戦後処理=つぎなる火種
オストリヒテ・アジュール連絡会議で対プロジャ交渉戦術の基本方針をまとめたエルディナント陛下は御前閣議を催されたが、その席において、ここ数年外交窓口を担い、成果も伴っていたことで評価を固めていた外相イルヒベルクから、思わぬ異論が出た。
マイネレンベルク大公の継承権を支持することで、プロジャが目論むスレズヴェルヒ・ヘムシュタイン二公国併合策に対する揺さぶりとする、という点ではフィレンの元老たちから異論は出なかったものの、目指すべき交渉成果について、無視できない人数がイルヒベルクの提案に賛意をしめしたのである。
イルヒベルクの主張は、ヘムシュタインはオストリヒテ本土から遠すぎる飛び地であって、領有にはリスクがあり、維持するコストも高くつく。二公国はプロジャが望むとおりに引き渡し、代替地を請求するべきであろう、というものであった。
たしかに、イルヒベルク外相のいうことにも一理ある。
ユテニア半島のつけ根にあるヘムシュタインをアドラスブルク帝国が獲得した場合、すぐ北がわはプロジャが有するスレズヴェルヒとなり、南方国境の西半分はハルファーデン王国と接することになるが、もう一方の東がわはプロジャ領土なのだ。
つまり、仮想敵国プロジャに挟まれた土地ということになる。プロジャから見ればスレズヴェルヒも飛び地になるが、しかし船を使えば本土との行き来は問題ない。海上でのダンヴィケの脅威は大きく後退し、もうひとつの北洋勢力であるウェルデン王国は中立政策にかたむいている。
アドラスブルクにも、さきの対ダンヴィケ戦で活躍した新鋭海軍があるものの、母港は北洋から遠く離れた地中海沿岸、トライエットであった。
ヘムシュタインを守るために艦隊を二分するのは、あまり賢いやりかたとはいえない。さりとて海軍を増強するのは不可能だ。財源がない。
エルディナント陛下は、プロジャがアドラスブルクへ差し出すことのできる土地などあるのか、とイルヒベルク外相へ訊ねられた。
下問に対し、イルヒベルクは候補をふたつ挙げる。
ひとつは、かつてアドラスブルク帝国の一邦、ベミエンの州だったが、前世紀にプロジャのフランツ大王がしかけてきた戦争で奪われているトゥレナジェン。
もうひとつは、五年前にアドラスブルクから分離され、新生エトヴィラ王国の一部となっているバルティア地方である。
こちらはプロジャの領土ではないので、アドラスブルクが奪回戦を敢行するさいに、プロジャはその政策を支持し、エトヴィラの後ろ盾であるメロヴィグが介入しないよう、牽制する役目を約束させる、というのがイルヒベルクの語る計画であった。
……ヘムシュタインを領有するにはリスクがある、というのは納得できますけれど、かといって、プロジャがトゥレナジェンを手放すとは思えないし、バルティア地方の再征服に協力させるなんて、仮にうなずいたところでディズマールは信用できないと思うんですが。
だいたいにして、プロジャが協力してくれたところで、軍隊を出してバルティア地方を制圧するのは、わが帝国が自力でやらなきゃいけないことですし。戦争した結果手に入るはずのヘムシュタインの代わりの土地のために、また戦争するっていうのはどうなんですか……?
まあ、あとで話を聞いたわたしがそう思ったように、エルディナントさまも、プロジャにヘムシュタインの代替地を出させる、というイルヒベルクのアイデアは実現性が低いとお考えになった。
それでも、これまでの外相の交渉実績を評価なさっている陛下は、自信があるのならやってみよ、と、イルヒベルクをフリエンツフルトへ送り出されたのである。
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オストリヒテ=アジュール帝国は、マイネレンベルク大公ルートヴィヒによる、スレズヴェルヒならびにヘムシュタイン両公国の継承を支持する。
独立自由都市フリエンツフルトで開催された連合会議において、外相イルヒベルクが発表したアドラスブルク政府の公式声明は、デウチェ連合内で大きな反響を呼び起こした。
デウチェの盟主面をする、アドラスブルクとプロジャによる縄張り争いだ、と、これまでの経緯を白眼視してきた中小諸邦は、マイネレンベルク大公の権利が認められたことに気をよくして、連合内でのアドラスブルクに対する好感度は一時の低迷を脱した。対して、プロジャへの風当たりはとうぜん強くなる。
プロジャ国内ですらデウチェ民族主義の勢いは収まらず、国王エルンストに対して、ただちにマイネレンベルク大公がスレズヴェルヒ・ヘムシュタインの君主であることを承認すべし、と下院において決議案が採択されるほどであった。
もちろん、エルンスト王以下、プロジャ首脳部は、マイネレンベルク大公のために義勇軍働きをしたつもりなどない。
エルンスト王と二人三脚でプロジャを運営している宰相ディズマールは、さきのスレズヴェルヒ・ヘムシュタイン紛争は、ダンヴィケ王国と、プロジャ王国およびアドラスブルク帝国のあいだで交わされた戦争であり、デウチェ連合は戦争当事者ではない――という理屈で、フリエンツフルト会議に上程する予定だった、プロジャによるスレズヴェルヒ・ヘムシュタイン併合議案を引っ込め、連合各邦を論争から締め出した。
ひとまず、われわれアドラスブルク帝国の外交戦術が功を奏したわけである。
あらためて、ディズマールはイルヒベルク相手に個別交渉の席を持ちたいと通知してきた。
プロジャ王国政府は外相をおかず、ディズマールが宰相兼外相であった。アドラスブルク帝国政府には宰相がいなくて、エルディナント陛下による皇帝親政であり、外務大臣のポストが設けられている。
アドラスブルクとプロジャの外交責任者による秘密会合だということを隠すためなのか、会談の舞台となったのは、すこしいかがわしいという、カフェ・ミラーヘなる流行茶店であった。
エーテルだかチンキの小瓶をもてあそんでいたディズマールは、個室に入ってきたイルヒベルクへ手にしているものを振って見せ、
「やるかね?」
と、にやりと笑ったという。
「閣下……自分は、本日極めて真剣なお話をさせていただきに参ったのです」
生真面目一辺倒な貌でイルヒベルクが応じると、
「私も、学生時分にブライトノーツ人相手の少々軽薄な遊びをしていたころをのぞけば、こんなもので羽目を外すようなマネはしておらんよ」
ディズマールはそういって小瓶をテーブルのすみに滑らせ、アドラスブルクの外相へ席を勧めた。
イルヒベルクは、条件しだいではプロジャによる二公国の併合を認める、と切り出し、プロジャにアドラスブルクが受け取るべき代替地の用意を請求する。
意外なことにディズマールは、トゥレナジェン地方の割譲に関しては持ち帰って協議する、として、言下に拒絶をしなかった。
だがそのいっぽう、アドラスブルク帝国によるバルティア地方の回復については、はっきりと否定した。バルティアが歴史的・民族的にエトヴィラの一部であることは明白であり、プロジャとして不当な征服事業に加担はできないというのである。
イルヒベルク外相は愚鈍ではない。すぐさま、ディズマールの言葉の裏に恐るべき示唆があることを感じ取った。
バルティアがエトヴィラの一部であることに異論の余地がない、と述べたディズマールは、すなわちロカーナ地方もまた、歴史的・民族的にエトヴィラの一部だ、と言ってのけたのである。
ディズマールの深意は、光の射さぬ湖底に転がっている水晶であるかのように、あからさまでこそなかったが、揺るぎなく堅固だった。
わがプロジャは、ロカーナとエトヴィラとの合同を支援し、いつでもアドラスブルクからさらに一地方を奪い取ってやれるのだぞ――。
背中に玉の汗を浮かべながら、イルヒベルクは、スレズヴェルヒをプロジャに、ヘムシュタインをアドラスブルクに、という最初の分割案であれば、デウチェ連合の反発を押し切ってすぐに帝国政府も同意する、とつけ加えて、ディズマールとの交渉の席から逃げるように離れた。
……フィレンへ戻ってきたイルヒベルクは、交渉内容を報告するとともに、言明こそなかったもののディズマールがのぞかせた底知れぬ危険性を語り、辞意を表明した。
「プロジャのディズマール……臣では、もうあの怪物の相手は務まりませぬ……」
エルディナント陛下は辞表を受け取って引退を許し、これまでのイルヒベルク外相の功績を顕彰なされたという。
後日、フィレン駐在のプロジャ大使を介して、トゥレナジェン割譲でプロジャ政府内の意見一致が得られなかったため、スレズヴェルヒ・ヘムシュタインの分割を正式提案したい――とする、ベルンドからの電信公文が届けられた。
万国博覧会にア◯ンの陳列コーナーが堂々と設けられていたり、薬局の棚にも当たり前のように並んでいたりと、19世紀は化学技術が発展してさまざまな新薬が登場していた反面、まだ薬物依存症の研究が進んでいなかったため、けっこうユルユルな時代でした。
ディズマールのモチーフである鉄血宰相ビスマルクですが、はっきりと明記はされていないものの「若いころはなかなかのヤンチャをしてた」という点は隠されていないため、まあ…(察し)というところでしょう。




