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悲歎の日


 わたしがトライエットにやってきて二日めの夜――


 まだ予定日までは間があるはずのイザベラ妃が、突然産気づいた。ただそれだけではなく、お腹から流れ出したのは、羊水の色ではなかった。赤い。


 侍医団は待機していたので、イザベラ妃はただちにマックス皇子のときに整えられた分娩室へと運ばれる。


「イザベラさま、気を強く持って」


 枕もとで手を握ったわたしへ、青ざめた(かお)のイザベラ妃は苦しげな息の下から声を絞り出した。


「わたくしは……どうなっても、いい……赤ちゃんを……」

「そんなことを言ってはだめ。マックスと、赤ちゃんと、イザベラさまの三人で、メルヒオールさまの待つゼクフィコへ帰らなきゃ」

「セシーリア陛下、ここは私どもにお任せください」


 そういった侍医長メンデルワーグへ、わたしは思わず(ガン)を飛ばしてしまった。


「わたし自身四人産んでいるし、マクシミリアン殿下のときも手伝っているわ。このていどで怖じることはない、産婆と思って指示をちょうだい」

「……そうではなく……太后殿下とマクシミリアン皇子をお呼びしていただけませんか」


 声をひそめたメンデルワーグの言に、わたしも顔面から血の気が引いた。


「……そこまでよくないというの?」

「かなり……危険です」

「わかった。……イザベラさま、すこしだけはずします」


 もともとはワインセラーだった半地下の分娩室から、一度上がる。晩餐を終えて、太后さまは孫娘たちとサロンでくつろいでいた。


 最近は乳母としての仕事がほぼなくなったレヒトハイネン男爵夫人ら、取り巻きの貴婦人たち数人とともにゾラが弾くヴァイオリンの音に耳をかたむけている。テレーゼはおとなしくしているが、内心たいくつしているのは見ればひとわかりだ。


 わたしが部屋へ入ると、ゾラが手を止めた。


「お義母(かあ)さま、すみません」


 声をかけると、こちらから近寄っていかないということで意図を察し、太后さまは安楽椅子を立ってわたしの間近まで歩み寄ってくる。


「イザベラになにかあったの」

「危険な状態だそうです。……マックスは?」

「いまさっき寝ついたところよ。起こさないほうがいいでしょう。わたくしがいくわ」

「ゾラ、テレーゼ、今日はもうお開きよ。マックスを頼むわね。わたしたちが戻らなくても、さきに(やす)みなさい」

「はい、お母さま」

「おやすみなさい、お祖母さま、お母さま」


 ゾラ、テレーゼともに、なにかふつうではないことが起きたみたいだな、と薄々察したようだが、神妙に一礼してわたしたちを見送った。


 分娩室の前まで戻ってきたところで、太后ゾラさまはわたしへ明瞭に命ずる。


「セシィ、侍医長を呼んできなさい。手を離し難い状況なのはわかっているが、一分ですませるから説明しろと」

「はい、太后さま」


 一歩室内へ入ったとたん、血の匂いが鼻をついた。通常のお産の状況ではないということは、経験がなくともひとわかりだろう。


 助手も看護婦も総動員、人垣でイザベラ妃の姿は見えない。わたしは声を高めて呼ばわった。


「メンデルワーグどの、太后殿下がお召しです。一分ですませます、簡明に説明を」

「……御意に」


 諸手を血の色に染めたまま、侍医長は一度分娩台の前から離れる。ドアのすぐ前で待っていた太后さまは、「このようにお見苦しい格好で」とメンデルワーグが口上を述べる間すら惜しんで、すぐに話を切り出された。


「はっきりと言いなさい、母子ともに助かる可能性はあるの?」

「ヘリッシュ博士がおられれば……。わ、われわれでは、きわめて……厳しいかと……」


 メンデルワーグは、帝国一番の婦人科権威ヘリッシュ博士の弟弟子であり、この分野の近代化に先鞭をつけたボドマル教授の教え子だ。

 その口からはっきりと、義妹のみならず、お腹の赤ちゃんまでも危ういと聞かされて、わたしは目の前が暗くなる思いになった。


 ゾラさまは感傷をにじませない声で下問をつづける。


「子をあきらめてイザベラを救える可能性はどのていど?」

「希望はあります……が……五割は、難しい……かと」

「腹の子を助けることならできるというわけ?」

「大きく切開をすれば、ひとまずは。早産となりますので、予後の保証までは請け合えませんが。……ですが、その場合、イザベラ陛下は……」

「子供を優先しなさい。責任はわたくしが取る」

「……御意」


 悲壮な、しかしジレンマからは解放された顔で、メンデルワーグは分娩室へと戻っていった。


「お義母さま……」

「イザベラも()()いっていたでしょう?」


 確信をもってのゾラさまの言に、わたしはようやく、分娩室へ運び込まれた直後のイザベラ妃との会話を思い出した。


「わたくしはどうなってもいい、赤ちゃんを……たしかに、イザベラさまはそのようにおっしゃっていました」

「そうでしょう。わたくしが見込んだ嫁です、イザベラはわがアドラスブルクにふさわしい女よ。……それにつけても、女は損よね。ひとり子を産むだけで、そのつど生命を削らされる。産めよ殖やせよと言いながら、主は人の子が地に満ちあふれることを本当はお望みでないかのよう」


 わたしが思っているとおりの、姑として、アドラスブルクの国母としての不敵な表情を浮かべたのちにゾラさまの口からこぼれたのは、意外な言葉だ。

 まさか、神の絶対性に一分の疑いも挟まぬ正統教派である太后さまの口から、こんな科白が出てくるとは思わなかった。


「イザベラさまか赤ちゃん、どちらかの生命を選べ――それが主の思し召しだというのでしょうか……」


 そんな神なら、信じたくない。

 わたしは単なる不信心からそう思ったけれど、ゾラさまは真剣に神を信じているがゆえの(かお)でこうおっしゃった。


「罪を背負うのはわたくしでいい。イザベラに罪はないはず、子供までは連れて行かれないでしょう。これでふたりともども奪うというなら、遠からず顔を合わせたときに、神に呪いを浴びせてやりますとも。それで地獄へ堕とされようと構うものか、こちらから永遠の楽土など願い下げです」


 ……わたしはこれまで、ゾラさまのことを誤解していたのかもしれない。


 個人や肉親の情よりも王朝と国体の存続を優先させる、システムの権化のようなひとだとイメージしていたし、現にイザベラ妃よりも赤ちゃんを優先せよとメンデルワーグへ命じた、いまさっきの決断の早さも、数学的な期待値の計算から淡々とくだしたものだろうと思ったのだけれど。


 ゾラさまとて、決して心に痛みを感じていないわけではない。かつて、皇宮内にだれひとりとて心情をくみ取ってくれる人間がいなかったころに身に着けた態度なのか、単身で古びた帝室に嫁として送り込まれると決まったときから、心の堰を築いてきたのか……。


 太后さまもわたしも、口ではそれ以上なにも言わず、ただイザベラ妃とお腹の赤ちゃんの無事を祈りながら、分娩室前の椅子に座って待った。


 ……たぶん、一時間はかからなかっただろう。力強いとはいえないが、たしかに赤ちゃんの産声が、ドアの向こうから聞こえてきた。


 わたしたちが椅子を立ったところで、分娩室のドアが開いて看護婦が顔を出す。


「太后さま、帝妃さま、お入りください。御子は無事お産まれになりましたが、イザベラさまが……」


 どちらともなく駆け出し、わたしたちは分娩室の戸口をくぐった。まず、産湯で血のりを洗い落とされているちいさな赤ちゃんが目に入った。女の子だ。全身を覆っている血も、赤ちゃん自身のものではない。ひとまずはよかった。


 分娩台の上に横たわるイザベラ妃の貌は、蝋のように(しろ)くなっていた。手を取ると、ぞっとするほど冷たい。


 もう目も見えなくなってしまっているのか、手を握られたことでイザベラ妃がこちらへ首を動かす。


「お義母さま、お義姉さま……あとは、たの……みます」


 細いが、はっきりした声だった。嫁のほおをやさしく撫でて、ゾラさまが力強く請け合う。


「まかせなさい。マクシミリアンも、この子のことも」

「イザベラさま、メルヒオールさまはかならず助けます。再会できる日は遠くなるけれど、待っていてください」

「おねがいします。ふふ……メルの顔を一日でも早く見たい、そう思っていたのに……今度は、できるだけ長く会いたくないと望むだなん――」


 声が途切れた。


 すさまじい苦痛がつづいていただろうに、その最期の貌は微笑みを浮かべている。


 宙に指で聖印字を切ってから、ゾラさまがイザベラ妃のまぶたを閉じさせると、諸手を朱に染めたままの侍医長メンデルワーグが、わたしたちへ深く(こうべ)を垂れた。


「太后殿下、帝妃殿下、力およばず、申しわけございません……」


 あいかわらず感傷を表に見せぬ芯のとおった声で、ゾラさまは最悪の事態をどうにか回避した侍医長をねぎらう。


「子供だけでもよく救ってくれました。この労苦には、アドラスブルクの名にかけてかならず報いましょう」

「もったいないお言葉です。イザベラ陛下……お助けしたかった……」


 メンデルワーグが声を震わせると、医療チームの面々もすすり泣きはじめた。

 イザベラ妃がマクシミリアン皇子を身ごもったさいに、メルヒオールさまによって招集され、おふたりがゼクフィコへ渡って空白期間はあったものの、皇弟一家とのつきあい浅からぬ人たちだ。単なるお勤めではなくなっていたのだろう。


 その夜のうちに、眠っているマックスをのぞく旧大公邸の全員がイザベラ妃の悲劇とあらたにアドラスブルクへもたらされた生命のことを知り、娘のゾラもテレーゼも、アドラスブルク・ゼクフィコを問わず侍従たちも、悲しみに暮れながらも生まれてきた赤ちゃんに希望のかけらを見出した。


 母から名を受け継ぎ、イザベラ姫としよう――と、だれが言い出したでもなく、命名についてはほぼ決まりとなった。


 予定日よりずいぶん早かったため乳母は邸宅に入っていなかったが、レヒトハイネン男爵夫人が指揮して、あらかじめ声をかけてあった乳飲み子持ちの女性を呼びに使いも出された。


 朝にはトライエットの街にも訃報が伝わり、教会が弔鐘を鳴らし、市中には半旗が掲げられた。

 港のオストリヒテ艦隊も、創建の父メルヒオール海軍元帥(ゼクフィコ皇帝となったいまも名目上は海軍に籍が残っている)夫人イザベラを悼んで弔砲を放った。


 おくやみを述べたいと市民たちが旧大公邸前に列をつくりはじめて、喪服の準備をしているわけもなし、わたしたちはちょっとバタバタすることに。


 けっきょくわたしは、イザベラ妃のドレッサールームから喪服を拝借して着込み、弔問へやってきた市民たちに対応した。


 ……悲しんでばかりではいられない。


 マックス皇子と、イザベラ妃が生命と引き換えに遺してくれたあらたな姫は義母(ゾラ)さまにおまかせするとしても、わたしは義妹から託された、夫君メルヒオールをゼクフィコから救出するという難題に挑まなければならないのだ。



地球の歴史では、ちょうど19世紀後半にさしかかったこのあたりの年代で、ようやく消毒の概念が見出されます。それまでは手術衣もなく、ろくに手すら洗わないで外科処置をしていたため、怪我や病気をしても医者にかかったほうが死にやすい、という体たらくでした。ゴム製の衛生手袋が発明されるのは、19世紀も最後の10年に入ってからです。


外科処置の技術は18世紀後半から近代化が始まり、今日に繋がる基礎が築かれました。この作品が属しているヒストリカル・ロマンスシリーズの、時代的に一世紀前となる「契約結婚だと聞いたので、喜んで独身時代のシュミを貫くことにした結果」にも、ちょろっと書いてあります。


出産が女性の死亡原因トップ3だったのは、そんなに大昔の話ではありません。地球史を瞥見しても、マリア・テレジアのように10人以上産みながら休みなしでバリキャリ続けた超人がいる一方で、王妃、皇后であっても産褥で亡くなったひとは枚挙にいとまがないほどです。


セシーリアのモチーフであるハプスブルク皇后エリーザベトは、170センチで50キロキープという、過激ダイエット主義者でありながら4人もの子を産んでなおプロポーションを維持していたという、マリア・テレジアとは別方面の超人だったりします。絶対難産だったと思うんですけどね……。


イザベラのモチーフであるメキシコ皇后シャルロッテは、夫マクシミリアンとのあいだに子を授かれないまま、特使として援助要請をするために回ったヨーロッパ各国が、さらにはローマ教皇までもがメキシコ帝国を見捨てるつもりしかないと知って、ショックのあまり精神を病んでしまうという、別方向に不幸な女性でした。イザベラがここで亡くなってしまうのは、取ってつけのお涙ちょうだいイベントというわけじゃないんです。

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