第十話:呪われし者たちの戦旗
国境地帯の森の奥深く。
私たちは、狩人が捨てたであろう古い小屋に身を潜めていた。
アランが近くの村で、顔を隠して手に入れてきてくれた粗末な食料を分け合い、互いの傷の手当てをする。
暖炉の頼りない炎が、三人の疲弊しきった顔を照らしていた。
「…始まった、か」
レオンハルトが、苦々しく吐き捨てた。
彼が持ち帰った一枚のビラ…それは、我がクライネルト王国とガルア帝国の両国が、正式に開戦を布告したことを知らせるものだった。
そして、そこには開戦理由として、私たちの名が大きく記されていた。
『国を裏切り、敵将と密通したアリシア王女』
『帝国を欺き、敵国の王女と通じたレオンハルト将軍』
私たちは、この戦争を始めるための、最高の生贄にされたのだ。
民衆は、この偽りの物語に熱狂し、愛国心を燃え上がらせているという。
99回、戦争を止めようと足掻いてきた。
その結果が、これ?
私が、戦争の引き金になるなんて。
100回目にして、最悪の結末。
「…申し訳、ありません」
アランが、絞り出すように言った。
「貴女様を、お守りすることができず…」
「あなたのせいじゃないわ」
私は力なく首を振った。
「全部、私の責任よ。私が、甘かった…」
バーンズ公爵たちの狡猾さを、私は見誤っていた。
絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。
もう、打つ手がない。何をしても、あの破滅の未来へと収束していく。
これが、運命の持つ力なのか。
諦めかけた、その時だった。
暖炉の炎が、不自然に揺らめいた。
そして、ゆらりと立ち上った煙が、人の形を成していく。
それは、フードを目深にかぶった、見慣れた魔術師の姿だった。
「…ゼノン!」
「やあ、王女様。随分と難儀な状況のようですな」
煙でできたゼノンは、まるで他人事のように言った。
その声には、焦りも同情もない。ただ、楽しんでいるかのような響きがあった。
「いやはや、これは面白い! 貴女様という特異点が、世界の因果律を大きく捻じ曲げた! 実に興味深い観測結果ですぞ!」
この状況で、よくそんなことが言える。
怒りが湧くが、彼がわざわざ魔法を使ってまで接触してきたのには、理由があるはずだ。
「首都の様子はどうなっているの?」
「バーンズ公爵が、戦時下における全権代理として実権を握りましたな。陛下は、もはやお飾りにすぎません」
やはり、思った通りだ。
私は、意を決して彼に告げた。
礼拝堂の祭壇の奥で見た、あの螺旋の紋章のことを。
その言葉を聞いた瞬間、ゼノンの態度が初めて変わった。
「なんと! それは真ですかな!?」
煙の姿が、興奮に揺らぐ。
「その紋章こそ、『クロノスのペンダント』の在処を示すための『キーストーン』! いわば、鍵です! やはり、あの場所はペンダントと繋がっていたのですな!」
彼の言葉に、私とアラン、レオンハルトは顔を見合わせた。
「鍵…だと?」
「ええ。ペンダントは、強大な魔力を持つが故に、一つの場所に留まってはいない。複数のキーストーンによって封印され、その存在を隠しているのです。礼拝堂の紋章は、その第一の鍵。貴女様がそれに触れたことで、おそらく封印が一つ、解かれ始めた」
ゼノンの言葉が、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように思えた。
戦争を、正面から止めることはもうできない。
政治の力も、軍事力も、今の私たちにはない。
ならば。
ならば、このループの根源である、クロノスのペンダントそのものを手に入れるしかない。
時間そのものを操る禁断の遺物。
それこそが、この絶望的な状況を覆す、唯一にして最後の切り札。
「…次のキーストーンはどこにあるの?」
私の問いに、ゼノンは満足げに頷いた。
「古文書によれば、第二の鍵は『忘れられた王たちの谷』。初代国王たちが眠る、古代の王家の墓所ですな」
「王家の墓所…」
それは、王都から遥か南に位置する、禁忌の土地だった。
「馬鹿げている」
黙って話を聞いていたレオンハルトが、口を開いた。
「戦争が始まったというのに、宝探しをしろと? 俺は、一刻も早く前線に戻り、マルクス将軍の裏切りを暴かねば…」
「今のあなたが戻って、誰があなたの言葉を信じるの?」
私は、彼の言葉を遮った。
「あなたはもう、帝国の大将軍じゃない。ただの『裏切り者』よ。私と同じ」
彼の赤い瞳が、悔しそうに揺れる。
それは、彼が一番よくわかっていることだった。
「この戦争は、もう始まってしまった。普通のやり方では止められない。だとしたら、私たちは、世界の理そのものをひっくり返すような、常識外れの方法で戦うしかないのよ」
私の瞳には、もう絶望の色はなかった。
新たな戦いへの、決意の光が宿っていた。
その光を、レオンハルトは真っ直ぐに見つめていた。
「…面白い」
やがて彼は、不敵に笑った。
「王女に騎士、敵国の将軍。なるほど、呪われた者たちが揃ったものだ。よかろう。その馬鹿げた宝探し、乗ってやる。世界をひっくり返すというのなら、それも一興だ」
「レオンハルト…」
「アリシア様の御心のままに」
アランも、静かに頷いた。
私たちの目的は、一つになった。
もはや、王女でも、騎士でも、将軍でもない。
私たちは、世界から見捨てられた、ただの逃亡者。
でも、時間さえも敵に回して戦う、たった三人の同志だ。
「ゼノン、王家の墓所の地図を送って」
「お安い御用ですとも。ああ、貴女様の旅路、実に興味深い観測対象になりそうですな…!」
そう言い残して、煙の姿は掻き消えた。
私たちの前に、新たな道が示された。
それは、誰も知らない、いばらの道。
背後では、私たちの名を掲げた戦争が、国を焼いていく。
それでも、私たちは前に進む。
時間さえも手に入れるための、私たちの本当の戦争が、今、始まったのだ。