第37話 瞳子さん、何も知らない
「瞳子先生…来てくれたんですね」
「後で、って言ったし」
「…良かったら、上がりますか?」
「え?いいよ、ここで…」
ちょっと寄って、玄関で立ち話を少しして帰ろうと思っていた。
「入試の事も、話したいので…」
伺うようにこちらを見ながら、片手を家の中へ向ける忍君。
「どうぞ」
初めて忍君の家の中へ入った。
畳のにおいがする。
奥の居間に通されて歩いた。
居間のコタツの横には、座布団が2つ置かれていた。
「狭い所ですが…」
「ううん、ありがとう」
忍君はササっと窓のカーテンを閉め、
ファンヒーターの電源スイッチを押す。
それからコタツのコンセントをさして、
電源を入れて出力を上げた。
「お茶いれてくるので、瞳子さんは座っていてください」
「はーい、ありがとう」
忍君は音もたてずに奥の台所へ消えた。
猫ちゃんみたいだなぁと思ってふっと笑った。
座った場所から、コタツを挟んで向こう側に古い和箪笥が置いてあり、
箪笥の上には花瓶やタヌキの置物が置いてあった。
"忍君が作ったのかな…?"
立ち上がって、タヌキの置物を眺める。
目尻を下げてニコニコしているタヌキの顏は、
忍君のいつもの冷静な顔と対照的だと思った。
「それ、母が作ったんです」
振り返ると、忍くんがお茶菓子の入ったお皿をコタツの上に置いていた。
「おばさんの工房の初めての生徒が、母なんです」
「ヘぇ~」
お母さんが作ったんだ。
またタヌキの置物をじっくり見てみる。
「可愛いタヌキさんだね。目尻の下がり具合がいい」
「ありがとうございます」
「…忍君のお母さんのお人柄が、伝わってくるね」
ニコニコ。あたたかな笑顔。
「…ありがとうございます」
振り返ると、忍君は微笑んでいた。
「忍君、試験合格本当に、おめでとう。」
「…先生のお陰様です。ありがとうございます」
忍君は立ち上がり、ペコリと礼をした。
私もつられて礼をする。
「私も忍君に助けられてるからね」
「…助けた記憶はないんですが」
「ほら、ミネヤンブログ!」
手を叩いて忍君を指さす。
「う~ん…あぁ…」
斜め上を見上げ、腕を組む。
「あれは、母の言葉だしなぁ…」
「でも、言葉を発信してシェアしてくれてるのは、忍君でしょ?」
忍君はこっちを見て、ちょっとニコっとした。
「そういう事になるんですかね?」
「なる、なる」
「瞳子さん、部屋まだ寒いんでこちらへどうぞ」
座布団の置いてある場所へ座ってコタツへ入ると、忍君とはす向かいに並んだ。
いつも、お母さんとこうして座っていたのかな?
そう思いながらお茶を両手で持って飲んだ。
「おいしいお茶」
忍君は湯飲みを口に付けたままこちらを見て、会釈をした。
「ありがとうございます」
いつも礼儀正しい忍君。
「こちらこそ、おいしいお茶ありがとう」
忍君は照れくさそうに上目遣いでまた会釈をした。
「入試、緊張した?」
「…めちゃくちゃ緊張しました」
忍君はお腹が弱いらしく、腹痛との戦いだったらしい。
入試の時の話をしばらく聞いてから、「そろそろ帰るね」と言って立ち上がった。
「お茶とお菓子、ありがとう」
「いえ、また来てください」
部屋は暖かくなっていて、忍君の色白の頬が赤くなっている。
ふと、和箪笥の前に来た時に、畳の上に穴があるのが目に入った。
すぐに目を逸らした。
玄関まで行って、忍君に改めてお礼を言って戸を閉めて帰った。
畳の上の穴は、鋭利なものでグリグリと削り取られたような跡だった。
あの穏やかな雰囲気の忍君が住む空間の中で、明らかに異質な"部分"だった。
忍君の穏やかな雰囲気と、お母さんが作った穏やかな表情のタヌキの置物。
そんな、穏やかな親子が暮らす平和な居間…
一体、どんな経緯であの畳の上の穴が出来たのだろう。
でも、そんな風に考えるのが悪い気がして、頭を左右に振って湧き出る言葉を弾く。
私は、忍君の事を本当に何も知らない。




