帝国という架空の概念
わたしは閣議や諮問会議に出席することを許されていない。
女は政治に触れるものではない、と、自らは重要政策の決定に深く関与しながら、太后ゾラさまは、わたしが儀式以外で皇宮のアドラスブルク家私邸部分から離れることを決して許さなかった。
これは、一切出かけてはならぬ、という意味ではなくて、宮廷内の政治を司る部署へは近づけなかったということだ。皇宮の外へ出向くぶんには、とくに制限はない。もちろん、監視をかねた従者がたくさんついてくるけれど。
同じ敷地内でありながら、わたしにとって帝国政府の庁舎は外国よりも遠いところだった。
フィレンに駐在している外国公使や、他国の外交団が皇宮を訪れたさいも、わたしは歓迎のレセプションには出席するが実務協議からは締め出されていた。アドラスブルク皇帝夫妻として、こちらから外国へ出向いたときも同様だ。
帝国原理、神聖不可侵なるアドラスブルク皇帝の権威――そういった、形式上の概念を現実よりも重視した諮問会議は、バルティア・ロカーナ問題に対して強硬姿勢で臨むべきであると答申した。
自治権など論外、バルティア・ロカーナに帝国政府の施策へ異議を唱える資格はない。
ザフィーアン公爵はアドラスブルクの封臣であり、その増長は許容しがたい、ただちに軍の動員を解除せよ。
……という、フィレンから発せられた威嚇的な布告がバルティア・ロカーナ地方の各市に掲げられたが、もはや耳を貸す者はだれひとりとしていなかった。
帝国政府の命令書一枚にエトヴィラ人全員がひれ伏すのであれば、そもそも最初から問題は起きていない。バルティアの人々はザフィーアン公国の旗を掲げ、国境のバリケードを勝手に撤去して“エトヴィラ解放軍”を迎え入れる準備をはじめた。
ザフィーアン公国の肇めが、アドラスブルク皇帝による叙爵と封地の授与にあることは歴史上の事実であるが、いまのザフィーアンはバルトポルテ戦争の結果、国際条約で独立を認められた主権国家である。したがって、アドラスブルク帝国からの武装解除要求に、法的拘束力はない。
ザフィーアン軍が国境に整列している緊張状態の中、フィレン駐在のザフィーアン大使が帝国政庁を訪れてきた。
「オストリヒテ政府の声明は、わがザフィーアン公国の主権を侵害するものであります。これは、宣戦布告でございましょうか?」
「わが帝国の内政問題に干渉し、あまつさえ侵入軍の準備をしている国の大使が、どの口でいうか!」
大使に応対したのは帝国外相ドゥーロフで、強硬な保守派であり反動主義者だった。皇帝の権威と自分の偉さを混同しているタイプの、典型的小物だ。
ザフィーアン大使ピアリッツは、本国の実質指導者カティーノと、その背後にいるバルトポルテ三世から指示されたとおりに、尊大な役柄を演じてみせた。
「わが国の意図は、先日バルティア・ロカーナ総督メルヒオール大公殿下へお伝えしたとおりであります。そちらの通行許可か、宣戦布告なきかぎり、決して国境を越えはしませんとも。……もっとも、バルティアの民衆は、いますぐにでもわがほうの兵士を歓迎したい様子でいると聞いておりますがね。取り締まりの気配が一向にないということは、そちらの地方当局は治安維持能力を喪失して、わが軍を頼る方針で決まったものだと思っておりましたが」
「たわけが! わが帝国の正式な通告は貴国政府へ直接伝える。道化は帰るがいい」
「……つぎはおそらく、離任のごあいさつでうかがうことになりましょうな」
ヒゲまで天を衝いて怒りをあらわにした帝国外相ドゥーロフに対し、ザフィーアン大使ピアリッツは飄々としたまま立ち去っていったという。
……メロヴィグの奇帝バルトポルテ三世と、ザフィーアンの曲者カティーノの描いた筋書きに乗せられるまま、拳を振り上げてしまったアドラスブルク帝国は勢いに任せて宣戦布告をたたきつけ、即日バルティア民衆の歓呼の声に迎えられ、待機していたザフィーアン軍が国境を突破した。
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アドラスブルク帝国が発したザフィーアン公国に対する宣戦布告は、もちろん外相ドゥーロフの独断ではない。
諮問会議が奏上し、それを受けてエルディナント陛下も臨席された御前閣議で決定された、帝国政府としての方針である。
かたちの上では、小邦ザフィーアン公国に対し、かたむき気味とはいえいまだ西方最大の帝国であるアドラスブルクが「膺懲」の意志をしめした宣戦布告となる。
実質としては、ザフィーアンと相互安全保障協定を結んでいるメロヴィグが安保条項の発動によって参戦することになり、新旧帝国今世紀二度めの激突となった。
なお前回の、初代バルトポルテとの戦いはアドラスブルクの完膚なきまでの惨敗。西方中の諸王朝と連合してバルトポルテ包囲網を敷き、最後の最後でどうにか撃退したが、失われたものは戻ってこなかった。
失われた有形無形のさまざまなものの中で、もっとも大きな要素が「神話」である。
もはや、神に選ばれし全人類の統率者アドラスブルクの霊威はない。
同じく、神によって王権をゆだねられた(と称していた)メロヴィグ旧王家ベルボーン朝は、すでに滅亡している。
いまの世の中、統治者の正当性を認定しているのは、神託や予言ではなく〈民族〉だ。バルトポルテ一党のように選挙こそしていないものの、アドラスブルク皇帝も「諸民族の調停・統合者」として、統一感に欠ける10ヶ国少々をどうにかまとめようと努め、不完全ながら帝国の空中分解だけは防いでいた。
そんなアドラスブルク帝国の内側はといえば――
オストリヒテのデウチェ人のように、「デウチェ統一国家」として北の盟主プロジャに従属するのをよしとせず、アドラスブルク家をデウチェの君主とみなしている人々がいる。
あるいは、アジュール人のように、デウチェ人の支配下に甘んじるつもりがなく、アドラスブルク皇帝のもとでの民族平等と、むき出しの暴力と経済力による覇権闘争の、どちらが確実な勝利に近いのか、天秤にかけている人々が。
チェルキ人や、ロダリア人、セラデア人、ポリニカ人など、さらに数のすくない諸民族は、アドラスブルク帝国が倒れた場合、アジュールのような相対的に強大な民族によって併呑され、新王国の一部にされることを惧れて、現状維持、帝政の消極的肯定を選択している。
ひとつの権威の崩壊によって地域が再編され、少数派がさらなる零落を強いられるというのは、神聖帝国の失墜や、バルトポルテ戦争の結果にともなって、しばしば起きてきたことだ。
……そうした、各民族の思惑が交錯する中、バルティア・ロカーナの人々は、古くからの帝国による統御より、エトヴィラの他地域との合同を選んで決起した。
絶対王政というのは宇宙の法則ではなく、革命によって打倒できるのだ、と証明したのは、前世紀末のメロヴィグ革命である。
もっとも、革命を起こしただけで自動的に新国家が樹立されるわけはなく、右往左往の多重政変と内紛と、諸外国との戦争を繰り返したあげくに、バルトポルテ三世が〈皇帝〉に収まっているのがメロヴィグの現状であるが、エトヴィラには新生王国の旗手となる候補者がいた。
ザフィーアン公国の君主、ヴァレリアーノ・エミーリオ・メリーアン=デ・ヴァンザ・ドゥ・ザフィーアンである。
公爵ヴァレリアーノは派手好きの女好き、性格は古典的君侯で保守派でもあったが、人を使うのは上手くて、立憲主義者である首席執行官カティーノはじめ、主義主張では対立していても、有能な人材に実務を任せる度量があった。
一方のわが帝国はといえば……
ザフィーアン政府へ宣戦布告文書を送付する直前に、皇弟メルヒオール殿下はバルティア・ロカーナ総督の任を解かれていた。
バルティア・ロカーナ各地の議会と民衆を慰撫して巡回していたメルヒオール殿下だが、懐柔が通じないならば自ら独立運動を鎮圧するとして、グライ将軍を免職して駐留軍の指揮権を執らせてもらえないかと進言してきていた。
血気盛んな若者らしい志願であったし、皇弟が先頭に立てば、怯懦なグライの指揮下で引きこもって、消沈している軍の士気も回復していただろう。
しかし、フィレン政府はいくつかの理由によって、メルヒオール殿下を現場から遠ざけることを選んだ。
第一に、メルヒオール殿下は海軍の名誉的総帥であり、陸軍の指揮官ではないということで、軍部が難色をしめした。
第二に、バルティア・ロカーナ巡察の過程でメルヒオール殿下が現地有力者や市民へ語りかけていた内容が、保守派の気に入らなかったという面もあった。自治権の付与だの、税制優遇だの、そもそもフィレン政府はバルティア・ロカーナに許すつもりなどなかったのだ。
そして第三の、最大の点が、太后ゾラさまがメルヒオール殿下の身の安全を求めたことである。テロリストが跋扈する中、わずかな随員のみを連れて各市をめぐっていたというだけで、ゾラさまはずっと不安にさいなまれていた。この上、戦争で前線に立つなどとなったら、心配のあまり夜も眠れなくなってしまう。
わが子を想う母の気持ち、それはわたしもわかる。
ただ、解任されたのはメルヒオール殿下だけ。使い物にならないグライ将軍には、そのまま駐留バルティア・ロカーナ総司令として、叛乱を鎮圧し、ザフィーアン軍を、さらにはザフィーアンの同盟者であるメロヴィグ軍をも撃破せよ、と命令が下ったのだった。
……わたし、軍事はドシロウトなんですけれど、戦う前から負けるってわかっちゃったんですよね、これ。
まだ、純軍事的にはなにもやらかしていないグライ将軍を、みだりに免職にするのは信賞必罰の面から差しさわりがある、ということだそうですが。
でも、バルティア・ロカーナ地方の各市の現地警察の要員はエトヴィラ人なわけで、同胞を弾圧せよだなんて命令を彼らが聞かなくなるのは当たり前。その責任を総督だったメルヒオール殿下に問うて、警察が頼れなくなったときに治安出動すべき軍を機能不全にしていたグライ司令は不問というのは、なんかおかしい気がするんですけれども。
わたしにはなんにも決定権ないからなあ。決定権どころか、政治情勢に関する話に加わることすら認められてないし。
こうやって情報収集してるのは無断ですからね。新聞読むのも、閣僚や官僚と話をするのも、全部ゾラさまに禁止されてる。
皇宮の内外で小耳に挟んだうわさを、各教養の講師という名目でわたしの自習サロンに出入りしている、アジュール名士たちが届けてくれているわけだけれど……
「グライは、保って一ヶ月でしょうな」
「ろくな武器を持っていないデモ隊ならともかく、メロヴィグから武器供与を受けているザフィーアン軍や、ましてメロヴィグ本国軍と戦うなんて無茶だと、グライ将軍は泣きべそをかいている始末だそうで」
「エルディナント皇帝つき武官のベルヒャーは、グライから『フィレンに帰りたいから代わりの将軍を派遣してくれ』という逓信文を受け取って書面を破り捨てたそうです」
「グライを更迭したら、ベルヒャーが自分で行くしかありませんからな。やつはフィレンでぬくぬくとしていたいだけだ」
……なんだか頭が痛くなってきた。
逓信文というのは、腕木信号のリレーで送られてくる遠距離送達文書のことだ。電信が新大陸で発明されて、じょじょに広まってきているけれど、最新技術を扱える業者がいないのでまだわが帝国では普及していない。
潜在革命分子であるアングレアム伯爵は、フィレンの帝国政府が浮足立っている様子を、半ば面白げに伝えてくる。
わたしとしては笑っている場合ではない。
「いないんですか、グライ将軍以外の人材」
「フラディキ将軍が90歳になるまで頼り切っていたくらいですから。フィレンにまともな将軍はおりませんな。強いていえば、皇帝陛下自らのご出馬くらいでしょうか」
「そんな……陛下に万一のことがあったら……。それなら、メルヒオール殿下にお願いしたほうが」
わたしがそういうと、アングレアム伯は難しい顔になった。
「メルヒオール大公は、海軍改革ですでに実績をしめし、海軍の制服組から高い評価を得ております。この上、陸でも目覚ましい戦果を挙げるようなことがあれば……」
アングレアム伯は言葉尻を濁したが、わたしも背筋に冷たいものを感じて口をつぐむことになった。
陸海双方の軍部から、ほとんど信仰ともいえる、絶大な支持を集める軍神メルヒオール大公――その実現は、アドラスブルク帝国そのものを揺るがす。
存命中の皇帝が自ら退位し、実子以外の血縁者に帝位を譲るという前例は、すでに確立しているのだ。それを主導したのは、だれあろう太后ゾラさまなのである。帝国の危機を切り抜けるため、義兄であるハインリヒ陛下が退位を宣言したとき、夫であるマティアス殿下に継承権を放棄させ、わが子エルディナントさまを登極させた。
帝冠を戴くに足る血筋であり資質の差が明確であれば、継承優先度はかならずしも尊属順ではない……フィレン宮廷の内外で政治に携わっている者たちは、あのときのことをまだ忘れていない。
強大なカリスマを戴いた軍部が主導する、新帝国政府。それは、一部の権力者にとってきわめて魅力的な国体に思えるだろう。
エルディナントさまの周囲を固める守旧派閣僚は、確実にそのことを危惧している。だからこそ、メルヒオール殿下をバルティア・ロカーナ総督から外し、駐留軍の指揮権はゆだねなかったのだ。
太后ゾラさまも、兄弟が帝冠をめぐって争いを強いられる事態が訪れないよう、アドラスブルク家としての安定を国防より優先することにしたのだろうか。
領土を守った結果、二重権力が生じて帝国そのものが動揺したのでは、たしかに意味がない。
だからといって、負けるとわかっている目前の戦争を無為のまま迎えるのが正しいのか……。
わたしは意を決して、地元アジュールではいまもって大きな影響力を持っている、かつての叛逆者へ、頼みごとを切り出した。
「アングレアム伯、ひとつお願いできますか?」
「私にできることでしたら」
「あなたならできると思います。お金はかかりますが、資金はわたしが都合しますから――」




