忍耐と衝動
文字数が半端であったがために分けましたが、この章は極端に少なくなりましたので、前章と同時投稿いたします。
さて、誰が一番のクズなんでしょう?
話し合う父親と伯母を残し、古谷家を出た蓮は、無言で弟とも別れようとしたが、釈然としないコウヒは引き留めた。
「何で、あんたが親父より、クズ呼ばわりされねえといけないんだよっ」
「……クズだったからだよ」
叫ぶように問う弟に、蓮は静かに答えた。
小さく自嘲気味に笑いながら。
「本当に、クズだ、オレは」
「いや、薬でおかしくなったセイと、一線超えちまったのなら、それだって、仕方ねえだろうっ? 悪いのは、仕掛けた親父であって、あんたじゃない」
「……そうか、お前は、そんな考えなんだな。惚れた女本人が、本位でないのに誘ってきても、これ幸いと思っちまうのか。その考えが普通ならば、オレの方がおかしいだろう」
答えて振り払うように歩き出す兄に、コウヒは縋りついた。
「駄目だ、諦めるなよっ。あんたには、幸せになってほしい」
「無理だ。大体、オレだけ幸せになって、何になる? あいつは、オレではなく、伯母さんを選んだ。もう、取り戻せねえ」
言葉を尽くせない。
何かの違和感があるのに、それを見出すために蓮と話したいのに、引き留めるすべすら思い浮かばない。
「伯母上が、クズと言い切るような、何をやったってんだ? その言いようじゃあ、あいつがおかしい時には、耐えたんだろう? なら、全然、クズの要素ねえじゃん」
だから、真っすぐに訊いてしまった。
蓮が振り返る。
「お前今、薬でおかしくなった女と、一線超えちまったのなら、仕方ないと言ったな? それは、惚れた女が相手でも、仕方がねえと」
「ああ。だって、そう言う、間柄になりてえ女に迫られたら、理性がもたねえだろ?」
「……あいつも、そういう考えだったんだよ」
だがそれは、蓮には当てはまらなかった、それだけだと、兄は言い切った。
「……へ?」
「オレは、あいつの本意じゃない状態での誘いに、どうしても乗れなかった」
だから、我慢したのだ。
セイの体から自然に薬が抜け、一時意識を失うまで。
蓮は一切、手を出さなかった。
「……」
だが、ホテルの部屋でのその誘いと、部屋から自宅への帰りでの体の接触で、蓮の我慢は限界になっていた。
「……ホテルでも、自宅でも、あいつが目を覚ますまで、何度も冷や水を浴びて、必死に抑えたが、どうしても収まらねえから、あいつが目を覚ましたら、車を呼んですぐに家に帰そうと、そう思ってた」
目を覚ましたがぼんやりとした様子のセイに風呂を勧め、適当な着替えを出してそれを身に着けさせるまでは、我慢できた。
あの言葉がなければ、車を呼んで送り出すこともできたかもしれない。
それをする前に、セイが暗い顔で謝罪したのだ。
「何をしたのか思い出せないが、オレには迷惑かけたと、そう謝られた」
気にすんなと、軽く笑いながら言う余裕も、その時には取り戻していた。
いつも通りに戻ったセイを、間近で感じたせいで安心したからでもある。
安堵した蓮は、次の言葉を聞くまで油断していた。
「良かった。あのまま間違いがあったら、あんたの本命にまで、申し訳ないことになっていた」
「……あ?」
思わず乱暴な返しをしてしまったが、セイの様子は変わらない。
これが普通だと分かっているから、怯むことがないのだ。
見下ろした先の女は、微笑みながら続けた。
「私みたいな奴にも、そういう気配りができるんだから、きっとあんたはこれから、婚約者役なんか雇わなくても、すぐに伴侶が出来るな」
「……おい」
低く呼ばれて顔を上げた女に、蓮はつい顔を寄せて凄んでしまった。
「何で、本命が、薬でおかしい状態で、誘いに乗れると思ってんだ?」
「? いや、そうじゃないのか? だって、好きな人に誘われたら、嬉しいだろう?」
戸惑う顔のセイの目は、蓮の鋭い目にさらされて泳いている。
「好いていない女に、誘われたら、我慢もするだろうし……」
「それ以前に、興味もない女相手なら、あのままホテルのシャワールームに押し込んで、水風呂に入れて興奮を覚まさせたうえで、放置してる」
勿論、頭が冷えた時を考えて、女の従業員に声をかけて、部屋にルームサービスでも頼んで、様子を見に行かせる気づかいくらいはすると言うと、セイは目を見開いた。
「そ、そうなのか。え? 何で、そうしなかったんだっ?」
「あのな……オレはお前に、再三、伝えてるつもりだぞ。何で、響いてねえんだよっっ」
この時にはすでに、二人の顔は際際まで近づいていた。
叫ぶように言ったのに驚き、身を離そうとしたセイの体を、蓮は完全に腕で包み込んで、捕まえてしまった。
着ていた振袖と小物、鬘を詰めた袋を床に落とし、反射的に抗う女に言い切った。
「もう、我慢できねえ。決めた、今日は、帰してやらねえ」
「は、は?」
混乱した声を上げるセイを、蓮は抱え上げて寝室へと向かっていた。
体中の血が、煮えたぎっているように熱く、それは中々収まらなかった。
長く思い続けていた分、溜まりにたまっていたのだろう。
「……引いたと思ったら興奮が蘇って、結局、朝方まで離せなかった」
しかも、朝になって寝顔を見ているうちにも体が高ぶってしまい、これは流石にまずいと思い、風呂で体を冷やした後、眠っているセイを残して外に出た。
朝食と着替え、置手紙を置いて出たので、数時間後に戻った時には、置手紙の返事を残して、女は姿を消していた。
自分がいた痕跡も掃除し、朝食の礼と置手紙上の謝罪への返事も律義に書いて、セイは元の生活に戻ってしまったのだ。
「あれ以来、さっきは久しぶりに会ったんだ」
溜息と共に言う蓮に、コウヒは言葉が出ない。
「あれが、あいつの答えなんだろう。伯母さんの腹の子を引き受ける代わりに、オレからも逃げるつもりだ」
「蓮、それは、おかしくねえか?」
返したものの、何がおかしいのか、分からない。
「だあっ、変なのに、何が変なのか、分からねえっっ」
だから、そのまま立ち去る兄の背を見送りながら、コウヒは頭をかきむしるしか、なかったのだった。
もどかしい感覚の行き場を探るために、コウヒは自分の息子の義理の子供たちの父親に、愚痴交じりの相談をしたのだった。
話を聞き終わった健一が、師匠の心境を察し、涙ぐんでいる。
その横で、伸が真顔で首を傾げる。
「……? クズ? いや、どちらかというと、セイさんの方が、酷くないか?」
「ひ、酷いよ、セイさんっっ。師匠の体目当てだったのかよっっ」
「それも、違いそうだが……」
考える伸の言葉に頷き、リンが真顔で言う。
「手に入れたのなら手に入れたで、覚悟を決めて責任まで取らないと、男じゃない」
「うん。逃げたのがまず、卑怯だよな」
ユメも真剣に頷く中、巧が大きく唸った。
「でもさ、もし、責任を持つつもりで告白して、プロポーズまでしたとしても、セイ本人が断ったら?」
「それです」
話を無言で聞いていた千里が、静かに割り込んだ。
「あの人は最近まで、私の教え子の一人でした。年末にそんな事態に合っていたら最悪、あの人は行方知れずになったまま、卒業を迎えたかもしれません」
「いや、先生、あの人はそこまでぶっ飛んだ人じゃあ、ないですってっ。師匠は、師匠は、割り切れるときは割り切れるんですっ。当時の余裕ない状況でも、セイさんに渾身のプロポーズをして、例えあの口調で断られても……あれ? 駄目だ、監禁してる映像が、見えるっ」
誠実な人が、一転して犯罪者予備軍だ。
それを思うと、蓮の先の行動は、正しかったのだろう。
だが、今の事態を思うと、犯罪行為でも何でもして、既成事実に持ち込んだ方が、良かったのではとも思う。
「それは、極論過ぎる」
伸は、混乱してとんでもない考えを口にする友人を窘めつつも、溜息を吐く恩師を伺った。
「……合意の上、と聞いていたんだが」
「え?」
「いや、こちらの話だ。新たな情報、感謝する」
何故かお礼を言われ、伸は顔を引きつらせた。
すぐに暇の挨拶をして家を辞そうとする教師を見送る名目で、一緒に外に出る。
「先生」
「……」
「今の話、何処までご存じだったんですか?」
確信を込めた、しかし恐ろしい予想に声を震わせる元生徒に、千里は小さく笑って答えた。
「年末のバイトの話は、許可を与えたので知っていた。和服を着ての宴会での接客だと言うのも、その時給も把握していた。だが……」
笑いは乾いたものに変わり、教師はジャケットのポケットから取り出した、ボイスレコーダーの電源を切りながら言った。
「誰かの婚約者役というのも、そのバイト先があのカ家の会場だと言うのも、ましてや、女として接客することになっていたのも、初耳だ」
「……」
蓮の弟であり、自分たちの義理の祖父に当たる人が感じた違和感の正体に、伸はそこではっきりと気づいた。
気づいたが、それを伝えるすべはない。
自分の恩師の一人である女教師が、自分の家を辞する背を見送りながら、一人恐怖で震えていた。
……これは、一つの会社が、跡形もなく消え去るか否かの、瀬戸際の話になりそうだ。
飼っていた猫が、十二月の初めに亡くなりました。
十九歳で、大往生といっても過言ではない、静かな逝き方で、なんとなく気は抜けております。
六匹いた猫は、これで全員見送ったことになりますが、実はまだ、柴犬がいます。
十三歳の雄。
猫がいた分、甘えることを我慢していたヘタレ犬は、現在不器用なりに、甘えたになっているようです。