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跡に残るは雪ばかり。  作者: 朝日 橋立
第一章 初めの不幸について
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第八話 日常的な幸せ

 昨日チェスをたくさんしていたために、三十分ほど寝坊をしてしまいました。

 不味いと思い、急いで着替えたものの、その日は夜に駅に向かう以外に外出をすることがなく、急いだ意味もそこまでありませんでした。


 何故外出をすることがなかったのかというと、それは単に強い雨が降っていたからです。

 わざわざ大変な目に遭ってまでも外出する必要性は、無意味だと思ったのです。

 では、その浮いた時間に何をやったかと言いますと、昨夜と同じく勉強とチェスをしました。けれど、その比率は違い、チェスと勉強が七対三くらいの割合でした。


 チェスの勝敗は、昨日と変わらず、十割の黒星でした。

 勝つための道筋すら見えないのですから、それはもう凄まじい負け方を繰り返しました。

 動いてしまっては、重要な駒を取られる状況に追いやられる事もあれば、重要な駒が二つ同時に狙われ、取捨選択をする状況にもなってしまったりしました。


 きっとまだチャールズ男爵は、手を残しているでしょう。

 その為に、この状況では勝つというのがどれだけ大言壮語であり、そして非現実的なのかを思い知りました。

 ですが、それでも諦めは付かない物でした。大体五回か六回目の敗北を喫した所だったでしょうか、私は彼に言いました。

「チェスの勉強をしたい! 何か勉強できる本はある?」


 それまで閑寂に満たされた部屋だった為か、思ったよりも声が大きく自分でも驚きました。けれど、チャールズ男爵は驚いた様子がなく、問いかけてきました。

「本で良いのかい?」


 彼は、私がそこまで難しい文章を読めないことは知っているでしょうから、その問いかけは尤もなものだったでしょう。

 ですが、私は思ったのです。教わるだけではなく、自ら学ばなければ勝つにも勝てないと。

 しかし、そんな俗な理由も話すのもどうかと思われました。どうやって返したものか、と思いつつも相応しいことを言います。

「うん。読むことの練習にもなるから」


「嗚呼、確かにそうだ。それじゃあ、何冊か見繕おうか」と、彼は壁に並んだ本棚へと歩いて行きました。

 少しの間その背中を見つめていましたが、視線を外して、チェスのボードに移しました。正方形のマスが刻まれた板の上には、静かに駒が佇んでいます。


 既に大体の駒の移動位置は覚えました。しかし、勝ちには程遠いのですから、やはり戦術が足りないのでしょう。

 大きな経験の差、そのことを加味した上で、戦略を立てることも必要なのかも知れません。けれど、出来ないことを無視したとしても、何だか卑怯なように思えたのです。


 さて、そうしてチェスボードを見つめていると、声を掛けられます。

「いくつかの本を見繕ってきた」

 その声の主は勿論チャールズ男爵であり、彼は分厚い本を二冊ほど私の目の前に置きます。

「ありがとう」と、軽くお礼をし、その本を一冊手に取ります。


 表紙を眺めているとふと、このような娯楽の本がこれ程あると言うのは、凄まじいことだなと思いました。

 娯楽というのは余裕があるからこそ生まれる物です。そして、余裕というのは他者との差があって生まれる物です。

 だからこそ、そんな娯楽についての本を書ける珍しい人がいる祖国グラテン帝国は、やはり大変な優位にある国なのでしょう。


「これはどんな本?」とタイトルだけでは埒があかず、チャールズ男爵に問いかけます。

「それは基本のルールと小手先の小技のヤツだよ」

「それじゃあこっちは?」

「そっちは対局を分析した物だよ」

「うん、分かった」


 それからというもの、私は前者の本を読み進めました。

 実践もなく身につけることが出来ないだろう、と言えるかもしません。しかし、知識が中途半端な状態で、実践をすることに何の意義も私は見出すことが出来ないのでした。


 そうして、時折単語の意味をチャールズ男爵に問いかけ、それ以外は妙に大きな雨音以外は、ほぼ無音の内で、数刻ほどの時が過ぎます。

 何時間も経っているのですから、既に雨が止んでいると思いきや、その雨音から未だに強く降続けていることが分かりました。

 これは出発する夜まで降っているかも知れない、と少し面倒に思ったのを覚えています。


 それから雨が打ち付ける窓を見ていると、チャールズ男爵より声が掛けられます。

「何か軽いものでも食べるかい。もうお昼時だが」

 私はそこまでお腹が空いていないな、と思いながらも彼に返します。

「うん、お願い」

 お腹の音を鳴らしてしまうのも恥ずかしいですし、それにちょっとばかし集中力の欠乏を感じたためでした。


 彼が部屋の外に出て行くのを見届けた後、「ふぅ」と多少息をつきました。

 そして、欠伸を噛み殺しながら、チェスの駒を拾い上げます。それは黒のポーンでした。


 私は、その最も価値のない駒を少しの間見つめ、チェス盤に戻します。

 何か新しい発想が生まれる、と思ったのでした。けれど、そうも都合良くは行くはずがなかったのです。


「はあ」と、溜息をつき、椅子に深く腰掛けます。

 そうしている内に、今度は耐え難い欲求のままに欠伸をして、チェス盤を見つめました。

 こうでもしていれば何かあると思われましたが、特に何もありませんでした。当然なことでありますが、眠気さえないのは少し予想外でした。


「ハハハ」だのと、ちょっと笑いつつも体を伸ばし、椅子にちゃんと腰掛けます。真面目に勉強を再開したのでした。


 さて、それからです。勉強を再開した少し後に、チャールズ男爵が持ってきてくれた軽食を食べ、また本を読みました。そうして、また数刻が過ぎます。

 日も陰り始め、駅に出発するのに丁度よい時間帯だと悟ります。事実その通りであったのか、チャールズ男爵は私に言います。

「シア君、もう直ぐ時間だ。準備は出来てるかい?」

「うん、分かった」と、本を机に置き、侍従さんがまとめてくれたトランクケースを手に取ります。


 チャールズ男爵は、その様子を微笑ましげに見たあとに言います。

「その本はあげよう」

「持って行って良いの?」と、彼に問いかけながらも私は恥ずかしい思いでした。きっと、名残惜しかったのが伝わってしまったのだ、と。多少卑しいことでしたから。


「ああ、勿論構わないよ」と、やはり彼は微笑ましげに言います。

 それを見て、私はこの人は本当に優しい人だ、と思いました。

 幾ら印刷技術が進歩したとしても、きっと本は高いものでしょう。詳しいことは知りませんが、このような専門書なのですから尚のことです。

 けれど、当時の私にはそんなことは知る由もなく、彼に単にお礼を言いました。

「ありがとう!」と。



 そう言うような一場面もありつつ、私はチャールズ男爵が用意してくれた馬車で、無事に駅に到着しました。そうして、初めての帝都を見た場所に立ち返った私は、再びそこから帝都を見ます。

 その景色は、夜の帳を打ち砕くようなものではなかったように思います。

 ガス灯の暖かな輝きは、尚も降り注ぐ黒々とした雨によって、物悲しく思えました。明りを灯す家々もです。

 幸先が悪い、と思ったのを覚えています。


 さて、多少悲しい気持ちになりはしたものの、列車は待ってくれることがありません。私は名残惜しく思いながらも、列車の方へと歩いて行きました。

 それから十数分の後、列車は北の大都市ミンチェスターへと出立したのでした。

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