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父としての顔、皇帝としての顔


 エルディナントさまは、公私のべつをきっちりとしたいと考えているお人だ。


 一日の政務を終えて、わたしと子供たちが待つ皇宮の奥へ戻ってくるときには、無数の政治的難題を抱えた皇帝のエルディナント・フランツではなく、三児の父であり、セシーリアの夫であるエルとしての顔になっている。


「ただいま、セシィ。いい子にしていたか、ヨーゼフ、ゾラ、テレーゼ」

「お帰りなさいませ、陛下」

「だー」

「パパ」

「パパ、おかえり」


 生まれて四ヶ月め、首が座るようになったヨーゼフは、パパの腕に抱かれてご機嫌そうだ。乳母たちの区別はついていない感じがするのだけれど、どうも、パパのことははっきりわかっているように見えてならない。毎日ヨーゼフと顔を合わせる面々の中で、おヒゲが生えているのはエルだけだからだろうか。


「ヨーゼフばっかり。わたしもだっこして」

「パーパ」


 ()()に名前をもらった効果か、ゾラはかなりはっきりと自己主張をする子に育っていた。テレーゼも、お姉ちゃんと一緒にパパの服のすそを引っ張る。


「ああ、わかったわかった」


 苦笑しながら、エルはヨーゼフをわたしに預け、テレーゼを抱き上げる。ちいさい順、という法則をわきまえて、ゾラはむくれ気味ながらも黙って待っていた。理屈としてすじが通っていればおとなしくするあたりは、ほんとうにどなたさまかにそっくりだ。


「お義母さま、ヨーゼフをお願いします」


 テレーゼがパパにひととおり甘えるのを見て、わたしは太后ゾラさまへヨーゼフをたくす。

 ……そう、家族団らんのときでも()がつねに入っている、それが皇族というものだ。レヒトハイネン男爵夫人はじめとする乳母部隊も、つねに皇子皇女をお世話できるようにひかえている。いまはエクセルハーディ伯爵夫人が外しているだけ、まだマシか。


 わたしはエルからテレーゼを抱き取り、すこし不満げな娘のほおをなでてなだめる。順番がやってきたゾラは、さっそく父親のひざの上に乗って、おしゃまな女の子らしくおしゃべりをはじめた。


「きょうからレティネごのおべんきょうがはじまったの」

「お、すごいね。パパは古語はちょっと苦手さ」

「わたしもぜんぜんわからない。べあとぅす、ゔぃー、くぃ、すふぇると、てんたつぃおねん……って……なんなの?」

「偉いぞゾラ、一節ちゃんと覚えてきたなんて。賢いな」

「なんかいもくりかえしでいわされただけだわ。つまらなかった」

「Beatus vir, qui suffert tentationemという言葉はね、艱難に耐えしものはさいわいなり、という意味さ」

「どういうこと?」

「どんな苦しみも、神さまが与えてくださったものだから、逃げてはいけないということだよ」

「かみさまっていじわるなのね」


 わたしもエルも、ふふっと笑ってしまう。ちびゾラの発言に、大きなほうのゾラさまはちょっとご不満げだ。でも、神さまを毫も疑ってはなりません、と、年端もいかぬ子をたたいて躾ける方針を、エルもわたしも採用するつもりはない。


「神さまがなにを考えておいでなのか、人間には知ることができないんだ。でも、主はすべてをご覧になっている」


 エルの言葉は、娘へ聞かせるというよりは、自分へ向けているようにわたしには感じられた。帝国へつぎつぎと降りかかる災厄は、神の御心だというのだろうか。


 これまでのアドラスブルクの業が清算されるべきときがきているとして、それを支払うのがなぜエルでなければならないのか。あるいは、わたしたちのヨーゼフが請求を受けるのだとしたら。


 ゾラは、ここにありながらどこか遠くのところのことを考えている父の顔を見返すばかりで、なにもいわない。


 幼子が三人もいる部屋とは思えない静謐が寸秒つづいたが、ドアをノックする音が沈黙を破った。


 レヒトハイネン男爵夫人が応対してしばらく、ドアが大きく開くと、戸口にベルヒャー伯爵がかしこまっていた。エルディナントさまの副官であり、陸軍参謀本部との連絡役でもある。


「失礼いたします。皇帝陛下の御所をお騒がせし、恐縮至極にございまするが、火急の事態ゆえ、やむをえず罷り越しました」

「すまないゾラ、パパは仕事に戻らないといけなくなった」


 ゾラをひざから降ろして、エルディナントさまはほんとうに申しわけなさそうにそういった。


「おしごと?」

「ああ。……セシィ、テレーズ、ごめんね。母上、ヨーゼフをお願いします」


 ゾラ、わたし、テレーズの順にほおへ接吻をして、祖母の腕で眠っているヨーゼフをひとなでしてから、エルディナントさまはベルヒャー伯とともに足早に回廊を歩み去っていった。


 政務を終えて私房(ケメナーテ)に退がっていた陛下をわざわざ呼び出しにくるとは、よほどの事件だ。バルティア・ロカーナでなにか起こったか。


 やはりただごとではないと察し、わずかに眉をひそめていた太后殿下だったが、すぐにこの場でもっとも偉い人として指示を下しはじめた。


「子供たちを寝かしつけるわ。セシィ、おまえももう(やす)みなさい」

「……はい、お義母さま」


 皇帝陛下とも、次世代のアドラスブルクの皇子たちとも、帝妃の接触は必要最低限であれ――太后としてのゾラさまの方針はまだ変わっていない。

 乳母たちがよく仕事をしていて、子供たちもなついており「ママがいい!」と泣き出すこともないのは、良いのか悪いのか。


「おやすみなさいママ」

「おやすみゾラ」

「マーマ、またね」

「おやすみ、テレーゼ」


 ちょこんとお辞儀するゾラににこりとほほえみ、テレーゼを乳母のひとりに引き渡す。ゾラさまも自ら抱いていたヨーゼフをひかえていたもうひとりの乳母に預け、レヒトハイネン男爵夫人が一礼して、乳母部隊を率いて皇帝一家の居間から辞去していく。


 わたしはひとりさみしく(といっても当然侍女連がまとわりついているが)寝室へ。今夜エルディナントさまがいらっしゃることはないだろう。


 ゾラさまも、どうやらご自分のお部屋へ戻るつもりのようだ。帝国の非常事態、しかしもうエルディナントさまの判断に口を挟むべきではないと考えているのか。


 いまこそエルディナントさまは、大臣や官僚以外の、遠慮ない立場からものをいえる人間に相談をしたいと思っていらっしゃるような気がするのだが……。


    +++++


 フィレン内外の慌ただしさが、皇宮の奥まで伝わってくるようになった。


 たとえわたしが太后殿下の言いつけを素直に守って、いっさい外部の政治動静を調べていなかったとしても、アドラスブルク帝国が容易ならざる事態に直面しているとすぐにわかっただろう。


 実際には、最重要機密以外のたいていの情報はわたしの耳まで届くようになっているので、中央政府の閣僚ほどではないが、地方の行政官と同じていどには状況の推移を把握していた。


 バルティア・ロカーナでの独立運動が発火点を迎える前から、エトヴィラ民族闘争を支援すると決めていたメロヴィグのバルトポルテ三世だが、メロヴィグ軍に戦時の備えはさせていなかった。


 なぜかといえば、対外干渉戦争に、メロヴィグの世論がきわめて否定的だったからだ。

 皇帝暗殺未遂事件の犯人にしてエトヴィラ独立宣伝師となったオブリスコーニに対し、メロヴィグ国民は同情的で、殺されかけておきながらオブリスコーニの心情を汲み、エトヴィラ独立への理解をしめしたバルトポルテ三世の演説にも拍手を送ったが、エトヴィラ独立勢力を援助するだけならともかく、出兵には反対の声が多数を占めていた。


 そのために、メロヴィグは戦争に巻き込まれたのだ、という体を繕うため、バルトポルテ三世は非戦主義をよそおって、ザフィーアン公国と結んでいる安全保障条項の発動トリガーとなる、オストリヒテの宣戦布告を待っていたのである。


 偽装だけで水面下では準備を整えさせていた、というわけですらなく、メロヴィグ軍は平時からの即応を問われることになった。


 自身は開戦すると最初から(はら)を決めていたバルトポルテ三世は、オストリヒテからザフィーアンへの宣戦布告に対し、すぐさまメロヴィグからオストリヒテへの逆宣戦を布告したが、肝心の軍隊は、兵舎でのんびりしている士卒を整列させるところからのスタートだった。


 つまり、すでに係争地バルティア・ロカーナに駐留しているオストリヒテ軍からすれば、侵入してきたザフィーアン公国軍を追い払い、国境を、港湾を封鎖してしまえば、戦わずしてメロヴィグを退けることができたのである。


 ところがバルティア・ロカーナ駐留軍の司令は()()グライ将軍であった。一面識もないのに、もはやわたしの中でグライ将軍は腰抜け無能の代名詞だ。


 バルティアの現地住民から熱烈な歓迎を受けるザフィーアン軍との戦闘をためらったグライ将軍は、まだ現着はしていないメロヴィグ軍の出鼻をたたいて敵同盟の士気を挫いてやろうと、人口密集地帯から退いたそうである。


 ……そこまではまあ、かならずしも不当な判断とはいえないと思う。どの都市も町村も、ザフィーアン軍を迎え入れオストリヒテ軍には門を閉ざしていたというから、もろともに攻撃すれば民間人から犠牲者が出て、さらにエトヴィラ世論の反発を招いただろう。

 強引に打ちすえてひたすら弾圧するフラディキ将軍流のやりかたが正しいのかどうか、わたしにも疑念はある。


 ところがどうしたことか、充分な装備をしているわけでもなく、三本の峠道にわかれてバラバラに進んできたメロヴィグ軍の先遣部隊相手に、グライ将軍は敗れたのだった。


 ……普通にやれば勝てるはずですよね? 敵が集結する前に各個撃破。なにが難しかったんでしょう……?


 さらにメロヴィグの輸送船団を阻止できず、海路で運ばれてきた砲兵部隊と峠を越えた歩兵部隊が合流するのを許してしまう。数と火力で彼我の差がなくなったことを察したグライ将軍は、要塞に逃げ帰ってモグラに戻ってしまったのだった。


 ええと……海軍に要請してメロヴィグ輸送船団を阻止して港湾も封鎖して、向こうが大砲を使えない状態にしてから再戦を挑めば、雪辱晴らせたんじゃないんですか?

 わたしの考えが甘いんでしょうか? いやでも、メルヒオール大公が総指揮執っていれば実行できた作戦じゃあ……。そりゃあ、港町のエトヴィラ人も全員ザフィーアンとメロヴィグの味方でしょうけれど。

 ザフィーアン公国はバルティアよりさらに内陸側の国で、海には面してないから軍艦持ってないし……。当然メロヴィグには海軍あるけれど、陸軍同様準備万端ではなかったはずだし……。


 ……まあ、わたしの分析が正しいのか机上の空論なのかはともかくとして、グライ将軍初動から全敗、の報を受けて、泡を食ったベルヒャー伯がエルディナント陛下を呼びにきたのが、この前の夕刻のできごとだったわけです。


 ベルヒャー伯は泣き言ばかりのグライ将軍へ、


「老いぼれ駄馬のフラディキにもできたことが、貴官にできぬというわけはあるまい」


 とか叱咤の逓信(ていしん)文を送ったそうですが、それ受け取ったときのグライ将軍の気持ちはわたしにも想像つきます。


「じゃああんたが代わってよ」


 ……って。


 いずれにしても、グライ将軍の失脚はもはや既定路線。バルティアの八割がザフィーアン軍によって掌握され、メロヴィグ軍の動員も完了、ロカーナ方面へいつ敵がなだれ込んでくるかわからない。


 一方で、オストリヒテのバルティア・ロカーナ駐留軍は負けっぱなしといっても、損害はほとんど受けていない。

 開戦から一ヶ月、小競り合いで主導権を握られては逃げ、敵軍が増えたのを見ては逃げ、という状況で、数の上ではメロヴィグ・ザフィーアン同盟軍が合流を果たした現在でも互角だ。


「気鋭の指揮官を送り込んで、士心を一新すれば負ける道理はありませんよ。……最初からやっていれば、そもそもメロヴィグ軍本隊がエトヴィラに入ってくることすらなかったのですがね」


 というのがマイラー伯爵の見解で、わたしもそう思っていたのだけれど……。


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