31.帰還、そしてまたもや危機!(1)
「ええっ、じゃあ玲萌せんぱいは過去か未来に行っちゃったってこと?」
「なぜか摩弥さまの、呪文を記した本を玲萌が持っていたらしい」
「――許せぬ…… ひとのものを勝手に…… わたしの可愛い実験動物たちに攻撃するだけでなく、あまつさえ盗みまで――
だが過去や未来に行くといっても、戻ってくるのは同じ時間だから、消えたりするはずはないのだけど……」
はじめはざわざわとしか聞こえなかった話し声が、次第にはっきりとしてくる。
恐る恐る目を開けると透明な板の向こう、ぼやけた紫光の中、束ねたえんじ色の絹糸が揺れているように見える。その持ち主が低い声で呟いた。
「ここまでわたしのことを知られてしまった以上、もう消えてもらうしかないのかもしれない。それとも研究材料にするか―― でももうそれも、潮時かもしれないのに……? この二年半、わたしが得られたものは何ひとつなかった。制約が多すぎるせいで、公の研究室では求めるものがみつからないと思っていたけれど、ここに来たからといって満たされることなど何もない」
誰に話しかけるでもなく独り言ちる様子に、何か異様なものを感じて背筋が寒くなる。
「ああ、あの子に会えたことだけは、感謝しているけれど……」
呟きながらふと、彼女は振り向いた。
目があう。
「…………おまえは――」
「摩弥――」
折り悪しく、透明な板が左右に開いてゆく。その途端、彼女は両手を伸ばしあたしの肩を鷲づかみにした。
「選びなさい。一生ここでわたしに従って過ごすか、逆らって研究材料にされるか、わたしを怒らせて殺されるか」
おいおいおい。
「摩弥さま!」
「玲萌せんぱいっ!」
紫蘭と夕露が口々に叫ぶ。二人の向こう、開いたままの扉から階段を駆け下りてくる凪流の姿が見えた。その後ろに樹葵が続く。二人ともかなり焦った様子で言葉を交わしているが、その内容までは聞こえない。
「選びなさい!」
低く叫んだ摩弥の声には、人の心を深くえぐるような凄味がある。
「ま、待ってよ摩弥! あたしはあなたのこと誰かに喋ったりしない! 約束するから! あたしを警戒する必要なんて本当にないから!」
摩弥のずっと後ろで、夕露の命令に従っている実験動物たちに、己稲が尻を追われ足首を噛みつかれている。凪流と樹葵は地下室に入ってきたようだが、積み上げられた実験器具やおびただしい数の木箱に阻まれて、二人の姿は見えなくなった。
「黙って。大声出さないで」
耐えかねる、と言いたげな摩弥の口調にあたしはむっとする。
「あなたはわたしの大切な子供たちに傷を負わせたわね?」
感情を抑えた声に潜む狂気に根本的な恐怖を感じる。それを振り払い、
「違うでしょ? あんたがけしかけさせたんでしょ」
努めて冷静に応じる。
「違う。あの子たちは自らわたしを守ろうとしただけ」
「嘘よ」
あたしは容赦なく突っぱねた。精神力で負けるつもりはない。
そのとき重なる木箱の後ろから凪流が姿を現した。すぐ後ろから顔を出した樹葵は、あたしの姿をみとめると駆け寄ってきた。「玲萌! なんともないか?」
摩弥の肩を強くつかんで彼女をどかせると、あたしの手を握る。
「なんだ、なんともねぇじゃんか。驚かすない」
と凪流を振り返る。それからあたしに、「台所から戻ってきたらこいつが一人で俺の部屋の前にいてさ、あんたの命が危ないなんてあわくって叫ぶもんだから」
と息を切らしながら説明した。途中から凪流の姿が見えないと思っていたが、樹葵の地下室を探してさまよっていたのか。
樹葵はふと時を越える装置を見上げると、なるほど、と頷いた。「そういうことだったんだな」
「分かったよ、約束」
樹葵に微笑みかけたあたしは、次の瞬間、摩弥の表情が変わっているのに気が付いた。戸惑いと戦慄と怒り――それらが混ざりあった複雑な表情で、彼女は態度を決めかねているように見えた。
「あなたは――」
摩弥があたしに向かって口を開いた。「一番大切なものさえも、わたしから奪ってしまったの?」
あたしは言うべき言葉がみつからぬまま、時を越える装置の中に座っていた。
「仕方がないわね……。わたしは奪うばかりで、何ひとつ与えられなかったのだから」
摩弥の口調は恐ろしいほど静かだ。「こうなることを望んでいたはずなのに……。大切なものを永遠に失うよりはずっとよいのだから」
「おい、摩弥。もしかして俺のこと何か誤解して――」
樹葵が言いかける。だが――
「黙ってて!」
悲鳴に近い摩弥の叱責。
突然のことに、後ろで凪流がびくっと体を震わせる。
「今はおまえの声を聞きたくないの」
その言葉から、色が水に流れ出すように感情があせてゆく。
「わたしは最期までわがままね……。おまえをあんなにも苦しめたと知っているのに」
最期――?
嫌な予感がひたりと背中に迫る。
「知っているんだよ、おまえが一月ほど前、龍の剣を携えて時を越えたことを。わたしから逃げようとしたんでしょう?」
「違……」
「自ら命を断とうとした―― 分かるんだよ、おまえの考えることくらい」
樹葵の言葉を表情ひとつ変えずに遮った摩弥は片手をのばして、そっと樹葵の唇に触れた。
「それほど苦しい思いをさせる者と一緒にいる義理はないよねぇ、いくらおまえだって。だからわたしはおまえから離れようとしたのよ。そこにいる夕露や凪流を代替品にしてね」
その言葉にはかすかなあざけりが含まれていた。――所詮おまえたちなど樹葵と比べれば……
だが彼女の言葉に抗議の声をあげる者はない。
「そんなわたしがおまえの心変わりをとがめるのはおかしい、むしろ喜ばねば……」
「だから違うって言ってるじゃんか!? 誤解するにしたって相手が玲萌じゃあ、色気がねぇにも程があるってもんだ!」
「あたしだって一生の恥よ! とんでもない浮名だわっ!」
騒ぐ二人には耳も貸さず、摩弥は自分の言葉を続ける。
「望んでいたはずなのにね、例えそのときは苦しくとも、取り返しのつかぬことになって悔やみ通すより、忘れられる一時の哀しみくらいなら我慢できると思っていた…… いざ今日こうなってみると、なんだかおまえが憎らしくて。愛しさは少しも減ってはいないのに」
その口調は再び、感情があるのか無いのかさえ定かでないような、例の口調に戻っていた。
「不思議だよ。おまえが大切なのはきのうまでと何ひとつ変わってはいないのに、きのうまではおまえひとりでも生きてほしいと思っていた。でも今日は―― おまえを残してゆくのは不安で不安で……
わたしを想い続けてくれるという前提のもとで、わたしは消えようとしていただけだったのかもね」
「もしかして自爆装置とやらを――」
あたしは恐る恐るその言葉を口にした。
厚い壁に隔てられたような摩弥に、果たして自分の声が届くのかどうか、いぶかりながら。
「そんなことまで――」
彼女は空き巣を荒らされたような目であたしを見た。そして、
「どうせ逃がす気はないのだから、あなたにとっては同じでしょ?」
急にぞんざいな口振りになる。
「摩弥さま! 本気なのか?」
いままでずっと黙って話を聞いていた紫蘭が声を上げる。
そして樹葵も――。
「馬鹿! それだけはやめろよ!」
だが摩弥は変わらぬ静かな口調で、瞳には哀しい光を宿したままで、
「樹葵―― おまえは気付いてないのだろうけど…… 前のおまえだったら、わたしに『馬鹿』なんて言わなかった」
「それは違うよ! 摩弥が死ぬなんて言い出すから! 死んだら全て終わりなんだよ! もちろんつらいことはなくなるけど、楽しいことだって――」
それはあたしの受け売りか? 樹葵。
「そう。全てを終わりにしたいのよ。
わたしは小さい頃からずっと、なぜ自分が生まれてきてしまったのか、この世が出来てしまったのか考えていた。そしてこんなくだらないことだらけの世を、いつか無にしたいと望んでいた」
「なぜ生まれてきたかって? そんなの明らかじゃない!」
あたしはかっとなって、また大きな声を出す。「天下一の魔道医として国じゅうの人を救う力があるのに、なぜここであたしたちの命を奪うのよ!」
「なぜわたしが国じゅうの愚か者どもを救うの? くだらないことで争って傷つけあうヒトのような生きものは、滅びるべきだわ」
あたしは言葉を失った。あの己稲だって兄を診る魔道医の姿に心を打たれたと言っていたのに、この人は魔道医学で誰かを救おうとは考えないのか――
「なんのために魔道医学を……」
乾いた声で呟いたあたしに、
「命の神秘を解明できれば『本当の事』が分かると思ったからよ。自分が命を創れれば、この宇宙がなぜ命を生み出したか分かるかと―― すべては無駄だったけれどね」
摩弥は吐き捨てるように言った。「不幸にも始まってしまったこの宇宙を無に帰すことなど、私一人の力では出来ないけれど、今日この機会にここにいる者だけでも無に還して、わたしの長年の望みを実行するのよ」
その口調が変わった。「わたしはずっとひとりで生きてきたからね。死ぬときくらいみんなで死んでやるのよ、『みんな』が嬉しそうに言うみんなでね」
言葉に色があるとしたら、今の彼女の言葉はあたしが今までに見たこともないほど黒かった。彼女の人生をさいなんだ世間への、復讐と呪いがつまった漆黒の響きだった。
「なんでぇ?」
夕露が口を開いた。「みんなで死ぬんなら、みんなで生きてたほうが楽しいよぉ?」
摩弥は何も言わなかった。
「摩弥さま――」
紫蘭がおそるおそる声をかけた。「あたしらだけじゃなく摩弥さまのこどもたち――この屋敷にいるいろんな生きものたちも道連れにしちまうんですかい?」
紫蘭、ナイス! あたしもここぞと加勢する。「そうよ、創るだけ創っといて自分の都合で殺すなんて無責任じゃない?」
自爆なんて馬鹿なこと、なんとしても思いとどまってもらわなけりゃあ……
「あの子たちは大切だったわ。決してわたしを裏切らないし、決してひとりにしなかったから。でももう、こんなこと続けたくないのよ。あんな研究をいくら続けても満たされない。分からないのよ。自分が何を求めているのかさえ!」
その悲痛な叫びには、「本当の事」の探求にかけた彼女の苦しみがにじみ出ていた。
「研究はやめたいけれど、わたしがいなけりゃあの子たちは生きてゆけない」
非力な彼女はそういう存在がほしかっただけなのかもしれない。
「この地上にあの子たちの逃げ場所はないのよ。だから――わたしと一緒にずっと遠くへ旅立つの」
どう説得すべきか思考を巡らせながら紫蘭を見上げると、彼女もまた悲しげな顔で言葉を探していた。
一番後ろに立ったまま、凪流だけは何も言わなかった。




