ひとまずの平和
ゼクフィコ最大の港町ベラスから北に250キロ、貿易港ではなく、のどかな漁村であるタンティホから、一隻の船が出た。
乗り込んでいるのは、ゼクフィコのもと皇帝メルヒオールと、十数名の供まわりである。
ロペス・ガルシアの怒りを怖れて、必死になって追撃してきたグティエレスの部隊を躱し、ときに打ち破って、ルイポトシから海岸までの200キロあまりを踏破し、待っていた船へと飛び乗った。
船は、鋼鉄装甲が施されていないために近年の海軍再編にともない退役し、払い下げられて艤装も民間仕様に変わっているが、かつてはオストリヒテ艦隊の軽巡航艦であったアドリアーナで、現船主であるクドラッケ商会はトライエットに事務所を構えている海運会社であった。トライエットにゆかりが深いメルヒオール帝を救出する極秘作戦の打診に、クドラッケは船をこころよく貸し出してくれたのだ。
操船しているのは、かつて海軍元帥メルヒオールとともにオストリヒテ海軍刷新に力を尽くした、ゼネットホフ少将の部下たちである。
「……私ひとりがさきに逃げ出してしまって、フライフィッツェンやカルマンたちは無事にエル・オーロから脱出できるだろうか」
視界の向こうへ離れゆくゼクフィコの大地を見つめながら、気がかりをつぶやくメルヒオール陛下に、ポリニカ槍騎兵の赤い制服をまとった士官が心配の無用を説く。
「ルイポトシにつづいて首都エル・オーロの無血開城を成し遂げれば、ロペス・ガルシアの名声はさらに高まります。ディアスら三将軍の野心を抑えるためにも、ロペス・ガルシアは寛容をしめして求心力を発揮する必要がある。出国を望むか、新政府で引きつづき働くことを選ぶか、どちらにしても、現閣僚たちの希望は受け入れられるでしょう」
「ロペス・ガルシアはたしかに理知的な人物だった。だが、同時に狷介なところもある。……本当に彼は、最後まで生け贄を欲さずにいられるのかどうか」
直接話をしたことで、怜悧さと猛々しさを併せ持つロペス・ガルシアの人品を把握しているメルヒオール陛下は、なおも安心しきれていない様子だった。
帝国関係者が全員罪を問われず、“戦犯”捜しもない、ということがはっきりするまではゼクフィコにとどまり、どうしても犠牲の羊が必要ならば自分が断頭台に上る――それが、メルヒオール陛下の考えだったのである。
君主の義務に殉じるよりも、生き抜くことを優先せねばならない……死の覚悟をしていたメルヒオール陛下に翻意をさせたものは、いま彼が左手で押さえている上着の下、内ポケットに収まっている。
以前にメルヒオール陛下が愛妻イザベラ妃へ送った手紙の返信に加え、マクシミリアン皇子と、そしてイザベラ妃が生命と引き換えに産み落とした、イザベラ姫の写真だ。
ルイポトシ滞陣中のメルヒオール陛下に家族の便りを届けたのは、ポリニカ騎士の格好をしている士官である。ゼクフィコ脱出を肯んじず側近たちを困らせていた皇帝に、生きて妻の忘れ形見ふたりと再会しなければならないと、100万言を尽くすよりも説得力のある現物を突きつけて、退位し救出作戦にしたがうと同意させたのだ。
……じつをいえば、この士官はポリニカ人ではない。アジュール王国軍のノルジードラ騎兵大尉である。わたしセシーリアが、ポリニカ義勇兵としての身分を偽装させて、ゼクフィコへ送り込んだ。
イザベラ妃との約束を果たすため、わたし個人の立場でできるギリギリ(いや厳密にはやっちゃいけないところまで半歩ほど踏み込んで)の手立てだったけれど、大尉は期待以上に働いてくれた。
リュース占領地域在住のポリニカ人として、ゼクフィコへの移民希望をするところからはじまって、メロヴィグへ渡って船を待ち、ステイツでまた待ち、ベラスでさらに待ち……と四ヶ月以上かかってしまったけれど、どうにか間に合った。
ちなみに、ゼネットホフ少将は、メルヒオール陛下を脱出させる船を仕立てたいと、ひと言切り出しただけで全部手はずを整えてくれた。他国どころか、アドラスブルク帝国内部のほかの部署にも一切漏れない極秘作戦として。
「メルヒオール陛下、あなたはゼクフィコ人民のためにその生命を捧げる覚悟でいました。いま、あなたを救うために、これだけの数の人々が危険をかえりみず身を尽くしてくれている。そしてあなたの帰りを待っているご家族がいます。生きることを負債と思ってはいけない」
「……そうだな」
船はゆく。西太洋を東へ、故郷の大陸へと。
+++++
ゼクフィコ共和国大統領ロペス・ガルシアは、中部地方の要衝ルイポトシ占領から半月ほどのち、無血のうちに首都エル・オーロへ入城し、ついに全土を手中に収めた。
最高裁判事を招集し、欠員については緊急任命したロペス・ガルシアは、オストリヒテ大公メルヒオールを欠席裁判にかけ、内乱罪および外患誘致応諾罪(傀儡政権の招致に応じたとする罪)で有罪を宣告、執行猶予つき死刑を言い渡した。
すなわち、ゼクフィコへの再入国があれば即座に刑を執行する、実質追放刑として。
ロペス・ガルシアは、最後までメルヒオール陛下がゼクフィコ皇帝であることは認めなかった。
そのほかの旧帝国政府要人に対しては、内務相フライフィッツェン、財務相カルマンら、希望者については追放あつかいで出国を認めた。農務相フェデリゴ=ロドリゲスなど、もともとのゼクフィコ在住者に対しては、大臣職こそ与えなかったものの、政府内にポストを用意し、共和国にとっても有益な政策に関してはそのまま継続することを許した。
旧帝国軍の大半は共和国軍に組み入れられ、大統領直轄の中央軍の比重が増すことになった。これまでのゼクフィコでは地方軍閥の存在感が強かったが、中央政府による統制が行き渡りやすくなるだろう。
強固な反ロペス・ガルシア派である、総督政権時代の流れを汲む一部の旧帝国軍部隊は、共和国への帰順を拒否してゼクフィコ湾内のコルビー島へと渡った。彼らは現地の有力者ガスパールに協力し、いまだイルパニア領土であったコルビー独立の原動力となる。
ゼクフィコ問題が終息に向かう中で、明確に貧乏くじを引く羽目になったのは、銀行家ジェイケラーであろう。
ルイポトシ銀山は国有化され、ロペス・ガルシア政権が総督政府時代の国債の大半に対する支払いを拒否したことで、ジェイケラーはあえなく破産となった。
……まあ、これまでの半世紀ほど、高利貸しを美味しくいただいてきたわけなんだから、多少の揺り戻しは甘受するべきなんじゃないですかね?
他方、ロペス・ガルシアと個別に債務問題について交渉をすませていたステイツとブライトノーツは、債権の一部放棄や利息の免除といった譲歩をした上ながらも、権利を保持していた。
イルパニアすら、旧時代の不当略取に対する補償という格好で債権放棄する形式ながらもロペス・ガルシアの共和国政府と一定の話をつけていた中、最後まで軍を駐留させていたメロヴィグは、当然の帰結としてゼクフィコがわの激しい敵意を招き、借金支払いを拒絶された。
バルトポルテ三世の帝国政府は、ゼクフィコ国家に対してではなく、その元首となったメルヒオール陛下個人への貸付として、旧政権時代の債券のうち三割ほどの名義を書き換えさせていたが、ゼクフィコ内部の闘争が共和国派の勝利に終わる可能性に備えた姑息な措置であっただろう。
もはやゼクフィコ帝国の皇帝ではなくなったメルヒオールさま(じつは「陛下」とつけるのも、もう適切ではない)に、借金の肩代わりをする義理はないのであるが、彼は生得の義理堅さで、このさきもコツコツと利払いをつづけることになる。
債券はメロヴィグ通貨であるメロナ建てであったため、勢いの起伏はありながらも好調に成長していくメロヴィグ経済と、それにともなうインフレーションによって、債務者にとって有利な時代となったことがメルヒオールさまにさいわいする。
債務完済はつぎの世紀で、メロヴィグは四度に渡って体制が変わり、メルヒオール一家も孫の代になっていたが、一連の事件の関係者の中で、唯一最後まで紙の契約を守り、借金を踏み倒さず誠意を貫いてみせた。
ゼクフィコの再統一を果たしたロペス・ガルシアは、翌年に大統領選挙と議会選挙のダブル総選挙を実施して、新ゼクフィコがだれの手によって運営されるべきか民意を問うことになる。
対立候補として出馬したディアスとマヌエルを破り、暫定ではなく正式な大統領としての地位を確立したロペス・ガルシアは、その後も死の前日まで政務をつづけ「ゼクフィコ建国の父」と呼ばれるようになるのであった。
第二部序盤からつづいてきた、サイドストーリーにしては長くなったゼクフィコのお話しですが、これにておしまいです。
旧大陸がわもまだまだ問題山積なわけですが……。




