国より愛を選んだその報い
ヴァリアシュテルン王フィクトールとの会見を終え、わたしはアルフウェルデンを離れた。
わたしたちが交わした会話の内容は、一番近くにいたノルジードラ近衛大佐にも聞き取れておらず、ただ、深刻な表情での応酬ののち、どちらともに穏やかな顔となって、しこりが残ることはなかったようだ、と推察できるのみだった。
わたしもフィクトールもにこやかにわかれのあいさつをしたから、当然、わがアドラスブルクの外交団は、交渉が成功して、プロジャの帝国化計画は阻止されたものと思っていただろう。
……そう、わたしは従者のだれにも、フィクトールとなにを話したのか伝えなかった。黙ったまま汽車に乗り、ヴァリアシュテルン王都ミューゼンへ戻って、居残り(伯父一家のところで楽しんでいただけだが)していたヨーゼフを合流させてから、フィレンに帰ったのである。
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皇帝陛下に直接ご報告する、とだけ繰り返し、わたしは官僚にも大臣にもヴァリアシュテルン王との会見について話すのを拒否して、エルディナントさまのもとへ急いだ。
自分の失態を廷臣たちに知られたくなかったというわけではない。数日隠していたところで、フィクトールがプロジャ皇帝推戴に向けてディズマールと接触を継続しているというのは、すぐわかることだ。
ただ……まずエルにわたしの口から伝えなければならない、そう思っただけ。
特使団からは『交渉の首尾は上々の模様』と電信が飛ばされていたに違いない。執務の間でわたしを出迎えたエルディナントさまは上機嫌だった。
「お疲れさまセシィ。急な話の連続だったが、見事に務めを果たしてくれたね」
「陛下……わたし……」
わたしの様子が普通でないことに、エルは気がついてくれた。
「みな、退がれ」
皇帝陛下の命に、近侍たちも、外相ヒューメも、諜報局長ハルドシュタインも、うやうやしい礼につづいて退出していった。
デスクを立ったエルディナントさまが、わたしの間近まで歩み寄ってくる。
「ヴァリアシュテルン王と、いったいなにがあったんだ」
「申しわけございません。わたしは、アドラスブルクの、オストリヒテ=アジュール帝国の代表者として、国家の利益を守ることができませんでした」
わたしは話した。フィクトールから20年越しの想いの丈をぶちまけられたこと。わたしにとっては青天の霹靂としか言いようのない告白だったこと。口先だけでも愛を認めてさえもらえたら、すべてこちらの指示するとおりに動くとフィクトールはいってくれたけれど、わたしはそれを断ってしまったこと。
そればかりか、ヴァリアシュテルンの国益のために動くようにと諭し、わざわざディズマールと協力してプロジャの帝国化を進めるよう促したこと。
「――わたしは……嘘がつけなかった。彼の心を利用できなかった。ただ言葉で詐りの愛をささやけば、ヴァリアシュテルンをアドラスブルクのがわに引き止めておくことができたのに」
途中で割り込むことなく最後まで聞き終えたエルは、口を開くよりさきに、まずわたしを抱きしめてくれた。
耳もとで、いとしいひとの優しい声が響く。
「それがきみの誠実さだよセシィ。きみが守ったのは、私に対する操ではない。フィクトールの、彼の純粋さだ」
「わたしはアドラスブルクの帝妃として、アジュールの王妃として、国家の大事を個人の感情に優先させることができませんでした。そのくせ、フィクトールには国のことを一番に考えるようにだなんて、聞いたふうな口を」
「きみは正しいことをした。フィクトール王を説得できる可能性のある人間は、どのみちきみのほかにはいなかったんだ。うまくいかなかったにしても、きみが責任を感じる必要はない。すくなくとも、漏洩した書状の文体がヒエロニムス=ボッシュに類似していた、というほかに証拠もなかったのに、フィクトール王はディズマールとの共謀を認めた。プロジャは帝国となる、それが事前にわかっただけでも、不意討ちを食らうよりはずいぶん違うさ」
エルディナントさまが理屈っぽいときは、自分自身にも言い聞かせているときだ。プロジャが名実ともにアドラスブルクよりも強大な国となるのが避けがたくなった事態を、平静に受け止めるのは難しいはず。
「……プロジャ王が皇帝となるための条件は、ふたつです。プロジャの属国ではないヴァリアシュテルンの王からの推戴奏上と、すでに帝国化を成し遂げているメロヴィグに対する戦勝。プロジャの勝利を阻むために、メロヴィグと共闘なさいますか?」
お訊ねしてみると、陛下はわたしを抱きしめていた腕の力をゆるめ、こちらの肩に手をおいてすこし身を離す。
その貌は、現実主義の君主のものだった。
「帝国となったプロジャは、わがオストリヒテ=アジュールよりも格上の国家として内外から認識されるようになるだろう。それを防ぐために、アドラスブルク帝室のメンツのための戦争を起こしたとして、国家の利益をかならずしも満たすわけではない」
「ですが、もしプロジャがメロヴィグ全土を併呑してしまえば、デウチェにとどまらず西方すべてに覇を唱えることになります」
そうなれば、もうアドラスブルクにプロジャを止めるすべはない。
ルティアーナ妃との会見時点では、まだ南デウチェ同盟の動静が不確定だった。だからアドラスブルク帝国としてメロヴィグと組むわけにはいかないと答えることになったけれど、オストリヒテ以外の全デウチェが対メロヴィグで一致結束し、フィクトールの背中をわたし自身が押してしまった現状で、足もとの民族主義者の反発を怖れて手をこまねいていたら、さらなる危険を招きかねない。
エルディナントさまの眼に焦りの色はなかった。彼の瞳には、おびえるわたしの顔が映っている。
「プロジャとメロヴィグの緊張が高まる中で、ブライトノーツとリュースが早々に中立宣言をした裏には、ディズマールとの密約があるはずだ。まず間違いなく、戦争はプロジャの勝利に終わる。だが、プロジャはメロヴィグの地方をひとつかふたつ要求するにとどめて、全土併合はしないだろう。すくなくとも、今回はね」
「密約……」
言われてみれば、ブライトノーツとリュースが中立表明をするタイミングはみょうに早かった気がする。
メロヴィグ方面に全軍を集中させたプロジャの背後を脅かすことのできるリュース、メロヴィグに物資を供給し艦隊での支援も可能なブライトノーツ、どちらの立場からしても、自分たちをかなり高く売りつけることができるのだ。とくにメロヴィグからすれば、そうとうアコギなふっかけをされても、のどから手が出るほどほしい援護になる。
だから先手を取って、もうディズマールは両国への支払いを約束している……?
考え込みだしたわたしの顔を見て、エルディナントさまはにこりと笑った。
「いつもの調子に戻ってきたね。そろそろ会議をはじめようか?」
「陛下……いえ、エル、ありがとうございます。気負いすぎていました」
わたしだけがフィクトールに翻意させることができる、プロジャの帝国化を阻止することができる……アドラスブルク帝国を、自分ひとりで背負って立っているつもりになっていたかもしれない。
思い上がりもいいところだった。この国には、立派な皇帝陛下がいらっしゃるのだから。
エルとしばらく見つめ合って、どちらからともなくくちづけした。深く、激しく。
……会議の開始はちょっと遅れました。
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会議の冒頭で、エルディナントさまはごくあっさりとヴァリアシュテルンに対する外交工作が失敗したことを切り出した。
うまくいったものと思っていた閣僚や官僚たちのざわめきを制して、陛下はすでに決定ずみである、と有無を言わせぬ口調でつづける。
「この件で責任を負うべき者は存在しえない。帝妃はたしかに、プロジャ帝国化計画からフィクトール王を引き剥がすことができなかった。だが、わが帝国内でフィクトール王を説得しえた人材は、そもそも帝妃のみだ。最善のカードを切っての失敗に、責任を問う意味はない」
「皇帝陛下のご聖見に異存はございません。しかし、プロジャ王を皇帝へ押し上げんがための太鼓持ちという立場は、決してヴァリアシュテルンの王たる者にとって名誉ある役柄ではないはず。帝妃殿下の説得を受けつけないほどの理由が、フィクトール王にあったのでありましょうや?」
陛下の意見には逆らわない、という体を保ちつつ、疑義を呈したのは諜報局長ハルドシュタインだった。仕事柄、ものごとを微に入り細を穿って、粘着質に論証する性分が板についている。
それに答えるのは、失敗の当事者であるわたしの務めだ。
「お金です」
「……金ですか?」
「フィクトール王は登極と同時に複数の大規模築城に取りかかり、王室財政の赤字を悪化させています。いまのところはヴァリアシュテルンの国家一般予算とは別枠にとどまっていますが、もう王室公債の発行でまかなえる範囲の限界に達している。プロジャのディズマールは、エルンスト王に対し皇帝推戴の奏上をすることと引き換えに、フィクトール王へ20億ゲルデンの提供を申し出ているそうです」
これは事実だ。わかれぎわに、フィクトールが教えてくれたのである。もしもわたしが「愛してる」と応じていたら、フィクトールはディズマールとの取り引きをことわって、破産するつもりだったのだという。
「僕は金銭で魂を売った、フィレンの政府にはそう伝えればいいよ。プロジャ帝国化計画の阻止が失敗したのはきみのせいだ、とは言わせない」
というのが、フィクトールが最後にわたしに持たせてくれた「手みやげ」だった。しくじって本国へ帰る外交特使という立場となるわたしに、彼なりに気を遣ってくれたのだろう。
わたしの話を聞いたハルドシュタインは、あんぐりと口を開けてから、策を思いついた顔になってヒゲをひねった。
「それは……重大な情報ですな。暴露すれば、プロジャ帝国の誕生に先立って、その権威に打撃を与えることができるのではないでしょうか」
ヴァリアシュテルン王の推戴状は賄賂で書かれた……世間がそんなうわさ話で持ちきりになったら、たしかにエルンスト王は帝位に就くことを忌避するかもしれない。
だが、ディズマールはこの手の工作を行うにさいして、隙がないのである。
「ディズマールからフィクトール王へ多額の現金が供与されるというだけなら、皇帝推戴の見返り、賄賂だと断定しても的外れとはならないでしょう。ですが、表向きの理由も用意されているのです」
「それはいったい……?」
「結婚持参金です。ディズマールはフィクトール王へ縁談を持ちかけている。花嫁はプロジャ有数の大貴族であり王家にも近しい、リーズテンタール侯爵家のマルグリート嬢。20億ゲルデンは国王の結婚としても破格の持参金ですが、プロジャ帝国成立の祝賀ムードで色をつけたということにすれば、そこまで不自然でもない」
フィクトールがいきなりわたしへ告白をしてきたのも、賄賂のカモフラージュに結婚しないか、とディズマールからささやかれていたからだったのだ。
お金の話はいまはじめて聞いたエルディナントさまが、感心とあきれの入り混じったため息を吐かれる。
「ディズマールはよく考えたものだな。……しかし、20億はいったいどこから出てきた? いくらプロジャが豊かでも、メロヴィグとの全面対決をひかえたいまの段階で、そんな余裕のあるはずはないが」
「その点はフィクトール王もはっきりとしたことは知らないようでしたが、おそらく、以前に接収したハルファーデン王室の資産なのではないかと」
旧デウチェ連合崩壊のさい、主要四王国のうち、ヴァリアシュテルン、デュレンゲンブルク、サクノスは主権国家としての立場をプロジャに保証されたけれど、ハルファーデン王国だけは解体されてしまった。
ハルファーデンの王室メンバーは避難先のステイツでそのまま亡命生活を継続しているものの、宝石や現金のような動産はともかく、農地や鉱山、城郭までは海の彼方に運んでいけない。
ディズマールは差し押さえた旧ハルファーデン王室の不動産を運用したり売却して、プロジャ国家予算とは別枠で使える独自資金を蓄えているのではないだろうか。
陛下は対局相手に絶妙手を指されたチェスプレイヤーのように、あごへ手をやって感嘆と苦々しさが半々といった表情になる。
「なるほど。つくづく恐ろしい男だな、ディズマールは。わがアドラスブルクとしては、ひとまずメロヴィグの健闘を祈るしかないか。……ハルドシュタイン局長、当面は国内に注力だ。オストリヒテのデウチェ民族主義者から目を離すな。彼らは大プロジャへの合流を唱えて運動を活発化させるだろう。プロジャからの人員や資金の流入を見逃さないように」
「御意」
「ヒューメ外相は、大プロジャがそれすなわち全デウチェを意味することにならないよう、連合と同盟の各国外交筋の動静を監視せよ。それぞれの邦国がプロジャ帝国への合流を目指すぶんには、妨害する必要はない。こちらから能動的にはしかけるなよ、藪をつつけば蛇が出る」
「御意に」
指示を受けた高官ふたりが席を立ち、ひとまず会議はお開きとなった。しかし陛下は、すぐさま近侍に複数の閣僚を呼ぶよう命じる。
国家の大事を預けられた帝妃が、外交交渉に失敗して戻ってきたという事実そのものは変わらない。各方面に説明をして、事後策に当たるよう命令しなければならず、陛下はまだまだ大忙しだ。
……ああ、わたしのエル、いとしのエル、どうしてあなたは皇帝なの……?




