第一話:始まりはいつも血の匂い
焼けた肉の匂いがした。
私の体から流れる血と、城壁を焦がす炎の匂いが混じり合って。
ああ、またか。
そんな他人事みたいな感想が浮かぶ。
腹に突き刺さった敵国の剣。
その切っ先からじわりと広がる冷たさが、私の意識を奪っていく。
「王女様! アリシア様!」
忠実な騎士アランの声が遠くに聞こえる。
ごめんねアラン。今回もあなたを死なせてしまった。
そして私もすぐに後を追うから。
これで99回目。
もう慣れたものだ。痛みにも、絶望にも。
一年という短い時間を与えられ、隣国との戦争で必ず死ぬ運命。
それが王女アリシアである私に課せられた呪い。
次に目覚めた時、私はまた一年前に戻っているだろう。
王宮の自室のベッドの上。春の柔らかな日差しが窓から差し込む、あの朝に。
「次こそは」
もう何度誓ったかもわからない言葉を、血の泡と共に吐き出して。
私の99回目の人生は、終わりを告げた。
◇
……ちちち。
小鳥のさえずりが聞こえる。
意識がゆっくりと浮上していく感覚。
目を開けると、見慣れた天井があった。
天蓋付きの豪奢なベッド。シルクのシーツの肌触り。
ああ、本当に戻ってきた。
窓の外からは暖かな春の日差しと花の香り。
今日の日付は覚えてる。
国王である父の誕生日を祝う式典が開かれる日。
そして一年後の今日、私は死ぬ。
100回目。
節目の数字に、私は自嘲気味に笑った。
99回も失敗したんだ。次もどうせ同じだろう?
そんな弱音が頭をよぎるのを、無理やり振り払う。
違う。今回は違うんだ。
99回の死は無駄じゃなかった。
私はこの一年間で起こる全てのことを知っている。
誰が裏切るのか。誰が味方になるのか。
どこで戦が始まり、どこで奇襲があるのか。
敵国の将軍の癖も、宮廷魔術師が隠している秘密も。
全て、全て、この頭の中にある!
「アリシア様? お目覚めですか?」
扉の向こうから侍女のセラの声がする。
「ええ、起きてるわ。すぐに準備を」
いつもと同じ返事。でも、声の響きはいつもと違うはずだ。
ベッドから起き上がり、鏡の前に立つ。
そこに映っているのは17歳の私。まだ戦争の絶望を知らない無垢な王女の顔。
でもその瞳の奥には、99回分の死と経験が宿っている。
「失礼します」
セラが入ってきて、手際よく着替えの手伝いを始める。
豪華なドレスに身を包み、髪を結い上げられていく。
いつもなら憂鬱なだけのこの時間も、今日だけは違う。
これから始まる戦いのための儀式のように感じられた。
「セラ」
「はい、なんでしょう?」
「今日の式典が終わったら、私の私室に来てちょうだい。人払いを忘れずに」
「え? かしこまりました」
セラは少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
彼女は私の幼馴染で、一番信頼できる侍女。
そして、一年後の戦争で真っ先に命を落とす一人でもある。
今回は絶対にそんなことさせない。
準備を終えて部屋を出ると、廊下で護衛騎士のアランが待っていた。
銀色の鎧に身を包んだ、真面目な顔。
私のために99回死んでくれた忠実な騎士。
「おはようございます、アリシア様」
「おはよう、アラン。今日もよろしくね」
「はっ! この命に代えましても」
その言葉を聞くたびに胸が痛む。
もうその命を無駄にはしない。
あなたにも未来を見せてあげるから。
父である国王が待つ謁見の間へ向かう。
長い廊下を歩きながら、私はこれからの計画を頭の中で組み立てていた。
最初の標的は決まっている。
戦争を最も強く望んでいる男。国内で最大の兵力を持つ強硬派の筆頭。
バーンズ公爵。
あの男をまず排除しなければ、何も始まらない。
99回のループの中で、私は様々なことを試した。
父を説得しようとしたこともある。でも無駄だった。平和を願うだけの理想論では誰も動かせない。
敵国の王に和平交渉を申し込んだこともある。でも返ってきたのは嘲笑と奇襲だけ。
毒殺を試みたこともある。でも警戒が厳しく、失敗に終わった。
剣を取って戦うこともした。魔法を極めて戦場に出たこともある。
でも個人の力だけでは、巨大な戦争の流れは変えられなかった。
だから今回は全てをやる。
外交も、暗殺も、内政も。
私が持つ99回分の知識と技術と人脈を総動員して、この戦争そのものを根っこから消し去るんだ。
謁見の間に着くと、すでに多くの貴族が集まっていた。
きらびやかな服に身を包み、笑顔で談笑している。
でも知っている。この中にどれだけの裏切り者がいるのかを。
父の前に進み出て、誕生日を祝う言葉を述べる。
「アリシア、よく来たな」
父は満足そうに頷いた。
彼はまだ知らない。自分の娘がどれほどの覚悟を決めているのかを。
式典は滞りなく進んでいく。
退屈な挨拶、優雅な音楽、豪華な食事。
私は周りの貴族たちの顔と名前を一人一人確認していく。
味方になる可能性がある者、敵として排除すべき者、利用できる駒。
頭の中の情報と照らし合わせていく作業。
ふと視線を感じて顔を上げた。
そこにいたのは宮廷魔術師のゼノン。
年の頃は20代半ばだろうか。いつもフードを目深にかぶっていて、表情が読めない謎めいた男。
彼は私のループに何か関係している。確信はないけど、そう感じていた。
彼だけはループの中で時々、他の人間とは違う反応を見せることがあったから。
ゼノンは私と目が合うと、静かに一礼して人混みの中に消えていった。
今はまだ彼に接触する時じゃない。
式典が終わり、私は足早に自室へと戻った。
しばらくして、セラがやってくる。
「アリシア様、お呼びでしょうか?」
「ええ、入って」
セラを部屋の中に招き入れ、私は扉に鍵をかけた。
「アリシア様?」
怪訝な顔をするセラに、私は向き直る。
「セラ、あなたにお願いがあるの」
「なんでしょう?」
「あなたの実家は薬草の問屋よね? ある薬を秘密裏に手に入れて欲しいの」
私は紙に一つの薬草の名前を書いた。
それを見たセラの顔が青ざめる。
「こっ、これは…! 即効性の毒じゃないですか! いけません! こんなもの、何にお使いになるのですか!」
「必要だからよ」
「ですが!」
私はセラの肩を掴んで、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「セラ、お願い。あなただけが頼りなの。これから私がやろうとしていることは、この国を…ううん、あなたやアランや、みんなを守るために必要なことなの」
私の瞳に宿る真剣さに、セラは息を呑んだ。
いつものおっとりとした王女様じゃない。まるで歴戦の戦士のような鋭い光。
「信じて」
その一言に、セラはしばらく葛藤していたが、やがて小さく頷いた。
「…わかりました。アリシア様がそこまでおっしゃるのなら」
「ありがとう」
これが第一歩。信頼できる協力者の確保。
次に私はアランを呼んだ。
「アラン、あなたにはバーンズ公爵の屋敷の警備状況を調べて欲しいの」
「公爵様の屋敷を? 何故です?」
「いいからお願い。内部の見取り図と、警備の交代時間が知りたいのよ」
アランもセラと同じように驚き、戸惑っていた。
でも彼は忠実な騎士だ。私の命令に疑いを挟むことはしない。
「…御意」
短い返事だけを残して、彼は部屋を出ていった。
これで準備は整った。あとは実行するだけ。
夜。
私は侍女の服に着替えて城を抜け出した。
99回も繰り返していれば、抜け道の一つや二つ、簡単に見つけられる。
向かう先はバーンズ公爵の屋敷。
昼間にアランが調べてくれた情報を元に、闇に紛れて潜入する。
これまで何度も暗殺を試みて失敗した相手。でも今回は違う。
セラが手に入れてくれた毒がある。
これはただの毒じゃない。99回の知識で見つけ出した、特殊な植物から作られる無味無臭の気化する毒。
ワインに混ぜる必要も、食事に仕込む必要もない。
公爵の寝室にこれを置いておくだけでいい。数時間後には眠るように死んでいるはずだ。
心臓発作として処理されるだろう。誰にも気づかれずに、戦争の主犯を一人消すことができる。
屋敷への侵入は驚くほど簡単だった。
アランの情報は正確で、警備兵の配置も巡回のルートも全て頭に入っている。
音もなく壁を登り、目的の寝室の窓にたどり着く。
ガラスを特殊な道具で静かに切り取り、中へ滑り込んだ。
豪華な調度品が並ぶ広い寝室。
天蓋付きのベッドでは、ターゲットであるバーンズ公爵が大きなイビキをかいて眠っている。
憎い男だ。この男のせいでどれだけの血が流れたか。
ポケットから小さな小瓶を取り出す。
蓋を開けて、ベッドサイドのテーブルの上にそっと置いた。
中の液体がゆっくりと気化していくのがわかる。
これで終わり。あとは屋敷を出るだけ。
そう思った時だった。
「そこで何をしている?」
冷たい声が背後から響いた。
しまった!
振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
月の光に照らされたその顔を見て、私は息を呑む。
長い銀髪に、血のように赤い瞳。
敵国であるガルア帝国の若き将軍にして最強の騎士。
レオンハルト・フォン・リンドブルム。
なんで彼がここにいるの!?
まだ戦争は始まっていないはず。彼が我が国の王都にいるなんてありえない!
99回のループの中で、一度もなかった事態。
レオンハルトは静かに剣を抜いた。
その切っ先が、真っ直ぐに私の喉元に向けられる。
「お前が、バーンズ公爵を狙う暗殺者か」
まずい。
どうする? 戦う? 逃げる?
頭が高速で回転する。でも答えは出なかった。
なぜなら、私の計画はもうこの時点で崩壊しているから。
100回目にして初めてのイレギュラー。
私の知らない未来が、もう始まっている?
冷や汗が背中を伝う。
レオンハルトの赤い瞳が、私を射抜いていた。
「答えろ」
その声には、一切の慈悲がなかった。
ああ。
もしかして。
私の100回目も、ここで終わりなのかな?