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錫婚式(下)


 錫婚記念日の前の晩、エルはふだんより時間をかけてわたしを愛してくれた。

 ()()がすんでもわたしを離さず、抱きしめたまま、エルは優しくささやく。


「10年間……ほんとうにありがとう、セシィ。きみと子供たちが、私の一番の宝だよ」

「エル……あなたはどうして、わたしを選んだのですか。姉のシャルロッテではなく。アドラスブルクの帝妃としてふさわしいのは、シャルロッテのほうでしたのに」


 いままで、この問いをはっきりと質したことはなかった。エルはすこしさみしげな(かお)で、訊き返してくる。


「セシィ……きみは、私と結婚したことを、後悔しているのかい?」

「いえ、そういう意味ではありません。ただ……帝妃でいるのに、疲れを感じることが多いのは、事実ですけれど」


 わたしはぶしつけに、こちらからエルに口づけをして、上下入れ替わった。

 ひとりの女として、エルを好いている、愛している、求めている。それは間違いのないことで、結婚に後悔なんてない。……いや、それも、人間としてのエルについて知ったのは婚礼の儀以降なのだから、あとづけではある。


 10年前のわたしは、恋だなんて一秒も考えたことのない、ほんの小娘だったのだから。


 たくましい身体でわたしの全体重を支えながら、エルは優しさの中にいくぶんきまじめさをふくんだ口調で、答えてくれた。


「たしかに、きみの姉上は帝妃として申しぶんなかったかもしれない。ただ、私は型どおりの帝妃を伴侶としても、これからの時代は乗り越えられないのではないかと、婚約を決められてからしばらくのあいだ、不安でいた」

「そうだったのですか……」


 帝位に就く前後のエルディナントさまは、暴徒に取り囲まれたフィレンの皇宮から家族とともに脱出したこともあれば、自ら指揮杖を振るって叛徒と戦ったこともあった。帝国と帝都を取り返したのちにも、暗殺者の凶刃で頸に深い傷を負い、生死の境をさまよったことすらある。


 不安があって当然だ。神聖なる皇帝陛下といっても、人間であることには変わりない。


「セシィ、きみのことを、私は一方的に知っていたんだ。ザルツクヴェーレで顔を合わす、一年ほど前からね」

「え……?」


 思いもかけないエルの言葉に、わたしはただ彼の目を見返すだけだった。


「クィルゲンの猟場を、父上のフリードリヒ公といっしょに訪れたことがあるだろう?」

「あー……はい。たしか、オットカル侯爵のお招きで、イノシシ狩りに」

「あの日、私はたまたまプリグに用があって、ついでにクィルゲンへ寄ったんだ。フィレンへ戻る汽車に御用客車を連結させるのを待つあいだだけで、狩りをする時間はなかったから、ただの散策だった」

「陛下がおいでだなんて、父もオットカル侯も、ひとことも言っていませんでしたが……」


 アドラスブルク帝国の一邦、ベミエンの古都プリグ近郊に広がるクィルゲンの森の猟場は、皇帝家のものだ。本来の持ち主がいらしていたのに、狩りなんてしていてよかったのだろうか?


 エルは穏やかにかぶりを振る。


「フリードリヒ公にもオットカル侯にも、落ち度はないよ。私が勝手に立ち寄っただけだからね。あの日の猟場の権利は、全部オットカル侯のものだった」

「お声をかけてくださればよかったのに」

「仮にも皇帝と、公爵に侯爵。顔を合わせて、ただ立ち話というわけにはいかない。私がフィレン行きの汽車に乗れなくなってしまう」

「それは……そうですね」

「まあとにかく、そこで私は、巧みに馬を操り、装填をすませた銃を従者から受け取って、見事に獲物を射止める少女を見かけた。惚れ惚れしたよ。それまで、狩猟をたしなむだなんて女性を、見聞きしたことがなかったからね」

「そうだったのですか……」


 うわぁ……。まさか馬に乗って銃をぶっ放しているところを、エルディナントさまに見られていたとは。


「フリードリヒ公かオットカル侯、どちらかの縁者なのだろうと察しはついたが、そのときは詳しく身元を調べようとは思わなかった。ザルツクヴェーレで、シャルロッテ嬢のななめうしろにきみが立っているのを見て、すぐわかった」

「ひと目でおわかりになるほど……でしたか」


 育ちの悪さがそこまで表に出てたのかなあ……。


「姿勢の良さの質が、シャルロッテ嬢とは違ったからね。馬術と剣技に打ち込んでいることがわかる、芯のとおった立ち姿だった」


 エルにとっては、悪い意味ではなかったらしい。


 人生というのは、偶然の積み重ねなわけだ。


 もしわたしがシャルロッテお姉さまについていかなければ、エルディナントさまにとっては「一度猟場で見かけた謎のお転婆狩猟娘」で終わっていた。

 あるいは、クィルゲンでエルディナントさまに見られていなければ、ザルツクヴェーレで顔を合わせても「立ち居が少年じみた婚約者の妹」でしかなかったかもしれない。


「わたしが淑女らしくなかったから……それが、理由なのですか?」

「これからの時代に、わがアドラスブルクが必要としているのは、単なる受動的な婦徳を備えた帝妃ではないと思ったから……それはある。でも、けっきょくは、ひと目できみのことが欲しくなっただけさ。自分が求めていたのは、籠の鳥のような女性ではなかった、あのとき、そう悟った」


 言葉だけではなく、動作に変えて、エルはわたしを求めてきた。わたしも心身をともに開いて、受け入れる。


 わたしはいま、皇帝陛下に求められたから帝妃でいるわけではない。


 エルのことを愛しているから。ゾラ、テレーゼ、ヨーゼフ、ラースローネ……(さらに増えるかもしれない)子供たちに、よりよい未来を受け渡したいから。


    +++++


 アドラスブルク皇帝夫妻の結婚10周年記念日は、神さまが(よみ)してくれたかのように、晴れ渡った空に恵まれた。


 皇宮の正門を出た無蓋の馬車に、オストリヒテ大元帥の軍服をまとったエルディナント陛下と、アジュール王妃として華やかな刺繍が綴られたドレスに身を包んだわたしが並び立つ。

 つづく二両めには、フィレンふうのドレスを着たゾラと、アジュール伝統衣装姿のテレーゼとラースローネ、子供サイズの軍装にはしゃいでいるヨーゼフ(実際、陸軍名誉騎兵大佐である)が乗っている。


 フィレンの都大路の沿道は、アドラスブルクの、オストリヒテの、そしてアジュールの旗を振る人々で埋め尽くされていた。


「皇帝陛下万歳!」

「帝国よ永遠なれ!」

「帝妃セシィ万歳!」

「オストリヒテ万歳!」

「王妃陛下万歳!」

「エルディナントさまぁ!!」

「ゾラ姫ー!」

「皇帝よ、デウチェにいま一度栄光をもたらしたまえ!」

「アドラスブルクに神のご加護を!」

「ヨーゼフ殿下万歳!」

「アジュールに栄光あれ!」

「諸民族の王エルディナントよ、道を違えることなかれ!」

「テレーゼちゃんかわいー!」

「オストリヒテとアジュールに永遠(とわ)の融和を!」

「結婚10周年おめでとうございます!」

「陛下、ポリニカをお救いください!!」

「ラジィちゃーん!」


 人々の叫びの中には、祝意ばかりでないものも混ざっていた。


 時代のうねりを、だれしもが感じている。


 なにが正しいのか、自信を持って断言できる人は決して多くないだろう。

 確信を抱いて行動している人はいる。プロジャの宰相ディズマール、あるいは共和主義者(リパブリカン)合衆国(・ステイツ)大統領リンゼレイや、ゼクフィコ革命軍のロペス・ガルシアなど。


 彼らが間違っているということはない。しかし、時代の趨勢を握ろうとする意欲ある指導者たちに、無条件にしたがうことが、ほんとうによりよい世界への最短経路なのか、それに関して、わたしは迷いを振り切ることができそうになかった。


 わたし自身、アドラスブルクの帝妃であり、アジュールの王妃として、世界の行く末を左右しうるということは忘れないようにしなければならないが、自分自身が正しいのかどうか疑わずにいられるほど、わたしは強くなれそうにない。


 ……それでもわたしは、今後手段を選ぶことはないだろう。

 たとえこの帝国を悪魔に売り渡す結果になったとしても、わたしはエルと子供たちをすべてに優先させる。


 帝国と世界の安定と調和のために働いているのは、現状では、それが一番わたしの求めに近いからであるにすぎない。



ここまでで第二部となります。

この読むのが七面倒な話に長々お付き合いいただきまして、まことにありがとうございました。

書いてるほうはノリノリなんですよ…。面倒くさいやつで本当にすみません。


いったん完結フラグ立てますが、まだ続きます。


第三部(そして完結編の)「帝妃としてではなく、妻として、母として」は、作者の脳が暑さに負けなければ近日中、暑さには勝てなかったよ…となった場合は、晩秋か初冬にスタートとなります。

少なくとも絶対に完結まで書きます。シュミが99.98%ですから。

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