第一話 果たして過去に幸福を求めるのは、悪事でしょうか?
初めにお願いです。近代欧州史に詳しい方は、元ネタに気付くかもしません。色々と許して頂けると幸いです。
少し前、私は確かにこの目で幸福を見ました。
名前も知らない岬でぶつかる潮、その白く濁った穂先が、夕日の光を反射させていました。私は、その反射する光の中に、私の幸福の存在を見たのです。
しかし、今となっては私には幸福が見えることはありません。その奇跡の片鱗ですら……。
見えるのは、私自身が吐き出す白い息と無限に続く雪景色のみです。
振り返れば、かつて仲間であった骸が見えることでしょう。
けれど、私は決して振り返ることはできません。
醜い内面を曝け出した、かつての仲間の姿など誰が見たいでしょうか?
僅かに残った食べれる物に後ろ髪を引かれながら、私は必死に歩きました。
牛歩の如き歩みの中、私は過去を想起せざるおえませんでした。
かつての幸福は確かに死にました。けれど、その幸福ばかりが私を現実に引きとどめていました。
失われた過去に自身を求め、自身が存する現在を否定するなど、と自身の矮小具合に嗤いが漏れます。しかしながら、それも仕方のないことだろう、と私は思いたいのです。
私、シア・アトウッドは、一八三五年にグラテン帝国に生まれました。斜陽の帝国と言われる島国でした。
けれど、私は生まれてから祖国で過ごした十二年間、一度も不幸だと思った事はありません。
グラテンは斜陽と言われようと、確かに強国であったのです。
大きな植民地を喪失し、極東地域とを繋ぐ、巨大な貿易航路を封鎖されたとしても、私の祖国は強大であったのです。女である為に、多少の制限は掛かりました。ですが、殆どのことが自由にできました。
さて、その日、私が十才であったあの日も私は、自由を謳歌し、木陰でうたた寝をしていました。
お母様のお手伝いが終わり、余暇が生まれたためでした。
この余暇が私の人生を大きく変化させた、と言っても過言ではありませんでした。良い方向にも、そして悪い方向にも。
空高く輝く太陽を見つめ、私は目を窄めました。
「眩しいな」と声には出さずに感想を抱いていると、何やら話し声が聞こえてきました。
私の名前は、呼ばれていなかったはずです。しかし、なぜか私はその声がよく聞こえたのを覚えています。
「あの子か? ……神の意志は分からんな。あのような子に才能があるなんて、何と無残な」と、よく分らないことを言われているように思えました。そして、ちょっと傷ついたのも覚えています。肥大化した自意識が、少し恥ずかしくもありました。
その為、聞かなかったことにして、木の葉の合間に覗く太陽に視線を戻しました。
当時の私がきっと他人のことであろう、と考えた理由は幾つかあります。
まず一つ目に、私自身に才能なんてない、と思われたからです。
私は同年代の子達より、遙かに身長が低かったですし、勉強も出来ませんでした。大人の仕事を手伝っていた男の子達よりも勉強が出来ず、自身の才能のなさに泣いた記憶もあります。
次に、一瞥した際に見えた御方に、一切の見覚えがなかったからです。
あの様な鱈腹口ひげを蓄え、しっかりとした燕尾服を着た紳士のおじさんは、この辺境の村には殆ど存在はしません。大人達が、あのような服を着たのを見たことはありますが、それも冠婚葬祭などでした。けど、あの日はいつも通りの平日で、あのような服を着る人はいません。
居たとしたら私が忘れるはずがありません。そのような変人の話は、皆で笑うことになるでしょうから。
さて、その日の夕刻です。
私は森林のすぐ近くにある家に帰り、お母様のお手伝いをしようとしていました。
お手伝いと言ってもお皿を出したり、といったことですが。
その日も「シア手伝って」と声を掛けられ、お母様の元に向かうところでした。
けれど、扉を叩く音でお手伝いの予定は、崩れ去ることになります。
お父様が扉を開き、次第に口論に発達していったのを覚えています。そして、その口論の中心が私であったことも。
私は名前が度々出される口論が気になり、玄関をチラリと見に行きました。
そこには、お父様と相対する男性が幾人かいました。その中の数名は顔見知りでした。村長に、教会の司教さん達です。ですが、彼らは皆一様に申し訳なさそうな、不甲斐なさそうな表情をしていたのが、幼いながら私は深く印象づけられました。
そして、顔見知りの顔より深く印象に残っている人も居ました。燕尾服に身を包み、頭にはシルクハット載っていて、ハットの下に覗く眼鏡と鱈腹蓄えられた口ひげが印象的な紳士、お昼時に見たおじさんでした。
「再三いうのだが、彼女、シア君には才能があるんだ。魔法の才能だ。それも、浄化の魔法だ。申し訳ないと思う。だが、どうかお願いできないだろうか」と、紳士のおじさんは頭を下げていました。
魔法とは何だろうかと逡巡し、無事に思い出すことができたことを覚えています。
魔法とは神様から与えられる天賦の才能です。
そして、その才覚が発覚したら、国への奉公が義務づけられます。親元から引き離され、一生涯を国のために使うことが確定されるのです。そこに、自身の意志は一切介在することはありません。
毒にも薬にもならない能力ならば、その義務も免除されるらしいです。しかし、私の持つ浄化の魔法は、その免除対象にはなり得ませんでした。
「一体どうして」と残念に思いますが、それも仕方のないことです。
もし私が権力者で、天賦の才人の処遇を決めれるのならば、私も間違いなく、義務を課したことでしょう。「社会全体の利益のため」「人民は国家の物だから」と、幾らでも美辞麗句を並べ立て、いつでも本意を隠したままに。
……人は、自己利益を追求する物です。それを幾ら表面ばかり繕ってでも。その為、私が国へ強制的に奉公を強いられたのも、ある意味当然であったのでしょう。
さて、紳士と口論をしていたお父様は、言い淀んでいました。
お父様もやっぱり国人です。グランテン帝国の一農夫に過ぎません。きっと、葛藤をしていたのでしょう。私を彼らに差し出さなければ、どのような目に遭うかが分かりません。国人相手に行うかは分かりかねますが、侵略と謀略の積み重なった人死にで出来た国なのです。それに、お母様のお腹には新たな命が居たのです。葛藤をするのが当然でしょう。
私は、妙に小さく見えるお父様の背中を見つめていました。
快活なお父様でもあの様になるのか、と私が驚いていると紳士のおじさんと視線が交わりました。
「あっ、君がシア君かね? どうだね、私達の話を少し聞いてはくれないか?」
紳士のおじさんは、大変に優しい声でこちらに語りかけた。その際にチラリと見えた瞳は、大変に温和な物でありました。
その温和なおじさんに惹かれるように、私が少し体を晒したところで、背後から声を掛けられました。「シア、こっちに来なさい」と言うお母様の物です。
私は少し悩みました。お父様を見捨てるように思われたのです。それに、おじさんを無視することも些かどうかと思われました。けれど、「ごめんなさい」とおじさんに声を掛け、お母様の背中を追うことにしました。鬼気迫るお母様の気迫に破れたためでした。
居間までお母様を追ったところで、私は抱きつかれました。
「大丈夫よ」と言う母は、少々緊張を随所に滲ませていました。
私は、そこまでの警戒を抱く意味が分かりませんでした。あの紳士のおじさんは、悪人に見えなかったのです。
「お母様?」と疑問を呈したところで、居間に人が入ってきたのが分かりました。
少し緊張を増したお母様は、顔を上げるとすぐにその緊張を氷解させました。お父様が帰ってきたのでしょう。
「貴方、大丈夫だった?」
「ああ、今はな。アイツら、明日も来る、って言い残して帰って行ったよ」
「また来るなんて……」
「それ程、シアが欲しいんだろうさ。俺達の娘を持ってこう、だなんて何様だ」
「ええ、本当よ」
お母様に開放された私は、何処か他人の話を聞くように二人の会話を聞いていました。確かに私の話であったはずなのですが、不思議と現実感がありませんでした。
先程も述べましたが、私には才能がないと思われてたのです。それなのに、突然に才能がある、と言って両親と役人が争っている。この状況を信じることが出来ましょうか?
私はこの時では、いまだに信じることが出来ませんでした。
他人事の私は、少し真剣に考えました。
しかし、ただの少女にそういったことは微塵も分かりませんでした。
その為、短絡的な思考に全てを任せることにしたのでした。
「お父様、お母様」
「どうした?」
「あのっ、お腹が空きました」
私の発言に、二人は肩透かしを食らったようでした。
ですが、すぐに彼らは笑顔を浮かべました。
「嗚呼、そうだな」とお父様は言い、私の頭を撫でてきました。
お母様は何も言うことはありませんでしたが、その視線が全てを物語っていました。大変に微笑ましそうでした。
……なんだか子供扱いされたのが、少々納得いかなかったのを覚えています。確かに短絡的が過ぎはしましたが、食欲は人間の三大欲求なのだから、仕方がないことでしょう。
さて、その後の私は両親と川の字で寝ていました。
普段は一人で寝ていましたが、心配性な両親に負けてしまったのでした。
「ふぁああ」
硬いベッドで欠伸をし、天井を見上げました。木目が苦しんでいる人に見えて、少々可哀想に思えたのを覚えています。しかし、それと同時に彼には、それ相応の罪があったのだろうとも思いました。
人間には生まれながらにして罪があるそうですが、きっと彼はもっと酷いことを犯したのでしょう。例えば、殺人であったり、強姦であったり、皆が許さない罪過を。
そうでなければ、永遠の苦しみなど訪れるはずがありません。
永久に苦しんだとて、許されない大罪を侵しているのですから。
さて、その夜は大変に曇っていました。宵闇が静寂を連れ歩き、寝室を覆っていました。
その為でしょう。私には、はっきりと声が聞こえました。
内容は定かではありません。しかし、確かな声です。
気付き、絶対的に看過してはならなかった声です。
すぐ様に騒ぎ立てなければなりませんでした。
そうしていれば、私の人生はより鮮やかなものであったでしょう。
けれども、如何に後悔をしても過去の出来事。
私が気のせいだ、と断定し見過ごしてしまった事実は変わらないのです。
忌々しい神に祈れど、変わることは決してありえないのです。
謝罪
タグに「近代」ではなく「近世」と付けていました。
訂正します。舞台設定は近代ナーロッパです。誠に申し訳ございません。