8 水族館と好きなもの
お久しぶりです。
ちょっと忙しくしていた間に、現実では秋になってしまいました。
先輩と後輩はまだ夏に置き去りです。
自動ドアを抜けると、やや効き過ぎているきらいのある空調と、薄暗い視界が私たちを出迎えた。薄いブルーの照明で足元や天井、水槽の近くが彩られ、見るものに海の底にいるかのような錯覚を感じさせるように設計されている。安直な考えだと思うが、それでも、定番というのは多くの人に受け入れられるから定番なのだろう。
「先輩!見てくださいよ、あれ!」
後輩がそうはしゃぎながら、ある場所を指差す。はしたないと手を下ろさせ、それでも鬱陶しいほどに主張してくるので、視線を追ってみると、そこにはこの水族館の目玉なのだろう大水槽が広がっていた。
ゆらゆらと泳ぐ魚たち。群れをなして水槽を回る鰯たち。水槽の中央で優雅に舞うジンベエザメ。少し大きな水族館に行けばよく見られる光景だけど、彼らが穏やかに水中を行く姿を見ているだけで満足感は得られるだろう。
「かわいいですね」
「そうだな」
視線を隣に向けると、水槽を見上げて目を輝かせている後輩の姿があった。よっぽど水族館が好きなのか、それともこういう大きな魚が泳いでいるのが好きなのか。気持ちは分からなくはないし、それを咎めるつもりもない。
「ずっと来たかったんですよー」
「ここ、最近できたって言っていなかったかい?」
「ここの水族館はそうですけど、そういう意味じゃないです。先輩と水族館に来たかったんですよ」
「そうだったの?」
少し意外に思う。この後輩は素直な性分だ。どこか行きたいところがあれば、隠さずにすぐに話題に出しそうなものだが。
そう疑問に思っていると、「そうだったんですよ」と言葉が返ってくる。こちらを見てにこりと笑みを浮かべた後、視線を水槽に戻して後輩は続けた。
「だって、水族館って仲良くないと楽しくないじゃないですか」
「まあ、そうだね」
仲良くないもの同士なら、ばらばらに見て回ってそれで終わりだ。動物園にも言えることかもしれないが、暗く限定された空間内である水族館では、よりそれが顕著かもしれない。
「だから、一緒に水族館に行けるくらいに仲良くなりたいなぁって思ってて」
「……そっか」
少し、言葉に寂しさが混じっている。元気の塊のような後輩がそんな声色をするなんて、初めてだった。もしかしたら過去に、水族館にまつわる何かがあったのかもしれないと思った。
特に何も言うことはない。後輩がどのように考えていたかも、どういう想いで今日ここに来たのかも、取り立てて聞かなくてもいいことだ。
けれど、その表情をずっとさせているのが気になって、そっと、後輩の手をとった。
「……先輩?どうかしましたか?」
こちらを見るその表情は、驚きに染まっていて、そして、ほんのり朱かった。
「そろそろあっちに行こう。他のお客さんも増えてきたし」
「そう、ですね」
手を引いて、大水槽の前を通り過ぎる。ガラス越しに映る私の頬にも、朱が差している。こちらから手を握るという行為に、恥ずかしさを全く伴わなかったという訳がなかった。けれど、私の後輩に、寂しそうな表情なんて似合わないと感じた。
手を繋いで歩いている間は、お互いに無口だった。その静寂を断ち切ったのは、やはり後輩だった。
「先輩は、どの魚さんが好きですか?」
「君はどうなんだい?」
「やっぱり大きな魚さんですかね?ジンベエとか、クジラとか!」
「クジラは魚ではないよ」
「それくらい知ってますよ。バカにしてます?」
「うん」
「ひどい!」
いつも通りの大袈裟な反応に思わず頬を弛めるが、あまりはしゃぎ過ぎては周囲の迷惑になると窘める。「すみません、つい、いつものノリで」なんて申し訳なさそうにする後輩の姿が珍しくて、つい目を丸くしてしまうが、よく考えてみれば分かることだ。この天真爛漫な後輩は、むやみやたらに周りに迷惑をかけることはしない。
それでもこんなにはしゃいでいるということは、本当に楽しみだったのだろう。
「それで、先輩は何が好きなんですか?」
「んー、そうだな……」
改めて聞かれると、少し難しい。魚は好きだ。というか、生き物全般が好きではあるのだが、特にこれと言われると、難しい。どの生き物にもある程度の愛嬌は感じる。
そんなことを考えていると、ある水槽の前で足が止まった。少し大きい、けれどたくさんの魚が泳いでいる訳ではない、小さな水槽。中には人工の陸地が作られ、その中で暮らしているある生き物の姿が目に入る。
「私は、この子が好きかな」
「オオサンショウウオ、ですか?」
「ああ。水の中でも陸地でも、どちらでも生きて行ける。すごい、と言わざるを得ない」
「……確かに?」
「それに、大きくて、かわいいじゃないか」
「えー、かわいいですか?」
「どこかの後輩よりはよっぽどね」
「ちょっと、それって誰のことですか!?」
冗談だよ、と笑うと、「冗談でも笑えないです!」と小声で文句が返ってくる。少しむっとした後輩を宥めていると、何かに気づいたのか、「あ」と声を上げた。
「先輩も結局、好きなの魚さんじゃないんですね」
「……そうだね」
「捻くれてるんですね」
「君が言えたことではないだろう」
「あはは、確かに!」
好きな魚、という話でクジラとオオサンショウウオを挙げる。私と後輩はそういう点で似ていて、そこが何だか面白かった。
「ねえ、先輩」
「なに、後輩」
「来てよかったですね」
「そうだね」
「もっと感謝してくれていいんですよ?」
「それは癪だから嫌だ」
「なんでですかぁ!?」