5 雨音と傘
午前中には音を伴っていなかった雨は、昼下がりからだんだんと重さを増してきて、帰宅の準備を始める頃にはざあざあと地面に降り注いでいた。
校舎の窓から校門を色とりどりの傘が通っていくのをぼんやりと眺めながら、軽く息を吐く。湿気のせいでべたつく肌をハンカチで軽く拭って、ぱたぱたと服を扇いだ。
遠くの喧騒とは異なり、廊下はひどく静かだ。教室に残っている生徒はほとんどおらず、いたとしても帰り支度を済ませて校門へと急いでいる。
そんな様子を尻目に、私はカバンの中をもう一度見て、何度目になるか分からないため息を漏らし、現実逃避をするために、再度、窓の外に視線をやった。
「……なんでこういう日に限って折り畳み傘を忘れてしまうのだろう」
教室の後ろをちらりと見る。そこにある傘立てに立っている傘は一本もない。誰かに盗まれたかと考えようとして、今朝傘を持って登校した記憶がないことに気付いたのは、もう三十分も前の話だ。ならば折り畳み傘で帰ろうと思って、カバンを見て、そこに目当てのものがないことに気付いたのも同じタイミングだった。
いつもカバンに仕舞ってある折り畳み傘が何故入っていないのか。その理由はすぐに思い至った。昨日買い物に向かう際に、雨が降るかもしれないという天気予報を見て、買い物用のカバンに折り畳み傘を移して私は出掛けた。結局その時には雨は降らなかったのだが、家に帰ってきてから、傘を制カバンに移し忘れたのだ。
しかも、運が悪いことに今朝は少し寝坊してしまった。つまり、天気予報を見ずに家を出たのだ。学校につくまでは空には雲一つなかったし、一時間目の授業の際に窓の外に小雨が見えた時も天気雨の様相を呈していたものだから、どうせすぐに収まるだろうと高を括っていた。……もっとも、数時間後には豪雨になってしまったのだが。
「まったく、今朝の自分を叩き起こしてやりたい」
似たような台詞を呟くのももう何度目だろうか。いっそのこと、ずぶ濡れになりながら帰ろうかと、そう考えた時だった。
がらがら、と音を立てて教室の扉が開いた。思わずそちらに目を向けると、その性格の明るさと比例したかのような髪色をした後輩がいた。
「えーっと……あ! 先輩!」
少しばかり教室内を見回して、私を見つけた途端、声を上げてこちらまで歩いてくる。その手にはカバンと、傘が一本握られていた。
「先輩、一緒に帰りましょー!」
「残念だけど、そういう訳にはいかないな」
「断られた!?先輩、どうしちゃったんですか!いつも一緒に帰ってくれるのに!」
「それは君がいつも勝手についてくるだけだろう。……それに、仕方ないじゃないか。帰れないんだから」
「帰れない?先生に呼び出しでももらいました?」
「ある訳ないだろう君じゃあるまいし」
「ひどいっ!」
相変わらずオーバーリアクションな後輩は、私が帰れないと言った理由を推察できないようだった。私の口からあまり言いたくなかったのだが、言わないといつまでも絡まれそうなので、仕方なく口を開いた。
「傘を忘れたんだ」
「……え、天気予報見てなかったんです?」
「少し寝坊して見る余裕がなかった」
「……だから朝いつもの電車に乗ってなかったんですね。……じゃあ、折り畳み傘とかは?いつも入ってるでしょ?」
「生憎と、昨日使った買い物カバンに」
「あちゃー」
ぺたん、と自分の額を叩く後輩の姿に妙にいらっと来たものの、すんでのところで抑えてデコピンをする。「あいてっ!?」といういつも通りの間抜けな声を出しながら額を抑える後輩に、胸がすくような思いを抱く。窓の外の惨状を多少は忘れられそうだ。
「止みそうにないですね、雨」
どうやらこの後輩は忘れさせてくれないらしい。
窓の外を「うわあ」とか言いながら見ている後輩につられ、私も今日何度見たかも分からない光景を眺める。確かにうわあと言いたくなるな、これは。
「そうだね。これはもうずぶ濡れ覚悟で走って帰るしかないかな」
「え、危ないですよ。滑って転んだらどうするんです?」
「私がそんなに間抜けに見えるかい?」
「見えます……って、痛い痛い痛い!そんなつねらないでくださいよぉ!?」
「君がやけにはっきり断言するからだ」
一通り二の腕をつねり終えてから、再度頭を悩ませる。後輩の物言いは少し癪だが、確かに、土砂降りの中走って帰るのは下策だろう。こけたりしたら一大事だ。かといって、慎重に歩いて帰るわけにもいかない。
どうしたものか、と軽くつぶやく。すると、二の腕を暫くさすっていた後輩が、表情をきらめかせて言った。
「ねえ、先輩」
「なに、後輩」
「良いこと思いついちゃいました!」
「……嫌な予感がするけど、一応聞いておこうか。なに?」
「相合傘して帰りましょう!」
「もっと他に言い方はないのか」
「……?だって、相合傘は相合傘じゃないですか」
「そうだけれどさあ……」
相合傘、なんて言葉を好き好んで使うのは、カップルくらいのものだろう――そう言おうとして、口を開くのをやめた。そんなことを口に出したら、またこの憎たらしい後輩が何か言ってくるに違いない。
それに、別に恥ずかしがることでもない。単に先輩が傘を忘れてしまって、気の利く後輩が傘に入れてあげた。そんな構図しか出来上がらないだろう。私も濡れるのは嫌だし、提案を態々断る必要もない。
「じゃあ、入れてくれるかい?申し訳ないけれども」
「モチのロンです!」
「古いな、ネタが」
カバンを肩に提げ、一緒に教室を出る。校門に着くまでの間、後輩がやけに笑顔だったのが気になった。
相合傘回は次回です。
気分が乗ったら書くので、気長に待っててください。