32.帰還、そしてまたもや危機!(2)
そして摩弥は、その狂気を秘めた哀しい瞳を再び樹葵に向けた。
「おまえも――」
摩弥は静かに立ち上がる。水面に立つような仕草が、優雅にも妖艶にも映った。
「わたしなしでは生きられないようにしてしまえば良かったねぇ……」
立ち上がると、わずかに樹葵を見下ろす形になる。
複雑な表情で口をつぐんでいる樹葵の白い髪を、ひとふさ手に取りそっと口づけする。
「幾度か発作的に、そう思い立ったことはあったのよ。おまえをめちゃめちゃに崩してしまおうかと思ったり。堪えられないほど、いとおしかったから」
樹葵はあわれむようなまなざしで、自分の髪に指を絡めてもてあそぶ摩弥をじっと見上げていた。
「でも過ちを犯さないよう、わたしは必死で自制していた―― それもまた、おまえがいとおしかったから。好きだから幸せにしてやりたい、好きだから苦しめたい……相反する二人のわたしがいるの――」
過去に旅して、一ヶ月前の樹葵に聞いた話から想像していたものの、摩弥は思っていた以上に拗らせていた。あたしの中で輝いていた天下一の魔道医像が、音を立てて瓦解してゆく。『憧れの天才科学者がメンヘラ・マッド・サイエンティストだった件』っつー滑稽本が書けそうだ。
「おまえの笑顔を見ると、わたしは本当に幸せになった。おまえは誰よりもかわいくて……
でもおまえの涙を見ても、わたしはある意味幸せだった。残酷な悦びに支配されて――。苦しんでるおまえが美しかったから」
血色の良くない白い肌に、異様なほど鮮やかに浮かんだ彼女のふっくらとした唇が、その朱をこぼすかのように歪みながら、ひとつひとつ言葉を紡いでゆく。
「おまえは何よりも綺麗だったから。ずっとわたしだけの美しい少年でいてほしくて、不老の術もかけたわ」
己稲が不老の薬を問屋に卸している言っていたが、もとは樹葵のために開発した術だったのか。それで樹葵は小柄で、声も外見も歳よりやや幼いのだろう。
見たところ摩弥は自分自身に不老の術をかけてはいない。年月を経るうち二人の外見年齢差はどんどんひらいていくはずだ。それを全くに気にしないなら、摩弥にとって樹葵は恋人というより観賞用の人形みたいな存在なのかも―― 嫌なことに気が付いて、あたしは思わず奥歯をかみしめた。
「己稲」
摩弥が唐突に、向こうでまだ実験動物たちから逃げ回っている己稲に声をかけた。「その鳳凰の剣を渡してくれるか?」
「それはいいですけどぉ~、こいつらなんとかして下さいましぃ~」
「剣をこちらに投げればなんとかしてやるから」
己稲は走りながら、摩弥の方へ魔術剣を投げた。紫のもやの中、剣が弧を描く。
摩弥が一歩後ろに引く。床に落ちた剣を拾うつもりだったのだろう。
だが一瞬早く、飛び上がった紫蘭が虚空で柄を握った。
「摩弥さま、自爆装置の封印を解くのにこれが必要なんだろ?」
摩弥は無言のまま剣へ手を伸ばす。代わりに答えたのは樹葵だった。「そうだよ紫蘭、渡しちゃだめだ!」
それから摩弥に向かって、
「俺があんたを愛し続けるから、絶対に一人にはさせないから! 一緒に生きよう!」
「それを渡しなさい、紫蘭!」
摩弥は樹葵の言葉になど耳を貸さず、紫蘭から剣を奪おうと必死の形相―― 人は死ぬために、これほど真剣になれるものなのか。
「摩弥ちゃん、だめだよっ、だめだってばぁ!」
夕露は摩弥の腰に抱きついて、一生懸命彼女を止めようとする。
だがその甲斐もなく、摩弥の手は剣に届……
「樹葵!」
紫蘭が叫んだ。「受け取れっ!」
言葉と同時に、再び剣が弧を描く。
「おうよ!」
樹葵は高く跳躍してそれを空中でつかむと、
「こんなもん、どっかに捨てちまおう!」
その場から走り去ろうとする。
「待てっ!」
「あ痛!」
摩弥が樹葵の銀髪をつかみあげ、彼を無理矢理引き戻した。
「痛い、放してよぉ!」
樹葵の瞳に涙が浮かぶ。あたしは思わず立ち上がった。めまい――時を越えた後遺症がようやくおさまったのだ。
「摩弥、どうして樹葵を傷つけることばかりするの!? 彼をちゃんと愛してみなさいよ! 紫蘭だってあなたを大切に思ってる。近くにいる彼らを愛して、世間の人たちを思って―― あなたの中に愛がないから、周囲の人の思いも受け取れないんでしょう!?」
摩弥の唇が動いた。おそらく、うるさい、と呟いたのだ。それから、
「愛ですって? つまらぬことを」
と心底、軽蔑した口調。「命を創り出せるようになって、わたしは知ったのよ。生命なんて不完全なもの。この宇宙に意味なんか無いとね!」
摩弥は樹葵の髪をきつくつかんだまま、その角の生えた肩を荒々しく抱き寄せた。
「放すものか…… 決して放すものか」
向こうで未だ、実験動物たちに追われ悲鳴をあげている己稲を除いて全員が、摩弥の動向を警戒していた。魔術剣はまだ、樹葵の手にある。
「今やっと分かった。わたしにはおまえの幸せを祈ることなど出来ぬ。わたしは死ぬまで、いや死んでもおまえを自分だけのものにしておきたかったのよ」
髪をつかんでいた摩弥の指が、ゆっくりと下の方へ、樹葵の体の上を滑っていくのが、腕の動きから分かった。
あたしの位置からは、二人の表情までうかがい知ることは出来ない。
「もう、自分を偽ったりしないわ」
摩弥が、下におろした右手に力を込めた。
「ああっ……」
樹葵が高い声であえいだのと同時に、その手から鳳凰の剣が奪われる。
「こんな時にまで欲情しやがって。愚か者が!」
床の上にくずおれた樹葵に罵声を浴びせ、突然のことに虚を突かれた夕露の横をすり抜けると彼女は、白衣の裾をなびかせて地下室の奥へ走っていった。
凪流と夕露の位置からは、いま起きたことの一部始終が見えていたのだろう。二人の呆然とした様子がそれを物語っていた。
「夕露おまえ、なんで摩弥さまを止めないんだよ!」
気まずい沈黙を破ったのは紫蘭の叱責。彼女にとってはこれが日常なのかと思うと、胃の中のものが逆流しそうな気分になった。
「だだだだって! 樹葵くんが剣奪われちゃうと思わなかったんだもんっ!」
かわいそうに慌てて言い訳する夕露の横で、樹葵がふらふらと立ち上がった。打ち捨てられた大きな実験器具で体を支えながら、
「……不完全のどこが悪いんだ!」
乱れた着物の前をかき合わせ、摩弥の消えた方向をにらむ。「完全だったら変化がないじゃんか。ずっと同じだったら喜びも哀しみも感じられない」
摩弥が姿を消して、ようやく反駁する。「あんたのほうがずっと愚かだよ。俺の心も体も支配しながら何が不満なんだ!」
少しだけ呼吸の乱れた樹葵の背中を見ていると、なぜだかずっと昔の情景がよぎった。小さい頃うちの弟が悪ガキに歯向かって、傷だらけにされて泣きながら帰ってきたことがある。
あたしは樹葵から目をそらし、夕露と紫蘭に声をかけた。
「こうなったら自爆装置の封印を守るしかないっ! 摩弥を追おう!」
「おう!」
「よーっし!」
紫蘭と夕露は声を合わせて、地下室の奥へ走りだす。二人に続こうとしたあたしに、後ろから凪流が、
「でも僕たちは、その封印の解き方を知りません。それで守れるのか――」
「じゃあどーしろって――」
「僕は脱出の方法を考えます。玲萌くんは玲萌くんの満足するようにやって下さい。役割分担ですよ!」
「分かった!」
言ってあたしも駆け出す。
「脱出? ――ってどこから? いったい何がどーなってるんだ!」
向こうでひとり、状況のつかめていない己稲を残して。




