36.終
「あいたたたた……」
「だいじょ~ぶですかぁ? 玲萌せんぱい」
「うん……ってあんたまた鼻つぶれてるけど、痛くないの?」
「えっやだ、ほんとですか!?」
右手を顔の上にすべらせて、
「げぇぇっ! またつぶれちゃった! 気付かなかったけど!」
「ねえ夕露さん、今度あなたの神経、研究させてくれない?」
摩弥に興味もたれてるぞ。夕露。
「樹葵くん、だから立つなって言ったでしょーが、僕は!」
「まーまーそー怒るなよ。空から落ちる経験だって、なかなか出来るもんじゃないぜ」
「『天翔け』が泣いてますよ! 自慢のトサカを打ったって」
あたしたちが落ちたところはちょうど、斜原湖ほとりに茂るやわらかい草の上だった。
かじか蛙の鳴き声が、草の間から響いてくる。初夏の気配が嬉しい。まだ瞼の裏に、ついさっき見た秋の情景が残っているあたしは、不思議な心持ちでその音色に耳を傾けていた。もうすぐあたしの大好きな夏が来る。
凪流は「天翔け」をもとの時空に返すと立ち上がった。「それじゃあ僕たちは白草に帰りましょう」
そうね、と答えて、あたしは夕露に手を差し出して立たせてやる。ふと気付いたが、さすが夕露。野生の回復力で、先ほど摩弥に切られた足の怪我がしっかり止血している。平気な顔で歩きだそうとしたところに摩弥が足元から、ちょっと待って、と声をかけて回復魔術を唱え始めた。
そこに恐る恐る、夕露ちゃん、と声をかけたのは己稲である。「私をきみのおじいさまに紹介してもらえるって話は、帳消しにされてしまったかな?」
「裏切りもんの己稲をうちにあげるのはちょっとやだけど、自分ちに帰る気もないんじゃ、しょーがないねぇ」
夕露はにんまりと笑った。ちょっと甘すぎるんじゃないかと思うが、ここはあたしが口出しするとこじゃないだろう。
紫蘭は青空をあおいで、豪快に伸びをしている。「あたしも二年ぶりの里帰りとするか。毎月、文を書いちゃあいるが、そろそろ帰ってやらんとな」
ん? 毎月、文を――!?
「じゃあ家族は紫蘭が葦寸にいるの知ってたってこと!?」
思わず声が高くなるあたし。
「そりゃあそーだろ。二年も黙って行方くらますかよ。あ、もちろん摩弥さまの名は伏せてるぜ。優秀な魔術師に弟子入りして勉強中って報告してるんだ」
それを行方不明とは言わない。頭を抱えるあたしの横で凪流が疲れきった声を出した。「さすが白草魔道学院ですね。管理のずさんさに定評がある」
皮肉めいた物言いの凪流に反してあたしはガッツポーズで、
「よっしゃ、学院に戻って院長に直談判だ! あたしたちの卒業がかかってるわよ、凪流!」
「その直談判、俺らも混ぜてよ」
草の上にあぐらをかいたまま、樹葵が上目遣いでお願いしてくる。「俺と紫蘭も卒業したいもん」
いやいやこいつらが混ざったら、話がややこしくなる気しかしないぞ。
「もとはと言えば、あんたたちが摩弥にほだされちゃったのが、魔術剣を二本とも失うことになった要因でしょーが」
「そーですよ、きみたちが元凶です」
珍しくあたしと凪流の意見が一致する。
「まあまあ。四人で留年したら楽しいと思うぞ?」
けろっととんでもないことを言い出す紫蘭。
「それはないから」
あたしは嫌な未来予想をかきけすように、ぶんぶんと手を振る。
「とにかく樹葵も白草に帰るんだろ?」
紫蘭に問われて樹葵は、草の上に座っている摩弥を振り返る。彼女は草の間から顔を出した小さな白い花を指先ではさんだまま、静かにうつむいている。
「一緒に来るか? 摩弥」
摩弥がふと、顔をあげた。
「いいの?」
夏の香を含んだ風が、摩弥のえんじ色の髪を揺らす。
「あんたさえ良ければ俺は大歓迎だぜ。白草は都の魔道学院みたいにすごい実験とかは出来ねえけど、俺の母ちゃんも魔道医だから、一通りの資料や道具ならそろってると思うんだ」
廃墟の屋敷や洞窟で研究してた人に気を遣う樹葵。
「もう誰かを犠牲にするような実験はしたくないわ」
摩弥は静かに言った。
「そっか。そんならしばらくうちのにぎやかな連中と暮らしたら、あんたも気が晴れるさ。うちは小さな演芸小屋をやってるから、いつも見習い芸人や若いのが下宿してる。おもしれぇ奴等だからすっげー楽しいよ」
自慢げに実家の話をする。その様子を微笑んでみつめていた摩弥は、行くわ、と答えて立ち上がった。「わたし、いくら魔道医学を極めても満たされなかった。『本当の事』は試験官の中にあるんじゃないって分かったの。あなたたちといれば、みつけられそうな気がするから……」
なんとなくしんみりしたところで、空気を読まない夕露が樹葵を突っついた。
「ねえねえ、樹葵くんが妖怪になったこと家族は知ってるのぉ?」
「妖怪じゃないってば!」
と即座に反駁し、「文には絵も添えてるんだが、ねえちゃんが毎回俺の美的感覚が狂ってるってバカにしてくるから、会って俺の美しさを見せつけてやらなきゃと思ってるんだ。どうも俺の絵心がないせいか伝わんなくて」
それは絶対、絵心のせいじゃないと思うぞ。
「禰羅さん――ってのはうちの小屋を仕切ってる人で俺のもう一人の母さんみたいな、父ちゃんの彼氏なんだけど、俺が小屋に出たら人気者になれるって言ってくれててな。さすが洒落者だから分かってるぜ」
「わー、樹葵くん見世物小屋に出るんだぁ」
「見世物小屋じゃないってば。俺は歌舞音曲をやるんだよ」
「妖怪の見世物小屋~」
「待てこら夕露!」
けらけら笑ってからかう夕露を、樹葵が追いかける。
先ほど樹葵のせりふに「父ちゃんの彼氏」とかいうパワーワードが出てきた気がするのだが…… とにかく樹葵本人だけでなく実家も一筋縄じゃいかないことだけは分かった。
客をおろした渡し守のおじいさんが、こちら岸へ近付いてくる。
「あんたら、乗るんかい?」
「乗りまーっす」
あたしたちは駆け出した。
「白草に行く前に、葦寸の洞窟に寄ってもいい?」
摩弥が後ろから声をかける。「あそこに保管してあるものは危険な資料が多いの。わたしのような魔道学者を出さないためにも、燃やしてしまいたいんだけど」
「それはいい案ですね」
凪流も頷く。
「白草で新しい人生をはじめるわ」
摩弥は今までに見せたことのない、すがすがしい表情で言った。
あたしは日の傾きかけた空に向かって、人差し指を立てる。
「ほんじゃ、行き先はひとまず葦寸の洞窟に決定ね! 夕露、樹葵、船が出るわよ!」
走り回る二人の影が、新緑の大地に長く伸びる。
「向こう岸までいくら?」
「一人七十克だよ」
紫蘭が尋ね、おじいさんが答える。
「みんなで葦寸の洞窟へ行くのね」
ひとりごちて、摩弥はふふと笑った。
「『本当の事』か……。わたしの求めていた確かなものが、ここにあった気がするわ」
湖にせり出した桟橋から小舟に乗り込む。
みなもを渡る風が心地よい。
岸辺ではいつまでも、かじか蛙たちが美しい歌声を響かせていた。




