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ディズマールのゲーム


 独立自由都市フリエンツフルトではじまった、ポリニカ問題調停会議は、予想どおりといえば予想どおりの展開になっていた。


 オストリヒテ=アジュール皇帝エルディナント・フランツの名において提案され、メロヴィグ皇帝バルトポルテ三世も賛同する、ポリニカ独立の承認をもって地域紛争を終結させる主議題は、プロジャとリュースの拒否によってお流れになった。


 オストリヒテ=アジュールを治めるアドラスブルク帝国政府は、ハーツィア地方をポリニカのために提供する用意があるとしていたものの、前提として、プロジャとリュースもポリニカ独立に同意する場合にのみ限っていたため、ポリニカ人が自分たちの国を持つ機会とはならなかった。


 バルトポルテ三世から指示を受けたメロヴィグのラベール外相は、「独立を認めないならばポリニカの自治権を拡大せよ」と関係三ヶ国へ要求したものの、アドラスブルクは「帝国内の諸民族は平等である」と回答し、プロジャは「この会議は国内法の改定を話し合う場ではない」とにべもなく、リュースは「ポリニカのあつかいは、わがリュース帝国政府ではなくルテヴィン地方管轄総督に一任されている」と責任逃れをした。


 このままでは、なにも解決しない。

 ポリニカの民族闘争は継続し、しかしエトヴィラのときと違って外部の助けがないまま、武器を()る者がひとり残らず逮捕されるか殺されるまで、終熄しないことになる。


 キャリテルスキ公爵はポリニカに戻って抵抗組織の再編をし、さらなる独立運動を繰り広げようとしたが、メロヴィグ外相ラベールが強く引き留めた。

 このまま戦ってもポリニカ独立派に勝ち目がないのはあきらかであり、バルトポルテ三世は、調停会議は完全な茶番であった、と国際社会から見なされて、メンツが潰れることを(おそ)れたのである。


 さりとていまのメロヴィグに、ポリニカ独立派へ実効ある支援をする能力はない。最悪の場合、キャリテルスキ公爵を拉致同然にでも連れ去り、遠隔地で亡命政権を樹立させよ、というのがバルトポルテ三世がメロヴィグ交渉団にふくませていた密命であった。


 いっぽう、プロジャの交渉団長である宰相ディズマールは、ポリニカにはなにも伝えないまま、わがアドラスブルク帝国の代表交渉人であるイルヒベルクにひとつの腹案を提示していた。


 プロジャ王国は、アドラスブルク帝国へ、治下のポリニカ人を譲渡する用意がある。フィレンがこの提案を受け入れるのなら、旧ポリニカ領フォーゼン地方の南半分を割譲する、と。


 外相イルヒベルクは、すぐさまプロジャがわの提案を帝都フィレンへ報告し、回答の指示を仰いだ。


 プロジャ占領地域に住むポリニカ人は約300万で、アドラスブルクが抱えているポリニカ人とほぼ同数だ。それに対し、フォーゼン地方の南半分というのは、プロジャが取得した旧ポリニカ領土の1/6ていどでしかなく、ハーツィア地方の二割ほどの広さしかない。


 ほんのわずかな土地をオマケにつけるから、アドラスブルクにこれまでの二倍のポリニカ人の面倒を見ろ、という、プロジャの提案は()()()たものであった。


 ようするに、デウチェ純粋主義を推進するプロジャの枢密派(カマリラ)からすれば、辺境地域に住むポリニカ人はお荷物なのである。しかしポリニカの土地には価値がある。

 多民族国家アドラスブルクにポリニカ人は押しつけ、空き地をデウチェ人で開発したい――都合のいい考えだ。


 だが、建前上とはいえ、バルトポルテ三世とともに、ポリニカの権利に理解をしめして調停会議を開催するよう働きかけたのは、アドラスブルク皇帝エルディナント・フランツである。

 単に拒絶したのでは、停戦期限明けと同時にハーツィアのポリニカ人も独立闘争に加わってしまいかねない。

 ディズマールは、フィレン政府がこの提案を蹴った場合、わざとらしく交渉内容を暴露して、ハーツィア在住のポリニカ人を煽るだろう。


 いつのまにやらはじまっていた、ディズマールが()のゲームに、アドラスブルクは巻き込まれてしまった。


 ディズマールがチラつかせているカードを取って役を完成させても、アドラスブルクが得られる利益(チップ)はほんのわずかだ。

 しかし、取らずに流せば、プロジャがもっと強い役を完成させて、調停会議という名の“場”を支配してしまう。その上、この調停会議は単にポリニカ問題を話し合うだけに留まらず、デウチェ連合の諸邦が、アドラスブルクとプロジャ、それぞれの影響力の大きさを計る場ともなっていた。


 そして最悪な点は、カードゲームと違って、国際政治の場から帝国は()()()ことができないところにあった。


    +++++


 このタイミングでプロジャ宰相ディズマールがアドラスブルク帝国に対して外交戦をしかけてきたのは、デウチェ連合の東の端ポリニカだけではなく、北西部でも戦火の芽が生じたためであった。


 西の問題は、スレズヴェルヒとヘムシュタインという、ふたつの公国をめぐる継承権争いである。


 デウチェ連合の北西海岸から北洋へと突き出しているユテニア半島は、古代より海運と陸運を結合させる交易の要衝だった。


 ユテニア半島の北部はダンヴィケ人の国だ。ダンヴィケ人の本拠地はユテニア周辺の海に浮かぶ大小の島々で、冬営地であり内陸部との交易基地だったユテニア半島に、じょじょに定住するようになっていた。南へ行けば行くほど、デウチェ人の割合が増えていく。


 デウチェ人とダンヴィケ人のあいだでは通婚もさかんで、半島の北部や島嶼部に住んでいる人はべつとして、ダンヴィケはデウチェとまったくの別民族だ、という意識を持っている人は、かつてはあまり多くなかった。

 それはデウチェがわも同様で、ユテニア周辺の住民たちは、隣人や商売相手が、デウチェ人なのかダンヴィケ人なのか、ということを、すくなくとも平時に気にすることはなかった。


 時代が下り、領域国家が確立するにつれて、デウチェとダンヴィケのあいだに線引きがされていく。


 しかしなお、ユテニア半島の南部やつけ根部分には、デウチェにもダンヴィケにも同じていどの帰属意識を持つ人々が残った。


 ダンヴィケ王国は、半島南部を直接支配することでデウチェ人の感情を逆なでするのを避けるため、スレズヴェルヒ公国を()て、デウチェのアイデンティティを持つものはダンヴィケ王家に対する直接の忠誠義務はない、としてことを治めた。


 そのころのデウチェは、神聖帝国(ハイリジェス・ライヒ)時代である。神聖皇帝はダンヴィケ王家の一員を公爵に封じ、スレズヴェルヒの南に接するヘムシュタインの領主とし、帝国諸侯としての統治権を認めた。


 こうしてスレズヴェルヒとヘムシュタインが緩衝地帯となり、ダンヴィケとデウチェが直接接触することはなくなった。

 もちろん、完璧な解決策とはいえない。ふたつの公爵領は相続権によって様々な王侯の手に渡り、争いの火種になることもあった。


 帝国諸侯としてのヘムシュタイン公爵の地位を利用して、神聖帝国内へさらに勢力を拡大しようとしたダンヴィケ王統の一員もいたし、逆にスレズヴェルヒを神聖帝国の諸邦のひとつとし、さらにダンヴィケ本国も帝国傘下に吸収してしまおうと計画したデウチェ系のヘムシュタイン公爵もいた。


 状況が動いたのは、初代バルトポルテによって神聖帝国が完全消滅を遂げた、今世紀序盤のことである。


 ダンヴィケ王国と、スレズヴェルヒ・ヘムシュタイン両公国が、同一人物によって治められることになったのだ。


 ときのダンヴィケ王フレゼリク六世は、メロヴィグを掌握したバルトポルテが、つぎつぎと近隣国へ手を伸ばし、王を追放したり、強引に養子や女婿を押しつけて傀儡政権を作らせるのを見て、自分からバルトポルテに同盟者としてダンヴィケ王国を売り込み、地位の保全を図った。


 当然ながら、バルトポルテ失墜後に西方(オチデント)各国からダンヴィケへ向けられる目は冷たいものとなったが、バルトポルテと同盟した、というだけでダンヴィケを敗戦国とするには問題があった。


 ヘラルドやイルパニアなど、強引にバルトポルテのメロヴィグ帝国と同盟を結ばされていた国は多いのだ。

 フレゼリク六世が自主的にバルトポルテと同盟しなかった場合、彼は地位を追われ、ダンヴィケの王冠はバルトポルテの操り人形となるメロヴィグ人のものになっていただろう。


 無理やりバルトポルテに従属させられていた国から、賠償金を取ったり、領土を没収したりしたら、しこりが残る。

 ダンヴィケもけっきょくはバルトポルテから軍事的圧力を受けていたわけで、罪を問うことが正当かどうか、意見の一致にはなかなか達しなかった。


 スレズヴェルヒはダンヴィケ王家の傍流縁者がスレズヴェルヒ公爵として治めていたが、バルトポルテ時代のあいだに亡くなっており、直系後継者もいなかったため、有資格者のうちでもっとも年長男子であったフレゼリク六世のものとなっていた。


 ヘムシュタイン公爵のほうも、バルトポルテ体制崩壊後の新国際秩序を話し合う講和会議が開催されている最中に亡くなる。


 神聖帝国(ハイリジェス・ライヒ)はバルトポルテの手によって名実ともに完全消滅させられていたので、空地となったヘムシュタインへあらたな領主を任命する権限は、この世に存在しなくなっていた。

 継承権の解釈をめぐって、候補者三人がそれぞれ根拠となる書類を提示したが、いずれも牽強付会の疑いをまぬがれるものではなかった。


 プロジャはじめとするデウチェ北部諸邦が推す、マイネレンベルクのゲオルク大公が候補その一。


 アドラスブルクが主張する、ときの皇帝ルドルフ三世の弟アルブレヒト大公が候補その二。


 そしてダンヴィケ王フレゼリク六世が候補その三。


 講和会議の議長国だったブライトノーツは、大陸情勢の“均衡”を望んでいた。メロヴィグが再度大帝国への道を歩むことはなんとしても防ぎたかったが、アドラスブルクの勢力復活も、つぎなる覇権をうかがうプロジャの台頭も避けたい、というのが本音だったのである。


 ブライトノーツは、ヘムシュタインの地域議会による投票で新公爵を決めたらどうか、と提案した。

 選挙では負けると思ったアドラスブルクは反対したが、選んでもらえるだろうと自信を持っていた、プロジャとダンヴィケはブライトノーツの仲介に乗る。


 ヘムシュタイン議会の票決は……ダンヴィケ王フレゼリク六世をヘムシュタイン公爵として統治者に迎える、というものであった。


 一見、これで丸く収まったように思える。


 ユテニア半島の全域が実質ダンヴィケのものとなった状態で、フレゼリク六世の治世はすぎていった。

 ……そして、なかなかに長生きしたフレゼリク六世が崩御する。いまから10年ほど前のことだ。


 フレゼリク六世の息子エンリーク四世が、ひとつの王国とふたつの公国を継承すると宣言したが、父フレゼリクに公爵位を与えたヘムシュタイン議会が、今度は待ったをかけた。デウチェ連合某国の大公が、対立候補として名乗りをあげたというのだ。


 ヘムシュタイン公爵は世襲の地位ではないのだから、エンリーク四世は候補者のひとりとして、選挙活動をしなければならない、というのがその主張であった。

 これまでの経緯を考えれば、議会の主張は法理にのっとっている。


 ……ようするに、賦課金を軽くするなり、貿易特権を認めるなり、ヘムシュタインを継承したいのなら()()を見せろ、ということだ。


 異論の余地なき遺産相続でしかないと考えていたエンリーク四世は、即座にヘムシュタイン議会に解散を命じる。

 それに対して、ヘムシュタインがわはダンヴィケ王に議会解散権はないと反発し、デウチェ連合への完全帰属を宣言。ダンヴィケへ離縁を突きつける。


 このヘムシュタインの強硬姿勢が、今度は隣接するスレズヴェルヒの憤激を引き起こした。スレズヴェルヒ議会は国主であるエンリーク四世へ、ダンヴィケ軍の派遣を要請する。ヘムシュタインは叛乱勢力だとして、ダンヴィケ・スレズヴェルヒの合同で鎮定すべきであるとする決議文まで採択した。


 スレズヴェルヒからの働きかけを受けて、その気になったのはダンヴィケの国民議会のほうだった。じつをいえばエンリーク四世は、デウチェ連合との衝突につながるヘムシュタインへの派兵には消極的だったのだが、議会に押されるかたちでスレズヴェルヒとの共闘に踏み切る。


 プロジャを先頭とするデウチェ連合北部諸邦も、介入の機会を得てヘムシュタイン保護を名目に軍を投入した。


 陸戦ではデウチェ連合軍が有利であったが、そもそも本拠地が北洋の島々であるダンヴィケ・スレズヴェルヒ同盟は、船を使って不利な戦闘からは素早く逃げ、連合軍の守りが手薄な部分へは海から奇襲をしかけた。


 ダンヴィケの島々のさらに北側、スカーラヴィナ半島のウェルデン王国はエンリーク四世を支援し、隙あらばスカーラヴィナを蚕食しようと狙いつづけているリュースも、中立を保つことで間接的にダンヴィケがわに友好をしめした。


 北洋がダンヴィケ支持一色に染まってしまい、勝ち切れないと悟ったデウチェ連合は、やむなく講和の仲介を第三国に求め、ブライトノーツとリュースが調停取り持ちに応じる。


 ブライトノーツ首都ロンディミオンでの講和協議で、ヘムシュタインの議会は地位を保証され、ダンヴィケ王国政府に解散を命じる権利はないことが確認された。


 その代わりに、ヘムシュタイン議会は、エンリーク四世をヘムシュタイン公爵と認めるかどうか票決を行い、僅差で信任する。

 ただし、ヘムシュタインの公爵位と領土は、ダンヴィケ王家の世襲ではない、ということはあらためて強調された。ダンヴィケがわも妥協として、ヘムシュタイン併合宣言を撤回し、向こう10年間の賦課金を二割低減することで賠償金代わりとした。


 原則現状維持のまま、問題解決は先送りされたのである。


 そしてさらにときを経て現在、ポリニカ問題でデウチェ連合の東側がきな臭くなっているさなか、エンリーク四世が崩御したのであった。


 父フレゼリク六世がたいそう長生きだったため、エンリーク四世は即位時点で70歳近い高齢だったのだ。父に比べると、普通の寿命であった。


 あらたなダンヴィケ王はハンス二世。


 ヘムシュタイン議会は、ハンス二世にヘムシュタイン公爵の地位を認めなかった。

 議会が選んだ新公爵はマイネレンベルク大公ルートヴィヒ(以前候補にあがっていたゲオルクの息子さん)であり、プロジャが進める汎デウチェ主義の熱烈な支持者として知られていた。


 エンリーク四世の余命が長くないことを見越し、かつてプロジャが仕込んでいた火種が、最悪のタイミング(現プロジャ宰相のディズマールにとっては望外に完璧なタイミング)で炎を上げたのである。



なおポリニカや、スレズヴェルヒとヘムシュタインの問題は、地球における相当地域(ポーランドとシュレスヴィヒ・ホルシュタイン)の歴史経緯とは多少異なります。地球史に寄せると複雑すぎて、それぞれ今の10倍書いても収まらないので、ものすごく単純化されていることをお断りしておきます。

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