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国破れても家族あり


 エルンスト陛下の皇帝即位とプロジャ帝国の成立宣言を、西方圏(オチデント)各国は平静に受け止めた。


 いまやデウチェの盟主がプロジャである点に疑いの余地はなく、国際的にすでに承認されている君主が「王」から「皇帝」に称号を変更するにあたって、とくに規定があるわけでもない。

 両バルトポルテのように、国家元首として国際的な承認を得る前に国民投票で過半数の支持を集め、「皇帝」を称するようになった者もいるのだ。


 したがって、エルンスト陛下の皇帝登位に異を唱える国はなかった。各国はメロヴィグの不安定化に懸念を表明し、プロジャに早期の講和締結と撤兵を求めたのみで、その勝利と帝国化は滞ることなく承認された。


 ……まあ、わがアドラスブルクなんかは、神聖皇帝位をそのまま引き継いだわけでもなく、国民投票とか諸侯からの推戴文取りまとめもしてませんからね。「皇帝」称号の正統性に関して他国にとやかく言える立場じゃなかったりしますけれども。


 プロジャとしても、周辺国から言われるまでもなく、メロヴィグに敗北を認めさせて早めに手仕舞いしたかったのだが、問題はメロヴィグのほうにあった。


 皇帝バルトポルテ三世が虜囚となって以降の首都ペリムを指導していたメロヴィグ暫定政権は、帝国に衣替えしたプロジャが講和条件として突きつけた、東部二州の割譲と50億メロナの賠償に同意していた。

 ところが、寄り合い所帯であった暫定政権内の左派勢力が異議を唱え、市民を動員して中道派と右派を排除し、新政府樹立を宣言してしまったのである。

 首都防衛のために全住民に武器が配布されており、数すくない正規兵では徹底抗戦を叫んで議会に押し入る武装市民を止められなかった。


 こうして誕生したペリム・コミューン政府は、西方史上初の社会主義政権として、私有財産制と身分制の廃止を旗印に、メロヴィグ全土へ侵略者プロジャ帝国に対するさらなる抵抗を呼びかけた。


 講和を否定したコミューン政府によって、戦争はさらに泥沼化してゆく……かと思いきや、首都の赤化に、南部の王党派のみならず、ブライトノーツとの貿易で大きな利潤を得ている西部のブルジョワジーたちも反発と危機感を覚える。

 崩壊前の暫定政権の呼びかけに応じ、地方で新編成されていたメロヴィグ軍は、コミューン政府の指揮権を拒否してプロジャへ休戦を提案し、首都奪還に介入しないよう要請した。


 メロヴィグの内ゲバに関わりたくないプロジャは、暫定政権が呑もうとしていた賠償と領土割譲を守ることを条件に、西部ブルジョワ政府と南部王党派政府によるコミューン討伐を認め、包囲網を解いてペリムへの道を開けた。

 以降プロジャ軍は傍観に徹し、首都ペリムをめぐってメロヴィグ人どうしで血が流されることとなる。


 ……かくして、第三国の王位継承問題に端を発した二大国の戦争は、敗戦国がわの二度に渡る政権崩壊と内乱という結果を迎えたのであった。


 コミューンを鎮圧した王党派とブルジョワ派は、厭戦気分の蔓延する世論に応じ武器を収めて、選挙で雌雄を決することで合意し、最終的にメロヴィグは共和国となる。


 もうしばらく、さきの話だ。


    +++++


 メロヴィグの情勢が二転三転する中、バルトポルテ三世やルティアーナ妃、そしてアンリ皇子がどうしていたかというと――


 タロンで降伏したバルトポルテ三世は、病身を押して陣頭指揮を執った反動に襲われたか、体調を崩し床に伏せっていた。

 エルンスト陛下は、かつてボルヴァナト家の所領であったカールスーエ城での療養を勧め、バルトポルテ三世は幼少期に数年滞在したこともある懐かしい土地で、傷ついた心身を休めることができた。


 夫君の出征後、ペリムで摂政として銃後を守っていたルティアーナ妃は、バルトポルテ三世が玉砕を選ばず降伏したことを聞いて、最初激怒したそうである。

 しかしそれもつかの間、皇帝俘虜のうわさが広まるや、たちまちのうちに共和派が帝制廃止を叫んで議会を制圧し、市民も呼応するのを目の当たりにして、読み違いしていたのは自分のほうだったと悟った。

 メロヴィグ人には節操も忠節もなく、仮にバルトポルテ三世がプロジャ軍の砲列へ突撃し名誉の戦死を遂げていようと、「新帝アンリ・バルトポルテ万歳」の歓呼が起きることはなく、帝室は見捨てられていただろう……と。


 持ち出せるだけの財産をまとめたルティアーナ妃はペリムから脱出し、バルディウムを経由してブライトノーツへと渡った。

 亡命メロヴィグ帝国政府を準備し、ペリムの節操なしや、プロジャに対して、正当性を主張するためである。


 せっかく捕まえたバルトポルテ三世を活用したいプロジャがわも、できれば帝国政府と交渉して話を早くすませたかったので、ルティアーナ妃とバルトポルテ三世の通信を許した。

 ……すでに触れたとおり、メロヴィグはボルヴァナト帝室にしたがわず、共和派、王党派、革命コミューン派にわかれてしまうのだけれど。


 それでも、マース要塞を無血開城させるなど、ルティアーナ妃の交渉は一定の成果をもたらした。


 父帝とともに前線に赴いていたが、タロン包囲戦の混乱でバルトポルテ三世と離れ離れになっていたアンリ皇子は、数名の近衛士官の献身でブライトノーツへ脱出し、お母上と再会を果たしている。


 正統メロヴィグ政府として共和国が確立し、プロジャ帝国とのあいだに正式な講和条約が結ばれたのち、カールスーエ城での軟禁を解かれたバルトポルテ三世はブライトノーツへ渡り、およそ一年ぶりに一家水入らずの時間をすごすことができたのであった。


 ……とまあ、メロヴィグ帝国の顛末について駆け足ぎみにお話ししましたが、わがアドラスブルクの運命に目を戻す前に、もうすこしだけ今回の戦争の結果とあとしまつについておつき合いください。


    +++++


 プロジャとメロヴィグの衝突を招いた、そもそもの原因であるイルパニアの王位空座に関して、戦勝後もプロジャはアルティック公子テオドールの辞退を取り消さず、不干渉を貫いた。

 このあたりは、機会主義で方針や主張をコロコロ変えない、デウチェ人らしい対応である。


 メロヴィグの発言力も敗戦によって失われたため、イルパニア暫定大総統フランシスコ=エラドは、()()カプリオ公ヴィンツェンツォに推戴状を送り、旧王統ベルボーン家から距離を取ることにした。


 ヴィンツェンツォが新王に選ばれた背景には、エトヴィラ革命闘士カリオッツィのメロヴィグ介入が、わずかながら影響している。


 旧カプリオ公国はエトヴィラの一地域であり、統一運動にともなってエトヴィラ王国に吸収されていたのだ。

 メロヴィグ民衆をプロジャ帝国主義から守るため、義勇兵として出向いたカリオッツィ自身に政治的思惑はなかったが、首相カティーノは、統一のために国を失ったヴィンツェンツォにあたらしい玉座を与えることでエトヴィラ内の不安定要素を減らそうと、奇貨を活かしたのだった。


 聖都ロミアを守備していたメロヴィグ軍駐留部隊が本国の危機に撤収した機も逃さず、エトヴィラ王国は残っていた教皇領をすべて併合する。

 こうして統一王国が完成(民族主義者はトライエットをふくむアドリアーナ地方も要求していて、わがアドラスブルクにとって頭の痛い問題が残っていたが)し、エトヴィラはプロジャとメロヴィグの戦争から、さりげなく大きな利得を挙げた。


 ……そして、ついに帝国となったプロジャである。


 看板こそ「帝国」なれど、内部で各邦国は維持されている、ということは、前回ちょっとだけお話ししたと思います。


 じつは、連邦化されたプロジャ=デウチェの国制は、帝国宰相ディズマールによって()()()統一されなかったのである。


 北デウチェ連合時代と同じく、帝国議会は一般普通選挙(女性選挙権はまだ実現していなかったが)の選出議員によって構成された。

 これによって多くの民主主義者、自由・共和主義者、社会主義者が議場に登壇し、宰相ディズマールとの対決姿勢を強めていく。


 いっぽうで、プロジャ国内議会の選出方式は納税額による制限選挙が維持された。デウチェ各邦にも、とくに選挙方式をあらためるよう圧力はかけられなかったので、普通選挙か制限選挙かは邦国によってまちまちとなった。


 帝国議会は主に外交と軍事について審議し、帝国全土で一律に施行されるべきものをのぞき、行政については旧来どおり各邦国の自治が優先された。


 全土で一律に法規定されるべき問題としては、たとえば労働時間の制限なんかがある。

 長時間労働を許容する邦国が一方的に競争力で優位とならないよう、帝国全体で同じ労働時間とするわけだ。こうした問題については、労働者団体を支持基盤とする議員や、社会主義者が大きな働きをしめした。

 法定休日の制定、児童労働の制限など、帝国議会の左派が社会福祉に貢献した役割は無視しがたい。


 ディズマールも、めぐりめぐって国民全体の教育水準が高まり、富国強兵の基盤となる、児童労働制限や労働者保護には理解があった。


 しかしながらディズマールは、自由主義者や社会主義者が政治の枢要まで踏み込むことを断じて認めなかった。


 責任ある君主による政治こそが、国家の安全と安定を担保するのである。皇帝不在となるや迷走したメロヴィグを見るがいい、議会や選挙は、真に国家へ身を捧げる政治指導者を育みはしない――それがディズマールの信念であった。


 そのため、一般選挙では決して国家体制の変更ができないように、ディズマールはプロジャ帝国の政治構造を複層化したのである。


 帝国憲法は、北デウチェ連合成立のさいに普通選挙によって選出された議会で定められた連合憲法を基盤とし、ほとんどの条文はそのまま引き継がれた。

 国家元首を「皇帝」とすることや、合流した南デウチェ同盟および、メロヴィグより割譲されたマルゼスとラングリンゲンを帝国の版図に加えると明記されたていどで、大きな変更はされなかったのだ。


 連合憲法が保証していた構成各邦の自主権もまた、軍事と外交を皇帝と担当帝国大臣の専権とするほかは、帝国憲法においても原則認められた。


 ……これつまり、仮に帝国議会の全議席が共和主義者や社会主義者で占められることになっても、帝制を廃止することはできないし、個別邦国の体制を君主制から変更することもできないという意味であった。


 なぜなら、デウチェ圏各国には、憲法が規定する事柄をのぞいて、帝国議会の決定に対する拒否権があるから。そして帝国憲法は、外交と軍事をのぞいてデウチェ各邦の主権を保証している。


 すなわち、帝国議会と、プロジャはじめとする各邦国の国内議会、そのすべてで絶対多数を得ない限り、国家体制の変更はなされえない。


 ディズマールは政策実行の機動性低下と引き換えに、いずれ高まるだろう民衆の政治参加要請から帝権を守る、堅固な防壁を築いたのであった。


 中央集権の強度を弱め分権化することで、逆に帝国の靭性を高めたディズマールの計略によって、デウチェ各邦国君主の主権はおおむね維持され、ヴァリアシュテルンのフィクトールがひそかに期待していた「王位の重圧からの解放」は果たされずに終わったのである。



地球における19世紀のドイツ連邦はじつをいえば連邦国家ではなく、ドイツ帝国の成立によってむしろ連邦化が完成したというのは、訳語だけ見てると「??」ってなることですね。

まあナポレオンのフランス帝国も、初代はともかく三世の第二帝政ではそんなに帝国らしさってないんですけど。


なお鉄血宰相ビスマルクが築いたドイツ帝国はもっと複雑なので、詳しく知りたいかたは専門書をひもといて脳みそのシワを深めてみましょう(実生活の役には立ちませんが)。

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