青天の霹靂
遅ればせながら、新年、明けましておめでとうございます。
本年度も、小目汚しの話を届けさせていただきます。
お手柔らかに、よろしくお願いいたします。
最終話のプロローグは、こんな感じであります。
三月も半ばを過ぎた、昼食時。
薬剤の製造から販売まで、幅広く請け負う大手会社の社長、カ・セキレイは恐ろしい場面を目撃した。
いつも元気すぎるほど元気で、こちらの病弱ぶりを少し分けてやりたいくらいの姉が、トイレに駆け込んで食べ物を戻している場面だ。
食べたものはごくありふれた肉料理だが、姉シュウレイの大好物のはずだ。
なのに、一口食べた途端口を抑え、席を立って食堂から走り去ってしまったのだ。
「何か、呪い物でも仕込まれたかっっ」
混乱して大騒ぎするセキレイに乗じて、近くにいた従業員たちも混乱に陥っている時、当のシュウレイがトイレから出てきた。
「姉上、大丈夫ですかっ?」
血相を変えた弟に縋られ、狼狽えたシュウレイは、目を泳がせながら頷く。
「だ、大丈夫だよお、うん。ちょっと、胸焼けしただけ。飲みすぎ?」
取り繕いのその言葉に、セキレイは納得しかかったのだが、近くにいた血の繋がらない息子が、目を細めて余計なことを言った。
「伯母上、最近、酒飲んでないですよね? 飲みすぎって、何を?」
「はっ、そうだっ。酒を飲まない姉上も、おかしいと思っていたんだっ。どこか、体の具合でも? 矢張り、何かの呪いを……」
「違う違う」
あらぬ心配をする弟に、シュウレイは困った顔になった。
「うーん。まだ言わなくていいかなって、そう思ってたんだけどなあ。ちょっと、最近酷いんだよ。……つわりが」
場が、水を打ったように静まった。
「……何だって? 今、おかしな単語が、聞こえたような……」
聞き違いだ、そう思い込もうとするセキレイに、シュウレイは少しだけむっとして、もう一度言った。
「つ・わ・り。時期的に、三か月目に入るとこ。赤ちゃんが、できたのっ」
本社中に、激震が走った。
従業員の中には、シュウレイに憧れる者が、男女問わず多数いる。
話は一気に本社中に広まり、お祝いムードと弔いムードが同時に訪れると言う、奇妙な状態になってしまった。
「……相手を特定しようと、親父も食い下がってるんだけどさ、何故か口を割らないんだよ」
「口を割らせる必要が、あるのか? 時期的に相手は特定できるだろう?」
大体、責任を取らせて、大事な姉を嫁にやるなど、二度としようとは思っていないはずだ。
大昔、相思相愛になった男と所帯を持ち、その後行方を眩ましてしまった過去を持つ姉を、セキレイはもう傍から離すつもりはないと、実の息子の蓮の前でも豪語するほどだから、何のつもりで相手の特定を試みているのか、今一分からない。
会社近くのカフェで待ち合わせた、学校帰りの父親違いの兄の言葉に、コウヒは困ったように答えた。
「嫁にはやらないが、一発殴らせてもらうんだと、拳固めてた」
「無理だろう。親父の拳の方が、潰れる」
相手が誰であろうが、そうなるだろうと言う蓮に、更に困った顔で苦笑しながら頷いた弟は、続けた。
「それは自分でも分かってるから、あんたを呼びたいってことだろ」
「……それはつまり、オレに代わりに殴れ、と?」
この地からは離れたくないと言うより、何となく誰かと何かを共有したいと言う複雑な思いから、この地の有名大学に進学を決め、一年猛勉強したのち、あっさりと合格して通い始めて、二年経った。
四月からは三年への進学も決まり、同期は将来の事を始めている頃だ。
後二年、大人しく大学に通った後は、元の仕事に戻るつもりの蓮は、その点の心配はしていないが、後の卒業に障る問題行動は、避けたい。
そんな軽い懸念を持つ兄に、コウヒは軽く言った。
「相手が、伯母上好みの男なら、その程度で何処かに訴えるなんてことは、しないはずだ。だって、時期的に、あのパーティに出席していた男であるのは、間違いないだろ? 逆に子供だけ、奪いに来そうな人もいたし」
殴らせてもらうために男を特定するつもりのようだが、その後もあり得るという事だ。
「あんたに殴らせると宣言した親父に、伯母上相当焦ってたから、適当な男を見繕ってくるかもしれねえけど、裏を返せば、あんたと喧嘩をしたら、周囲に迷惑かけそうな人、ってことだ」
言葉の内容は薄いが、自分たち兄弟の中ではそれで十分だ。
要は、宣言した父親に慌て、連れてくるからと伯母が言い切ってしまったのだろう。
本格的に探されてしまったら、相手にもこの事実を知られてしまうのを恐れているようでもある。
「……うん、蓮も、あの辺りの人だと、思っちまうか」
「まあな、あの場で、探し回ってただろ? 伯母さん」
当社の発展を願い、その身内を集めて開かれたパーティは、日本の高級ホテルで行われた。
会社に関係する客たちの他に、これからお近づきになりたい会社の関係者にも声をかけ、警備や料理人などを臨時に雇っての、豪華なパーティとなった。
その警備を担当する会社の社長は最近代替わりし、その社長の父親に当たる人は、ある事情で出席できなかった。
そのため、従業員たちと秘かに会場に入り込んでいた社長は野放し状態だったのだが、その社長を探し回り、時々警備の従業員たちに笑顔で話しかける、シュウレイの姿を目撃していた。
あの後どうなったのかは、蓮も知らない。
こちらも、それどころではなかったのだ。
その発端でもある父親と、暫くは距離を置きたいと思っていたのに、父親の方が放っておいてくれなかった。
舌打ちをしてしまってから、大事なことを尋ねる。
「で、伯母さんは、そいつをいつ、連れてくると言ってるんだ?」
「日にちはまだ決まってない。ただ、親父の気が急いてるから、そう長くは待たせないと思う」
どうもまだ、その辺りの話は決まっていないようだ。
また舌打ちしてしまってから、蓮は言った。
「なら、顔合わせ場所と日付が決まったら、教えろ。それまでは、連絡するな」
「蓮……親父も、相当反省してるからさ、一度謝罪の場を、くれてやってくれよ」
「ふざけんな。これを許したら、本当にクズになっちまうだろうが」
ただでさえ色々と、しでかしていると言うのに。
蓮は、苦い顔でその言葉を飲み込んだ。
だが、恐ろしく勘の鋭いコウヒは、怪訝な顔をした。
「別に、蓮自身がクズに成り下がるわけじゃねえじゃん。セイ自身だって、気にする性格じゃねえし」
黙り込んでしまった兄を、そのまま見つめたコウヒは、素直に尋ねた。
「あいつ、高校卒業しただろ? 祝いくらいはしてやったのか?」
「……」
「大学も出ろとか、周囲には頼まれてたらしいが、その後の話は、知らねえの? 蓮と同じところに……」
「知らねえ」
低く答えた蓮は、目を見開いた弟にゆっくりと言った。
「あれから会ってねえから、知らねえ」
「蓮……親父の咎は、親父のもんだぞ? あんたが後ろめたく思う必要は……」
「兎に角、決まったら知らせてくれ。それまでは、連絡しなくていい」
取りつく島を与えずに言い切ると、蓮はそのままその場を後にした。
相手との面談の場所と、時間を伝えられたのはその翌日で、その日の午後には顔合わせに立ち会う事になったのだが……そこからが、修羅場となった。
顔合わせ場所が、古谷家の客間と言うのを聞いた時、多少の嫌な予感はあった。
だが、シュウレイが腹をくくり、相手本人と話を付け、この場に望んでいるのならば有り得るからと考え、その予感を振り払ったのだ。
古谷家を使うという事は、それにつながる人間を巻き込んだという事に他ならず、先の希望は本当に儚い希望であるから、カ一家はそれ相応の覚悟を持って、古谷家を訪ねた。
家の前で父親と久しぶりに会った蓮は、伯母のシュウレイと弟のコウヒを間に挟んで、畳部屋の客間に座った。
今は結婚し、落ち着いてきた古谷志門が茶を運んできた後、綺麗な長身の若い女が、優しい顔立ちの男と客間に現れた。
自分たちと遜色ない体格の男を見て、セキレイが戸惑ったように呟いた。
「エン、お前、こっちにも来れるようになったのか?」
「はい。ご存じのように、水月さんの方がそれどころじゃないので」
森口水月は、本社勤務中だ。
戸籍上の父の全ての権限を譲られ、様々な問題がのしかかっていた。
エンの方は、そこそこ落ち着いてきているので、こちらにはかかわらなくてもいいだろう、という結論に達しているらしい。
「それに、シュウレイさんにお話を聞いた時、これは立ち合いがいるなと思った次第です」
優し気にそう言ったのは、その水月の娘だ。
黙っていれば、本当に似た親子だ。
動くと、全く別人だと思い知るが。
女の言葉を聞いたコウヒが、戸惑ったように隣に座るシュウレイを見た。
素知らぬ顔の伯母は、水月の娘である雅に声をかける。
「準備はできたの?」
「勿論。準備と言っても、待っていただけですし。あなた方が来るのを、心待ちにしていました」
「そう」
笑ったシュウレイの顔は、何処か陰気に感じた。
何かを企んでいるようなのだが、それが何なのか思い当たる間は、なかった。
「お待たせしました」
無感情な声が言い、酸っぱい匂いの漂うカップを両手に、小柄な若者が客間に入って来たのだ。
戸惑う客たちに構わずシュウレイに笑いかけ、その前にカップを一つ置く。
湯気の立つその飲み物は、レモン湯のようだ。
「わあ、ありがと。まだちょっと、吐き気があるだよねえ」
嬉々としてそのカップの中身をすする女の向かいに座り、その前にもう一つのカップを置いてから顔を上げ、ようやく客たちに目を向けた。
そして、首を傾げる。
「……どうしました?」
若者セイの呼びかけにも反応しない男の客たちに、エンが微笑んだ。
「こんなに分かりやすく、鳩が豆鉄砲を食らった顔をしてくれるとは。立ち合った甲斐がありました」
「カメラに収めたいよね? エン?」
「残念ですね。そう言う機器は、持ち歩いていないので」
呑気な男女の前で、ようやくセキレイが動いた。
己の隣にいる姉と、向かいのセイを見比べ、低い声を上げる。
「これは、何の冗談だ? いくら、男の正体を知られたくないからと、言ってもだな……」
「知られてしまったじゃないですか」
言いかけた言葉は、穏やかな腹違いの弟の声に遮られた。
「正真正銘、この子が義姉上の、お相手です」
「そんな馬鹿なっ」
コウヒが悲痛な声を出した。
「伯母上とそう言う仲になる間は、なかったはずだろうっ?」
「あったよお」
シュウレイがのんびりと答えた。
その際、黙り込んだままの蓮を一瞥したのだが、その目は限りなく冷たかった。
「あのパーティの後、蓮はこの子を放って、自宅を離れただろ? それを聞いた時、本当に可哀そうになっちゃって。ついつい……」
「シュウレイさんが、出会いがないと嘆いていたもので、私もついつい……」
顔を赤らめて見せるシュウレイと違い、セイの方はいつものように無感情に続けた。
だが、そんな棒の台詞よりも、その台詞の中身の方が衝撃的だった。
「そ、そんな勢いで、出来ちまったとっ?」
セキレイが青ざめて言い、コウヒは別な意味で青ざめた。
信じたっ。
「お、親父っ?」
「れ、蓮っ。自宅に連れ込んで置いて、放置してたのはまさか、オレの仕掛けのせいかっっ?」
「……」
「ああああああ」
無言のままの息子を見て、セキレイは頭を抱え込んだ。
コウヒも別な意味で、頭を抱え込みたくなる。
親父が、壊れたっっ。
そんな客たちを見ながら、セイは心なしかいつもより青白い顔で、首を傾げている。
その若者を挟んで座る男女は、笑顔を浮かべて見守っているが、どちらも目が笑っていなかった。
何かの企みに、シュウレイも乗せられていると分かったコウヒだが、それを指摘するには相手が悪すぎた。
「あ、兄貴……」
思わず、いつもの名前呼びから、幼い頃の呼びかけ方で蓮を呼んでしまったが、呼ばれた兄は無反応のままだった。
不味い、このままでは、本当に……。
言いようのない危機感にかられ、何とか若者を正気に戻そうと言葉を探すが、その前にシュウレイが、冷たく止めを刺した。
「……セキレイ以上のクズから守るには、これが一番だろう?」
実の甥っ子を見やる眼は限りなく冷たく、その目を向けられたわけでもないコウヒですら、凍り付きそうだ。
その目線よりも、発せられた言葉に反応し、蓮が弾けるように顔を上げる。
「自分がやらかしたこと、深く反省しなさい。それでも、許せる所業じゃないけどね」
完全に黙り込んだ蓮を、信じられない思いで見つめている間に、弟たちが宣ったことを信じたセキレイは、彼らとともに今後の話を進める。
とんとん拍子に決まることを止められる者は、誰もいなかった。
話を捻り過ぎて、逆に分かりやすくなっていたら、つまらないかなとは思いますが、これも一興であります。
ただ、楽しんでいただければ。