第9話 瞳子さん、就職先が決まる。
エプロンを多恵子さんからお借りし、その日の陶芸体験は終わった。
「いかがでしたか?」
「はい、とても楽しかったです!」
心からそう思った。
久しぶりに土に触り、周りを気にせず陶芸に勤しめた。
評価等も意識せず、自分が作りたいものを作った。
目の前のマグカップが心なしか輝いているように見える。
外はほぼ真っ暗闇になっていた。
途中で多恵子さんが窓にブラインドを下ろし、電気をつけていた。
「じゃあ、料金の説明に入りますね」
多恵子さんは入会金、月謝の説明を始めた。
「入会金は10,000円。お月謝は月3回で8,500円です。」
うッ。あらかじめホームページで確認していたが、無職の私にはきつい。
「あの…1ヶ月だけ通うとかもアリですか?」
「えぇ、もちろんです。でも、是非瞳子さんには息抜きに通って欲しいな」
多恵子さんは両手を合わせ、拝むように振っている。
「実は…まだ、こっちで仕事が決まっていなくて。」
多恵子さんは目を見開き、「あら」と言った。
「そうだったの?」
「…はい。でも、今日の体験とても楽しくて。是非私も通いたかったんですが」
残念だ。これはお財布事情での言い訳でなく、本心だ。
多恵子さんは右手を頬に当て、何か考え込んでいる。
「そうねぇ…もし、瞳子さんがよければなんだけど…」
多恵子さんの眼鏡の奥の目がこちらを向いた。
「何でしょう?」
「この工房で、私の代わりに働いてくれないかしら?」
「えっ…」
突然の提案に、私は固まった。
「あら、ごめんなさいね!いきなり、こんな良く分からないおばさんの代わりに働いてって言われてもね!」
やだわ~と言いながら、おほほと笑いながら左手をハエ叩きをする様に振った。
「ぜひ!!お願いします!!」
言うと同時に、私は多恵子さんの手を取っていた。
多恵子さんはびっくりしたみたいで、目と口を真ん丸に開いた。
「そ…そう言ってくれると、助かるわ」
多恵子さんは眼鏡の縁を指で上げながら、安定の笑顔でそう言ってくれた。
「私も…夢みたいです」
田舎に帰る前に、本当にしたい事を紙に書き出した。
陶芸家として生活したい。
そして、飲み会の翌日。父から電話があってからうっすらと考えていた夢。
田舎で陶芸教室を開けたらいいな。
「実はね、主人が定年退職して5年が経ったのだけれど、ほら。私が陶芸教室やってるでしょ~?
だからね、旅行とか行けなくて。主人はずっと、退職金で一緒に旅行に行きたいって言ってくれてたの。」
「そうなんですね」
「そうなの!だから、あなたが来てくれて、何だか運命感じちゃったわー」
多恵子さんは少女のような人だと思った。
右上上方の空中を見て、こちらに向き直る。
「だからね、しばらくは私と一緒に生徒様とレッスンに入って。慣れてきたら、瞳子さん1人で。」
「で、できますかねぇ…」
つい自信のなさが口からついて出てしまう。
「大丈夫よ、瞳子さんなら」
今度は多恵子さんが私の手を取った。
多恵子さんの笑顔は、私の心をほっと安心させてくれる。
「はい…私、やります。多恵子さんが言って下さるなら、大丈夫です」
「うん。じゃあ、いつから出勤して下さるかしら?」
軽自動車に乗って、運転席の窓を開ける。
「じゃあ、気を付けて帰ってね」
「はい!明日から、よろしくお願いいたします。」
「こちらこそ。」
多恵子さんはほっこり笑い、手を振った。
私も手を振って、陶芸教室を後にした。
陶芸教室を出てすぐ、阿見山高校の制服を着た男子高校生がバス停で降車するのを見た。
何となく、さっき多恵子さんが話していた甥っ子さんかなと思い、見てみる。
が、暗くて顔はよく分からない。
多恵子さんから、甥っ子さんは工房のすぐ近くの家に住んでいるって聞いていた。
今度会う機会があったら、私の専門学校の受験の時の話をしよう。
少しでも役に立つといいけど。
車の中で、多恵子さんとの話のやり取りを思い出していた。
「どうして、今日はここに来てくれたの?」
「私、実は3日前に故郷である杉山町に帰って来たんです。それで、久しぶりに陶芸してみたいなって思って…」
「へえ!それは嬉しいわね。」
手びねりでマグカップを成型する私の隣で、多恵子さんがニコニコしながら聞いてくれた。
「田舎が恋しくなって、帰ってきたの?」
「そうですね、そんな所です。」
ふふっと笑ってから、しばらく黙った。
話そうか迷ったが、多恵子さんになら話してもいいような気がした。
「私、離婚したんです。」
「ええっ!?」
「離婚して、父が田舎で1人で暮らしているんですけど。帰ってみようかな、なんて思えて…」
「…そうだったのねえ」
多恵子さんは両手を頬に当て、眉根を寄せた。
「差支えなければ、離婚原因は何だったの?」
「原因は…元夫が借金を隠していたからです。」
「借金!?」
多恵子さんは、重大な秘密を知ってしまったかのように身体を震わせ、素早く右手を口の前に持ってきて目を見開いた。
「はい…。結婚前に、借金の有無を聞いた時は"ないよ"って言ってたんですけどね。あ、相手は15歳年上のバツイチだったんです。彼に前妻との離婚時の慰謝料とかもしあったら、先に聞いときなって職場の人にアドバイスを頂いてて。私は奨学金を借りていたので、その返済があると元夫に伝えていました。」
「…苦労したのね?」
「いえいえ…。その他にも、たくさん嘘をつかれてたので。」
「…そうだったの…」
「はい」
慣れている。離婚の経緯を話すことには。
興味本位で聞く人も居る。
そんな人を悪いとは思わない。私も話したい。
中途半端にバツイチである、とだけ知られても嫌だ。
離婚原因は元夫にある事を知っておいて欲しい。
「でも、陶芸をして、少しでも気晴らしになると嬉しい」
ぼんやりと、ぼやけた日差しでできた日溜まりのような声。
多恵子さんを見ると、目尻を下げて優しく微笑んでいた。
「それにここではね、あなたの作品を評論したりする人はいないわ。」
専門学校時代の、妬みや劣等感に苛まれた日々が思い浮かぶ。
最低最悪の感情に毒されていた日々。
何て自分は才能がないんだろう。何で賞が取れないんだろう。
自分は陶芸に向いていない。
私が作る作品なんて、ゴミだ。
楽しいだけじゃ、生きていけない。
私は何で陶芸の専門学校に入ったんだろう。
何で私はここに居るんだろう。
なんて自分は駄目なんだろう。
「生徒様の作品は、1つとして同じものってないのよ」
多恵子さんは立ち上がり、木製の棚に並べられた食器を手の平で差し、
愛のこもった視線で1つ1つ見据えた。
「みんな違って、みんな良いの」
多恵子さんは話を続ける。
「賞なんて取らなくっても、素敵でしょ?もちろん、賞を取る事を否定しているわけじゃないのよ?」
私は、多恵子さんを見上げながら力なくうなづく。
「きれいごとって思うかも知れないけど…。幸せって、自分次第なの。」
何が言いたいんだろう。
「賞を取れる人って、ちょっとしか居ないじゃない?賞を取る事だけが幸せな事なんだとしたら、この世の中には不幸せな人がいっぱい!…でもね。朝目が覚めて、朝ごはんを食べる。食べれるって、幸せ。夜寝る時、今日も屋根のあるお部屋で寝られるって、幸せ。」
きれいごと。なのかな?
「そういう、ちょっとした事で幸せを感じられる人が世の中にいっぱい居たなら、幸せな人がいっぱい!」
多恵子さんは両手を広げ、窓の方を見た。
「だからね。陶芸ができるって事、それ自体が幸せなんだって思えたら、きっと見える景色も違って来るわよね。」
家まであと少し。信号が赤になる。
ゆっくりと停止線前で止まる。
今考えると、あの頃は人と比べてばかり居た。
賞を取ったり、先生や先輩から褒められる人、後輩から憧れられる人。
皆が羨ましかったし、妬ましかった。
でも、本当はそんな事を思う必要なんてなかったのだ。
多恵子さんの笑顔は、そんな私の嫌な過去でさえも照らしてくれた。
私は賞を取る事や、周りに褒められ認められる事が目的で専門学校に入ったわけじゃない。
「皆違って、皆良い。」
多恵子さんが言った言葉を呟いてみた。
綺麗ごとだって昔なら思っていたが、今なら分かる。
信号が青になり、私はゆっくりとアクセルを踏んだ。
「ただいまあ~」
「お帰り」
父はいつもの場所に座っていた。
テレビがついていて、今日一日のニュースが流れている。
「どこ行ってたんだ?」
「阿見山町の陶芸教室」
カバンを座椅子の横に置き、コタツに入った。
「やけにご機嫌じゃないか?」
父も少し嬉しそうにしている。
3日間あまり言葉を発さず、近所のスーパー以外どこにも行かなかった出戻り娘が機嫌よく帰宅したのだ。
「実は…今日体験に行った陶芸教室で、明日から働く事になったの」
「おお!!良かったじゃないか!」
父は、手を叩いて喜んでくれた。
私も嬉しくて、「お陰様で」と言った。
「手洗って来るね。ご飯食べた?」
「まだ。ラーメン、食べるか?」
「うん!」
鼻歌まじりに手を洗い、私はアルミ鍋にお湯をたっぷり入れ、
袋麺を調理する準備をした。
「父さん、アッポロの醤油味でな。」
「はーい!」
明日から、楽しみだ。
エプロン忘れないようにしなきゃ!