第三話 幸せは一過性のものです。
昨日、帝都に行くことが決まり、私は大急ぎで準備をしました。
準備する物言っても多少の服をトランクケースに詰めるだけでしたが、それでも時間がかかりました。度々横糸に逸れ、遊んでしまったからです。
可愛らしい服に目がなかったという訳ではありません。ただお母様と服を選ぶのが楽しかったのです。
さて、案外重いトランクケースを片手に私は、玄関の前に立っていました。
徐々に近づいてくる馬車を見ていると、後ろから声がかけられます。
「シア、都会は危ないから気をつけなさい」と言うお父様のものです。
帝都並みの都会に行ったことのなかった私に、お父様は釘を刺したかったのでしょう。
都会は危険なんだ。だから、ここにいた方が幾分も良いと。
けれども、私にそれを察する能力などありませんでした。
「うん、分かった」と単純に考えました。
そうこうしていると、馬車は直ぐ近くまで訪れてきます。
その馬車はクーペと呼ばれる種のもので、所謂乗合い馬車よりも豪華なものでした。けれど、大変に豪華なものではなく、商家などの中流階級が使う物に思えました。
私自身の家、アトウッド家というのですが、この家は下流階級でした。
ですから、その階級の馬車には縁もありませんので、高揚感を覚えました。
「さあ、行ってらっしゃい」と、目を輝かしている私にお母様は言います。
きっとこのまま見とれていると時間がかかってしまう、と思われたのでしょう。しかし、それも間違いではなかったと思います。
「うん。それじゃあ、行ってきます」と、彼らに少し頭を下げた後、小走りで馬車の方へと歩いて行きました。
馬車との距離が更に近づくと、扉が開かれ、中から紳士服のおじさんが降りてきます。
「シア君、準備は出来たかい」と、直ぐ側まで近づくと彼は視線を合わせ、朗らかに微笑みます。
「うん、出来てる」と、万全であることを返せば頭を撫でてきます。
それが特に嫌なわけではなく、その状況に甘んじていると、彼は幾分か寂しげな色を瞳に浮かべ、言います。「さあ、乗りなさい」
さて、そうして馬車に乗れば、いよいよ帝都に向けて出発です。
御者の方とおじさんが話しているのを片目に、家の方を見ます。至って普通の家屋の前で、お父様とお母様はこちらに手を振っていました。
「ふふ」と、少し笑いが漏れてしまったのも仕方がないでしょう。別にこの旅は、今生の別れではないのです。お嫁にいく訳ではなく、帰ってくることが分かっているのですから。それに、たった一週間と少しだけです。長くても二週間程度の別れなのです。
「さあ、出発だよ。体調が悪くなったら、直ぐに言いなさい」と、おじさんはこちらに言います。
「うん」と、彼に向き直り返事をすれば、彼は御者の席とこちらを隔てる壁に空いた小さな硝子窓を叩きました。すると、直ぐさまに馬車が動き出します。
車体は規則正しく揺れます。サスペンションが付いていようと、良い道とは言えませんから当然のことでしょう。
殆ど感じたことのない揺れを楽しみながら、家の方を見るとお父様達は、未だに私の方に手を振っていました。それを見ていると、不思議と寂しい気持ちがわき上がります。いざ旅立つという時になると、何だか興奮のようなものが薄れてしまったのだろう、と思います。
手の届かないものに興奮を抱かないように、手が届くことが確実なものに興奮は抱けないのです。先程までの興奮はきっと、お父様達が止める可能性があったからこそなのでしょう。ですから、今や興奮は先程より薄れ、今まで一度も離れたことのない両親とはぐれる事への寂しさを得たのだと思います。
この少しばかりの別れに対し、涙を流すというのは何だか大袈裟ですし、何もしないというのも薄情な気がしてきました。ですから、私は小さく手を振ることにしました。大きく手を振るのは、まず物理的に無理だという事もありますが、何だか仰々しいように思えましたから。
そうしている内にも馬車は進み、やがて両親は見えなくなってしまいました。しかし、その姿が霞となって消えてしまった後も、私は少しの間そちらの方を見つめていました。
けれど、懐郷にしても早すぎるだろうと自嘲をし、馬車の中に視線を移します。
すると、おじさんは待っていたようにこちらに言います。
「帝都で何かしたいことはあるかい」
微笑みを見ながら、私は少し考えました。私は帝都まで行き、何をしたいのだろうかと。しかし、特に考えは浮かびませんでした。
この度の本懐自体は、帝都を見て私が魔法の才能がある者として帝都に行くかどうか、それを決めるものです。ですから、それ以上の目的はありません。その為、帝都を見て回る以上の必要はありません。
「美味しいものを食べたい」と、適当に思いついたことを話しましたが、案外コレも旅の主目的からは逸脱していなかったように思います。一番最適だったのは、帝都を観光することと答えることだとは思いますが、当時の私にそれほど考える能力はありませんでした。
特異な才能があるだけで、所詮は教会で少しばかりの教育を成されただけの、言葉も読めない馬鹿な小娘なのです。
「そうか、それじゃあ帝都に着いたら、異国の美味しいものを食べようか。近頃、大陸の方の料理屋が出来たんだ」と、彼は微笑みながら言います。
「うん、お願い」と、返しながらもどうして異国の料理なのかと疑問を抱いた。確かに珍しいものではあるのだけれど、帝都特有の料理ではいけないのだろうかと。
さて、そうして少し別の些事について話した後、私は微睡みを漂っていました。そして、遂には寝てしまいました。
その後、私は長時間寝てしまいました。きっとおじさんは退屈で仕方なかったと思います。
そういえば、この紳士のおじさんの名前はチャールズ・クロムウェルと言い、我がグラテンの男爵位を持つ貴族です。私が彼の名前を知ったのは、微睡む前の些事の渦中でした。
「シア君、起きなさい」と言う声で意識が浮かび上がります。眠気の中、少し目を開けると困り顔のチャールズ男爵が居ます。
そうして寝てしまっていたことに気づき、恥ずかしさを覚えつつ、起き上がりました。
「ミンチェスターに着いたよ。よく眠ったね」と、彼は少し苦笑いをしながら言います。
はてミンチェスターとは何処だろう、と一瞬戸惑ったが直ぐに思い出しました。
この街は私の生まれ育った町から、大体南に位置する大都市です。
この街には記憶が正しければ、何度か訪れたことがあります。けれど、此処に通る列車に乗ったのはこの時の旅と、それと次回この街に来たときの二回のみです。
それにその二回目以降は、一度もこの街には訪れたことがありません。