さらば自由と奔放の日々よ
シャルロッテお姉さまの予想どおり、わたしは半年ほどつけ焼き刃の帝妃教育を受けただけで、エルディナント陛下と結婚式を挙げることになった。
帝妃教育というにはお粗末な、まっとうな貴族子女なら五歳で身につけていてしかるべき基本中の基本ばかりで、そのへんの新興商人のお嬢さんのほうが、いまでも間違いなくわたしより作法がなっているだろう。
母のアマーリエは「せめてもう一年猶予をいただきたい」と進言したけれど、太后ゾラさまに、これ以上の遅延は認められないと突っぱねられてしまった。
なにせ、本来なら前年のうちに、エルディナント陛下はシャルロッテお姉さまとご成婚されているはずだったのだ。
エルディナント陛下はまだ24歳の若さではあるが、皇帝に即位してからはもう六年、暗殺者の凶刃で頸に傷を受け、あわや落命という危機に瀕したこともある。じつをいえば、婚約者であるお姉さまとの顔合わせも、それで一度延期になっていた。
太后ゾラさまは、皇帝罷免運動の高まりに抗しきれずに先帝ハインリヒ陛下が退位したさい、自らの夫である皇弟マティアス殿下に継承権を放棄させ、わが子エルディナントさまを新帝とすることで、革命熱に浮かされていた国内を鎮めた実績のある女傑だ。
皇統の継続のため、もう寸刻も待てないと思っているのだろう。
避暑地ザルツクヴェーレでお姉さまと陛下の婚約が破棄され、わたしに婚約者の座が移ったのは去年の夏の終わりのこと。そしていま、春の盛りを迎えた帝都フィレンで、わたしは帝妃となる。ならざるをえない。
帝室の一員として、身のまわりの所用を決して自分でやってはならない――という、高貴な者としての躾けは、三歳のときには寝起きも着替えも自分ひとりでできるようになって、それでお父さまが手を敲って喜んでくれたことが嬉しかったわたしにとって苦痛きわまりなかったけれど、すさまじく手の込んだ仕立てのウェディングドレスは、さいわい自力で着つけられるようなものではなかった。
花嫁衣装として純白のレースのドレスが流行するようになったのは、いまから10年ちょっと前に、ブライトノーツのベアトリス女王が結婚式で着用し、参列した各界の有力者がその美しさに感銘を受けて、こぞって模倣するようになったからなんだとか。
侍女たちのなすがまま、ドレスを着せられ、髪を結われてその上にティアラを戴せられたわたしを、ドレッサールームのすぐ前で待ち構えていた太后ゾラさまは、しばし値踏みする目線でこちらの頭頂から足先まで走査してから、深いため息をおつきになった。
「……見た目だけは、人間だとは信じがたいほどに完璧だね。あの子がわたくしの与えたものを蹴って、自分の好みを押しとおしたのは、おまえがはじめてだよ」
ありがとうございます、と答えるのが適切な気はしなくって、わたしは黙っているしかなかった。
わたしの見てくれは、そこまでたいそうなものだろうか? 女性としては少々背が高すぎ、手脚ばかり長くて、ウェストは細いもののバストとヒップの張りがイマイチで……まあ、歩くハンガーとして、衣装屋は喜ぶかもしれないけれど。
こちらの沈黙を、謙虚ととったか生意気ととったか。心情を推し測る表情の変化は一切見せないまま、ゾラさまは優雅に全身で振り返って声を張った。
「アマーリエ、あなたもこっちへいらっしゃいなさいな。自分の娘の晴れ姿、見るのを遠慮することはないでしょう」
……母もすぐそこにいたらしい。
もちろん、結婚式なので、父フリードリヒも、ほかの兄姉弟妹たちも、帝都にやってきてはいる。もう、みんな聖堂で待っているものと思っていたが。
ゾラさまと母アマーリエは、ヴァリアシュテルン先王の娘で、じつの姉妹だ。もっといえば、プロジャの現王妃であるヴィルヘルミーナさまが長女で、ゾラ、アマーリエの順の三姉妹。かつて神聖帝国の中枢であった、デウチェの領域に現存している主要六ヶ国のうちの、三ヶ国が直接の姻族になっている格好だ。
これまでも、同盟のために結婚しては、決裂して親戚どうしで相争ってきた仲ではあるが。
つまり、わたしから見れば太后ゾラさまは伯母上になるわけだけれど、そうした身内の気安さというのはまったく感じられなかった。ゾラさまの厳しい性格というのもあるし、父のフリードリヒが皇宮を避けてきているからというのもあるだろう。
いつも父に連れられていたわたしは、太后さまと直接会ったことがほとんどなかった。すくなくとも、差し向かいに顔を合わせたのは、エルディナント陛下がシャルロッテお姉さまとの婚約を破棄して、わたしと結婚すると主張しはじめてから、ようやくだ。
早くから将来の帝妃と目されていたお姉さまは、ゾラさまのお気に入りでもあったのだけれど。
血をわけた姉妹である母とゾラさまは、さすがに他人行儀さのないていどに距離感が近かった。
控えの間からドレッサールーム前へやってきた母は、わたしの姿を一瞥して、
「中身はともかく、外面は帝室の一員として通用しそうで、ほっとしたわ」
といいつつ、右眉だけ器用に上げた。
これは、けっこう得意になっているときの表情だ。姉であるゾラさまの手前、あまりあからさまに自慢げな振る舞いだと差しさわりがあると考えているのか。
母に、このひそかな会心の表情をさせたことがあるのは、いままでシャルロッテお姉さまばかりだった。たぶん、わたしとしては初の快挙だ。
ほんとうに、そこまでかな?
「……セシーリア、今日の式次、ちゃんと頭に入っているでしょうね?」
わたしのドレス姿に満足してくれたことはわかったものの、母がこちらへ投げつけてくる言葉は相変わらずつっけんどんだ。慣れているけれど。
「予定外のことがなければ、どうにか」
「神聖なる皇帝陛下の結婚式よ、主の御心のままに、予定外などないわ」
母がそういうと、ゾラさまがかすかに鼻を鳴らした。あざけりではなく、ふくみ笑いしたのだ。
「それはちょっと、異端的ね、アマーリエ」
「今日だけは予定説に与するわ。アドリブなどごめんだもの」
「背教者に帰依していたら、事前の仕込みに裏切られないですんだのかしらね? ……それじゃ、のちほど聖堂で会いましょう」
「ええ、またあとで、お姉さま」
新郎である愛息エルディナントさまのもとへ向かうのだろう、ゾラさまはわたしたち新婦がわが控えている翼棟をあとにした。
やっぱりかけるべき言葉が浮かばないまま、わたしはただカーテシーで見送ることしかできない。「皇宮唯一の“男性”」といわれる苛烈さと厳格さで知られるゾラさまが、存外に軽妙な冗談を口にしたのが意外だったくらいだ。わたしに対するあてこすりがあったにしても。
太后殿下の背中が回廊の向こうへ消え、わたしの気がゆるんだのを察知したか、あたかも姉ゾラが乗り移ったかのような視線で母がこちらを見た。
母とゾラさまは姉妹なのでよく似ている。どちらも積年の気苦労でやや過食ぎみ、いくらか肥めになっているが、かつての輝くばかりの美貌を見るものに思い起こさせる面影は残っている。ダークブロンドの髪と青い眼は、若いころの肖像画と変わっていない。
ヴァリアシュテルン三姉妹の一番上、ヴィルヘルミーナさまは現在もすらっとしたスタイルを維持しているが、それはストレスの多寡ではなく、奢侈を廃した質実剛健なプロジャ宮廷の気風が関係しているだろう。
「すぎたことをあれこれいっても詮なきこと、あなたを責めはしないわ。あのとき、あなたがシャルロッテに随行することを許したわたくしのミスでもある。でも、こうなったからには務めを果たしてもらわないと困るわよ、セシィ」
「わかっています。シャルロッテお姉さまのあたらしい婿どの候補を選ぶためには、わたしが帝妃として安定しなければ話がはじめられないということですよね」
「……そういう部分の理解は早いわね、あなた」
母の目は「だれに似たのかしらね、この賢しらな小娘は」と語っていた。
父フリードリヒに連れられて、わたしは馬に乗ったり狩りをしたりするほかに、文壇サロンへ出入りすることもあった。
そこには各国官憲から危険分子としてマークされている人物もふくむ、さまざまな〈新思潮〉の持ち主が集まっていて、彼らの議論を聞き、父が君侯としての立場から社会変革を要求する勢力へ弁説を講ずるさまを見聞きしていた。
わたしがそうした「政治的」話が飛び交う中から理解したのは、人間社会はひとつの家族であり、その父兄たる貴族は、子弟である民衆を正しく導かなければならないということだった。すくなくとも、父はそのような立場を己に任じていた。
世相の物騒な昨今、波濤逆巻く国際社会の荒海へ、勝手に下々が泥舟を仕立てて漕ぎ出さないように、君侯は監督しなければならないのだと。彼らに造りの堅実な船を与えるのは、貴種の役目である。
円満な家庭を築き複数の子をもうけて、民衆に範をしめすのも、もちろん王侯貴族の義務のうちというわけだ。
母からすれば、わたしは、肝心なことをなにも身に着けていないくせに、無駄に変なことだけ知っている、扱いにくく鼻持ちならない娘なのだろう。
「わたしにシャルロッテお姉さまと同じことはできませんが、エルディナントさまを、わたしなりのやりかたで支えてゆきたいと思っています」
わたしがそういうと、母はあたかも姑であるかのように眉間にシワを寄せた。
「独自性は無用よ。時間をかけてでも、シャルロッテが学んできたことに近づきなさい」
「ゾラさまや、さかのぼれば前世紀のメレナ・テレーゼさまのように、ここしばらくのアドラスブルクの支柱は女性でした。エルディナントさまはご立派な皇帝陛下ですから、わたしが出しゃばる必要はありませんが、すこしはお手伝いができるのではないかと」
「……そんな話、姉にはしていないでしょうね?」
「もちろん」
声をひそめた母に対し、わたしはこくりとうなずいた。母のこの反応だけで、ゾラさまに意気込みを伝えるのが禁忌であったことはあきらかだ。いくらわたしが空気の読めない失格貴族令嬢でも、そのくらいはわかる。
母は真顔になって、わたしの両肩に手をおくと、聞きわけのない子供に言いふくめる調子で口を開いた。まわりの侍女たちに聞き取られないよう、小声で。
「余計なことを考えるのはやめなさい。太后殿下はあなたにとって、模範ではない。弾よけの壁よ、うまく使うことね。あなたが例え話に出したメレナ・テレーゼの末娘、メレナ・アンソニアは、メロヴィグに嫁ぎ革命で首を刎ねられた。知らないわけではないでしょう」
じつの姉を「壁」呼ばわりする、母のこの態度は、いちおうは娘であるわたしへの気づかいなのだろうか。あるいはただ単に、皇宮を実質的に支配しているゾラさまと、嫁に入ったわたしのあいだがこじれると、姉と娘の板挟みになってめんどうが増えるから、おとなしくしていろというだけのことなのか。
「はい。まずは結婚式を無事に乗り切ることに集中します」
母へ答えるという以上に、周囲へ聞こえるよう声を高めたわたしに対し、母のほうも芝居がかったしぐさでわたしの肩をぽんぽんとたたいた。
「しっかり頼むわよ。最初の一歩でつまずいているようでは、さきが思いやられるもの」
……結婚式本番についていえば、ただただ教わったことを間違わずにやろうと、必死になっていた記憶しか残っていない。
さいわい、事前にみっちり繰り返したリハーサルのとおりに進んで、大きなボロは出さずにすんだ。
なお、リハーサルを何度もやったのはわたしだけ。大司教さまとか、エルディナントさまは、前日に一度式全体の流れを確認しただけだった。
……なんであれだけでしっかり覚えられるんでしょうね?
若き皇帝陛下の結婚式ということで、かならずしも良好な関係とはいいがたい国や地域からの出席者も多く、もしかしたらほんとうに、正統派とは主義の違う「予定説」の信奉者も多くいたおかげだったのかもしれない。