第39話 瞳子さん、涙と鼻水で
最終のレッスンが終わり、生徒様が帰って間もなくの事だった。
いつもの様にストーブを消し、作業台の上を片付けてから拭いていた。
床を掃こうと部屋の隅にあるほうきに手をかけた時。
ガラガラと静かに玄関の引き戸が開く音がした。
そして足音が近づいてきて、工房の引き戸が開いた。
「こんばんは」
っていつもなら会釈をする忍君。
でも、今日は無言でぼんやりと佇んでいる。
近付いて声をかけようとしたけど、忍君の顔を見てはっとして、止めた。
青白い忍君の顔。目は充血していて、唇は乾燥している。
どことなく生気が抜けて、心がどこかに飛んで行っている。
忍君はフラフラとした足取りで工房の椅子にたどり着き、座った。
声を掛けよう、いや掛ける雰囲気ではない…
交互に頭の中で逡巡した後、私は声を掛けられなかった。
大きな背中は、猫背でぐにゃりと曲がって今にも作業台に突っ伏してしまいそうだった。
どうしたんだろう。
…まさか
思い至った考えを振り切りたくて、視線を忍君から逸らした。
掃き掃除は明日の朝にしよう。
しばらく忍君は"ここ"で1人になりたいはずだ。
声を掛けずに工房を後にしようとしたが、迷った挙句にやっぱり一声かけた。
「忍君、ストーブつけとく?」
2、3秒後にゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
目の下にクマができている。
口は半分開いている。
「…ごめんね、寒いかなと思って」
面白くないのに、クセでつい笑顔で言ってしまう。
場違いな笑顔に、小さな罪悪感が生まれる。
「…大丈夫です」
忍君は言うと同時に椅子から立ち上がり、フラフラとこちらに歩いて来た。
工房から出るのだと思ってストーブの前から一歩下がって避けた。
忍君は私の前で足を止めた。
横顔はうつむいて、フワフワの髪の毛で表情が見えない。
「…瞳子さん」
「…なに?」
呟くような声に、耳を近付けた。
「…母が…」
かすれた声でそれだけ言うと、忍君の肩が震えた。
バッとこちらに正面を向けた忍君の目からは、涙が流れていた。
「うっ…う…は…」
そのまま床に座り込んで嗚咽が止まらない忍君の背中を、私はひたすら撫でた。
「…忍君…」
知らぬ間に、私も泣いていた。
目と鼻からは、ダラダラと液体が流れ出る。
セーターの袖で拭いながら、大きくブルブル規則的に震えている背中をなぜる。
どれくらいの時間、そうしていたのか分からない。
忍君の震えが収まって、私は箱ティッシュを棚から取って忍君に渡した。
私も、自分の鼻をかんで、涙を拭いた。
忍君から丸まったティッシュを受け取り、ゴミ箱に捨てた。
「瞳子さん」
後ろから声を掛けられ、振り返った。
「…情けない姿見られてしまいました」
忍君はそう言うと自嘲的に笑い、目尻に溜まっていた涙は頬に流れた。
「母が、亡くなったんです」
頬の涙をぬぐいながら、忍君は言った。
言葉が。
出てこない。
私の頭の中で色んな単語がくっついて文章になりかけては崩れ去って行く。
ただただ、目からは涙が溢れて来る。
今度は私の肩が震え始めた。
「…瞳子さん、ごめんなさい」
「…何で謝るの?」
「泣かせて…」
「泣かせてない!」
涙を拭いて、忍君の目を見た。
今は私の目も、同じように赤くなっているんだろう。
「…どうしたらいいか分からなくて。おばさん、出てるみたいだし」
「電話もつながらない?」
震えて鼻声。
私こそ情けない。
忍君はコクンとうなづく。
「じゃあ、一緒に待ってよう」
そう、またつい笑顔で言ってしまう。
この笑顔も場違いだ。心の中でまた罪悪感がスッと積もる。
「…ありがとうございます」
泣くのをこらえながら、忍君は言った。
工房の椅子に座って多恵子さんを待った。
5分ほど、何も話さずにぼんやりしていた。
「瞳子さん」
隣に目をやると、
「瞳子さんの笑顔に、僕は救われています」
「…え」
急に、何だ。
忍君は真面目な顔でそれだけ言うと、またぼんやりと空中を見つめ始めた。
罪悪感は、いとも簡単にポロポロと瓦解し、風に飛ばされてなくなった。




