった中年男性というのは、現実離れしている。
(かなり、ギリギリだけど……耐えられてる)
叫ばないし、気絶もしないでいる。
自分にしては上出来だ、と深呼吸しようとした。
「二度とひまりの前に現れないように、こいつを殺そうと思う」
しかし、類がまた普通に言った。
(あ……マズい……)
自分は失神する、とひまりは考えた。
ここに来る前からパニック状態だったのに、類がさらに追い込んでくる。
倒れるかも、と思ったが、不思議と体は立ったままで、代わりに幽体離脱でもしたかのように、自分の姿を倉庫の天井から見下ろしていた。
そして、自分たちを遠くから眺めているかのように普通に話ができていた。
「でもさ、類くん……人を殺すのって大変じゃないのかな」
「いいや、1人くらいなら案外どうにでもなる」
「へぇー……類くん、捕まっちゃったりしないの?」
「大丈夫だ。知り合いのツテがある」
「そうなんだ……」
類が罪に問われないのならそれもいいんじゃないか、と痺れた頭で考えていた。
ここまで自分が残酷になれるのかと、ひまりは静かに考える。
「ひまり、ここまでくると殺しても殺さなくても、手間は一緒だ」
ひまりは類の顔を見た。
驚いたことに、この状況でもひまりは類が怖くなかった。
類がひまりに何を伝えたいのか、類の目を見て読み取ろうとする。
「ひまりがゴーサインを出すのは嫌だと思う。だから、ひまりが黙っているならこいつを殺す。ひまりは、怖くて何も言えなかったことにすればいい」
類は、淡々と言った。
「そうしたら、ひまりはもう怖くないだろ?」
「……怖く、ない?」
これからステージに立つのに、もう坂木の陰に怯えなくて済む。
ライブが始まる寸前まで、中止されるのではと震えなくていい。
(でも……)
ひまりは段ボールの中の坂木を見下ろした。
(別に、そんなに怖がらなくてもいいのかも……だって、わたしは今、アイドルをやれてる)
倉庫の天井に浮かんでいたひまりの意識が、徐々に類の横に立つ自分の中に戻ってくる。
(一回ダメになったけど、またここまで戻ってこれた……何回ダメでも、何回でも頑張ればいいんだ)
「類くん」
ひまりは、まっすぐ類を見た。
「殺さないでいいよ」
その声は、もう震えていなかった。
「わたし、もう怖くないみたい」
類はひまりが真実を言っているのかと目を見つめた。
しかし、ひまりは正気で、怯えて嘘を言っているようにも見えなかった。
「いいのか?」
「類くんがいるから大丈夫になった」
「俺が、いるから?」
「うん、類くんがいるから、乗り越えられたんだと思う」
ひまりは類の手を握った。
類の手は、普通の男子高校生の手をしている。ひまりよりも大きくて、少し硬くていつも冷たい手だ。
(この手で人を殺してなんて、頼まなくてよかった……)
ひまりは今更それに気付いて安心した。
「わたし、もう大丈夫。また同じことがあっても、もう大丈夫だと思う」
類は少しの間ひまりを見つめた。
そして、小さく頷く。
「……分かった」
段ボールを元の通り閉じて、テープを貼り直す。
類が梱包しているのを、ひまりは横で眺めていた。
「類くん、その人、どうするの?」
「専門業者に頼んで、無傷で帰らせる」
「そう、よかった……」
類は作業を終えると、ひまりの方を向いた。
「ひまり」
「うん?何?」
「最初に言っておくけど、ひまりがどちらを選んでも変わらなかった。坂木を殺しても、殺さなくても」
類のその前置きは、ひまりが自分の選択を後悔しないように言ったのだと分かった。
(もしかして……)
ひまりは覚悟を決めた。
類の顔が見えなくならないように、溢れそうになる涙を堪える。
「ひまりが全部背負って頑張っているのを見て、分かったんだ。過去は切り捨てるものじゃない。だから、俺も自分の過去を無かったことにしたくない」
類ははっきりと言わなかった。
でも、どこか遠くで自分と会えないことをするのだろう、とひまりには分かった。
類は元々そういう人間で、ひまりとは偶然、少しだけ縁が合ったに過ぎない。
命の危険もあるだろうと分かったけれど、類の瞳はステージに立つひまりと同じように輝いていた。
「もっと頑張りたい。できるところまでやってみたいと思った。ひまりのおかげで、そう思えた」
(そんな風に言われたら、止められないよ……)
「分かった……」
ひまりは類の腕を掴んだ。
「類くん、文化祭のお願い、覚えてる?」
「ああ、何でも一つ、言うことを聞くんだっけ?」
「そう……」
ひまりは、自分の小指と類の小指を合わせる。
「いつかわたしが、立派なアイドルになって、全部やり切ったと思った時……」
言いながら涙が溢れる。
(これが……最後かもしれない)
顔をくしゃくしゃにしながら、ひまりは類から目を逸らさなかった。
類の顔を覚えておきたかった。
「類くんに告白するから……絶対に会いに来て……っ」
「分かった」
類は、少し笑った。
その笑顔が優しくて、ひまりは必死に涙を堪えた。
(泣かないで……笑顔で、送り出さなきゃ)
「約束」
ひまりが震える手で小指を絡めると、類も応える。
二人の指が強く絡み合う。
「絶対……絶対だよ……!」
「ああ、約束」
類が笑って言って、指が離れた。
もうライブが始まるギリギリの時間だ。
(行かなきゃ……でも……)
ひまりは、もう一度類を見た。
類がひまりを見送るように頷いて、ひまりは走り出す。
「類くん、ライブ、見ていってね!」
類が見えなくなる前に、ひまりは振り返って大きく手を振った。
「絶対に、最高のステージにするから!」
類が小さく手を振り返した。
ひまりは、それを見届けてから全力で、走った。
(ありがとう、類くん……!わたし、頑張るね)




