自覚
この章の裏テーマは、恋とは何ぞや? であります。
自覚はしましたが、その仕方も、人それぞれですよね。
蓮と思いもよらない再会をした時、セイは意外にも冷静だった。
いや、いつもよりは取り乱したが、蓮が完全に怪木に取り込まれて、人形のごとく操られる様を見ても、思考停止にまでは至っていなかった。
だから、一瞬驚いた後、すぐにキィに指示を出した。
このまま、怪木を完全に滅せば、蓮の長年の願いもかなう。
それならば、躊躇う必要はないではないかと、ほぼ即決だったのだ。
大事な相談事をする間もなく、この状態となってしまったのが心残りではあるが、こうなっては仕方がないと、完全に割り切っていた。
水月が横やりを入れ、蓮が生きていると知らされるまでは。
市原家に連れてこられたセイが、急遽戻ってきた葵と顔を合わせるまでに、胸に渦巻いていた感情の多くは、激しい後悔だった。
何故、あそこで安心したのか。
自分は、蓮の望みを叶えるのを、良しとしていたのではないのか。
同時に、助けたいと強く思っている自分に、混乱していた。
客間に正座してうつむくセイを見つけ、職場から直帰した葵は、その前に同じように正座した。
身長差で、どうしても見下ろす側になる葵が、そのまま若者の顔を覗き込む。
「……セイ? 大丈夫か?」
ドスのきいた、しかし柔らかな声が、恐る恐るセイの顔を上げさせた。
「葵さん……私は、どうしたんだろう? 可笑しな考えしか、浮かばないんだ。朱里も、こんな感じだったのか?」
自分でもおかしいと思えるほどの、弱弱しい声だ。
葵は、顔を歪ませた。
蓮の状況を思ってか、自分の状態を思ってか、泣きそうになるのをこらえて、無理に笑顔を浮かべてくれる。
「朱里とお前では、状況が違うだろ? まだ、気持ちが追い付いていねえってのに、とんでもねえ状況になっちまったなあ」
頭をすっぽり包む手のひらが、セイの頭を優しくなでた。
「すまねえな。これくらいしか、してやれねえや」
「……」
不器用な慰め方だが、その温かく大きな手のひらを感じて、力が抜ける。
同時に、本音が溢れてきた。
「どうしよう。助けても意味がない」
水月は鼓動があると言っていたが、それだけでは意味がない。
怪木の生き物への乗っ取り行為は、心臓から狙われるわけではないのだ。
だから、言われた直後はつい安堵がよぎったが、すぐに問題を思い出した。
一度安心したがために、次いでやってきた不安の反動は大きく、衝撃と共に激しい思いが、セイの心を混乱させていた。
「意味がないと分かっているのに、助けたいと思ってしまっているんだ。そんなことを知られたら、蓮に恨まれる。なのに、あの人が完全にいなくなるのは、嫌だと思ってるんだ……」
「そうか」
「何なんだろう、これは? 本当に、私は可笑しくなってしまってる」
弱弱しい声の、心からの叫びを吐き出すように告げた若者の背を、葵は優しい手つきでたたく。
「可笑しくなんかねえよ。こんな調子の時だからこそ、正直な感情が表に出ちまったんだよ、きっと」
「正直な感情……?」
何だそれ?
そんな表情で顔を上げたセイに、大男はくしゃくしゃに笑いながら言った。
「やっと、自覚できたんだなあ」
「自覚?」
「ああ。お前は、この世からいなくなられるのが怖いほど、蓮を好いてるんだよ」
黒い目を見開いて、若者は固まった。
「す、好き? それは、あ……」
困惑していたのは、意外にも少しの間だった。
何かに思い当たったのか、目を見開いたまま呟く。
「そうだったのか。あの日、他の誰を見ても何も感じなかったのに、何で蓮を見たら美味しそうだって思ったのか、不思議だったんだ」
「ん? 何の話だ?」
「あの人の何もかもが美味しく感じて、薬が効いている間、食いつきたい気持ちを止められなくなっちゃったんだ。そうか、だから……」
「ち、ちょっと待て。本当に何の話だっ? これ、オレが聞いて、いい話なのかっ?」
思わず、セイの口を手のひらで塞いでしまった葵は、廊下で聞き耳を立てているはずの面々に声をかけたが、全く反応がない。
代わりに、合点がいったと目の焦点を合わせ、セイは口を塞がれたまま呟いた。
「そうか。好きだったから、美味しそうだったんだ」
「何で、そうなるんだよ……」
女の声が、廊下の方で呟いた。
反応がなかったのは、聞き耳を立てていた全員が、脱力してしまっていたせいらしい。
「……最終的に、食い意地の話になるんだな、この子は」
何とか立ち直った男が、襖戸を開けて部屋の中に入ってきた。
赤みがかった黄色い髪の男の後ろから、雅も続いて入ってくる。
「ロンにも連絡を取りましたので、古谷家の方で落ち合えます」
雅の後ろから、葵よりも大きな男が顔を出し、そう声をかけた。
それに頷いてから、雅が言う。
「焦らず、これからのことを決めてくれ。私たちは、いつまでも待つ」
言い切った女と、それに頷く男たちを見回し、セイは姿勢を正した。
妙にすっきりとした感覚を覚えるその動きに、相対する男女も慌てて座り、葵も座りなおす。
「決めた。ミヤ」
「何?」
「シュウレイさんを、呼んでくれ」
「分かった」
座った直後なのに、雅はすぐに立ち上がり、市原夫人の元へと向かう。
その間に、若者は他の男たちに言った。
「……保険も欲しい」
「はい。任せてください。もしもの場合は、絶対に、守り抜きます」
頷いたのは、市原夫人の腹違いの兄で、セイにとっても身近な兄貴分の一人だった。
「ですが、あくまでも保険です。それを、忘れないでください」
「ああ。勿論だ」
とんとん拍子に話が進み、カ・シュウレイが市原家に訪れた数十分後、セイは古谷家に戻ってきたのだった。
年長者の二人が驚く中、セイは静かに言った。
「怪木の傍に向かう間、足止めをお願いします」
「……」
「その前に、エン。お前、何か報告し忘れてはいないか?」
頭を抱え込んだ兎の隣で、衝撃から覚めた水月が、娘婿候補の名を呼んだ。
「忘れてはいません。話すまでもないと、思っていたことがあるくらいで」
穏やかに答えるエンを胡乱な目で見やり、ロンを見る。
すると、ロンは楽し気に答えた。
「樹木を逆さに植え替えて、その地を中心に広範囲にわたって害をもたらす。そんな画策は、異国では定番よ」
特に、日本が異国と多く交わるようになった頃、とある国が考え出した政略法の、裏方法の一つだった。
「古くは、中東の方の妖しが、人間を近づけないために使った法だったんだけど、当の人間もそれを用いるようになったころがあったのよ」
だから、長くその怪木と没交渉だった者より、ロンとエンは経験値があった。
「……あの手の樹木が人を取り込むとき、真っ先に狙うのは、脳です。話を聞く限りではおそらく、細かい血管の細部に至るまで、根を張り巡らせて操ってしまっている、最終段階の触り部分の状況だと思います。だから、普通の人間ならば、怪木だけ滅して助けだしても、良くて廃人です」
「蓮ちゃんも露草ちゃんも異形さんだから、その頑丈さに期待する形になるわねえ」
「木の根は、本体がなくなれば消える類か?」
楽し気な声が、憎らしい。
苦い顔になった男の横で、頭を抱え込んでいた兎が、そのまま問うのに、エンはきっぱりと答えた。
「実態がありますからね、それはないです」
「そうか。ならば、暫く二人をかくまう場を見つけねばな」
苦し気な獣は、どんな状態であれ、二人を助ける気でいるようだ。
「……医学の療法で取り出せるならばそうしますが、本当に精密な手術になると思います」
「ああ。その辺りは、助けてから考えよう」
ゼツの医者としての言い分に頷き、兎は水月を見た。
「親元には、どのくらい隠し通せる?」
「もう、伝わっている」
「……」
呆れた顔をされたが、これは仕方がない。
自分たちは、所詮雇われの護衛だ。
露草の心境や現在の状況も、この地に入るまでに報告済みだった。
「雇い主への報告は、必須だからな」
「そうか。ならば、父方にも知らせておくか」
そのうえで、責任を持つ。
これは、水月もそのつもりだった。
家の間取りを見つつ、何処からの侵入が妥当か、どういう足止めが有効か、そのほか細部の打ち合わせが終わった後、ようやく気になったことを確認した。
「……シュウレイに、託してきたということで、いいんだな? あの女は、信用できるんだな?」
答えたのは、雅だ。
「信用云々ではないです。もとより、この子の覚悟次第で、適当な言い訳をして誰かに頼むつもりだったんです。それを、急遽前倒しにして、偶々条件の揃った人に頼んだだけなので、あなたが気にすることではないです」
「適当な言い訳? どんな言い訳を考えて……」
言いかけた水月は、雅の不思議そうな顔に気付いた。
そして、優の話を思い出す。
「……ああ、成程。誤解を招くような言い方で、完全に煙に巻いたのか」
「そういうことです。シュウレイさん、胸をたたいて引き受けてくれたんですよ。代わりに、私たちはあの人の子も、養い育てますけど」
順番が、逆になったなとしんみりと思ってしまった。
顔に出したつもりはないのに、雅は父親の心境を思って小さく笑った。
「いいんですよ。これから、あの家系は荒れます。生まれてくる子供を、巻き込みたくないですし」
「?」
「内側から、完全に崩壊させるので、あの人たちに子育てなんかしている暇は、ないと思います。セイを相手として指定したので、私たちが疑われることもないでしょう。もう、兆しは出始めているのに」
「自分たちの子育ての予行練習だと思えば、どんな人の子供でも、可愛がれます。子供に血筋は、関係ありませんからね」
これは、相当ご立腹だ。
優しく微笑みながら言い切った娘に、娘婿候補も他の二人も、当然そうだとばかりに頷いているのを見ると、相当の画策を始めているようだ。
もっともそれに、自分が係わる理由はないなと、この件に関しては高みの見物を決め込むことにした水月だったが……。
まさか自分が、思いもよらぬ形で引き金になっていたのを、この時は知る由もなかったのだった。
ここで、甲斐性なし全員が、沈没いたしました。
究極の天然、目からうろこ状態です。