30.時のらせん階段(5)
だがあたしの存在だけに一縷の望みを賭けている樹葵は、決して首を縦に振ろうとはしない。しまいには、どちらが説得しているのか分からなくなる。
あたしは嘆息するしかなかった。
そして重い口を開いた。
「どうしても、きみの時間に行けって言うの?」
樹葵は大きく頷いた。
「ひどいよ」
思わず本音が出た。
「あんただって時を越えて来たんなら、体力的にも精神的にも魔力的にもどんなにつらいことか分かってるはずなのに。あたしはあんたの時間に行ったあと、もう一度自分の時間に戻らなけりゃならない」
次第に口が勝手に回ってゆく。
「なんで初対面のあんたに、そんなことしなくちゃならないの?」
心の奥底で、本当は思っていることなのだろうか。
「親切心? 馬鹿にしないでよ」
だが――
こんなこと、思ってなかった。
「はじめから『死ねば』って、突き放してやらぁ良かった!」
樹葵は静かにあたしを見ていた。
それがまた、余計にあたしの癪にさわった。
「結局あんたは摩弥のことばっかり! あたしのことなんてどーでもいーんでしょっ!!」
月が鳥居の真上から、柱の両脇に立つ石灯籠を照らしている。
樹葵は月と同じように何も言わず、ただ孤独な眼差しであたしをみつめていた。
背中にかいていた汗が冷たくなってゆくにつれて、あたしは次第に恥ずかしくなってきた。
もうこのごろ、大声で怒鳴ることなど無かったのに―― 大声で笑うことは幾度もあったけど……
後悔こそしていなかったものの、なぜこんなに腹が立ったのか分からなかった。自分の心が何を隠しているのか知りたくて、あたしは客観的に頭を回転させようとした。
「ごめん……」
その声で、あたしは現実に引き戻された。
「本当にごめんね……」
樹葵は泣き出しそうな顔で微笑もうとした。
あたしはいよいよ自分が恥ずかしくなる。
「俺、子供だよな。全然あんたの気持ち考えないで。あんたは俺を救ってくれたんだ。本当に感謝してる。それなのに――」
「違うの、あたしが思わず自分が見えなくなちゃっただけで。ははは。いや、ほんと、勢いで言っちゃっただけだから!」
言い訳がましいかもしれない。
樹葵は静かに瞼を伏せたまま、首を振った。短い銀髪が、とがった耳の横で揺れ、まつわる月光を払うように見える。
「いま俺、気付いたよ。俺は自分が見えなくなってたんだって。それと一緒に当たり前のこともどんどん分からなくなってたんだ。
勢いのまま、死んだりしなくて本当に良かった。大切なことが、俺は分かってなかったから――
それに気付かせてくれたのは、今のあんただよ。だからそんな、恥ずかしそうにしないで……」
樹葵の右手がふわりと動いた。
整然と並んだ鱗に月光が反射する。
そして次の瞬間、その白い指はあたしの左頬をなで、そっと耳たぶをはさむと、あたしの桃色の髪と共に後ろへ流れていった。
その間あたしはずっと、樹葵のエメラルドの瞳に吸い付けられたままだった。そこにあるのはただ、深い深い包み込むようなやさしさだけだった。
――ああ、あたしはこの人にだから、怒りを開放できたんだ……
――ん!?
「うわあっ!」
あたしは思わず声をあげて、もう一方の石灯籠のうしろまで飛びすさった。「やあああっ、びっくりしたもうっ!」
我ながら反応遅すぎである。
思わず左手を頬に当てると、やっぱり火照ってる。
「どうしたんだよ、いきなり」
と、怪訝な顔する樹葵に、
「変なとこさわんないでよ! いきなり。びっくりするじゃん!」
「変なとこぉ?」
わざととぼけてるのか? いやいやこいつは距離感バグってるから、これが普通なんだった。
小さな水かきがついた彼の手に引かれて、裏庭まで歩いたことを思い出す。――弟とだって何年も手なんかつないでないのに。
でも摩弥の気持ちが分かった気がする。彼女は樹葵に甘えているのだ。あの、少年とは思えないほどの大きなやさしさに。
彼なら何をしても許してくれる、欠点も何もかも自分の全てを包み込んで愛してくれると、どこかで安心している。だから彼女は怒りも欲望も、どんなわがままでも樹葵にぶつけてしまうのだろう。
「思い出してみればさ」
と呟いた樹葵は、灯籠が乗った石段に上がって遠く葦寸の方角を見ていた。「俺と摩弥にもうまく行ってた時期はあったんだよな」
月夜に浮かび上がったあぜ道の向こう、遠くに見える黒い山のどれかが渓山のはずだ。
「俺があの人を救おうとか変えようとか思い始める前、互いの利害が一致して、ちょうど良い距離を保ててたんだ」
「樹葵にとって、摩弥と一緒にいて得られる利益ってなんなの?」
灯籠が建つもう片方の石段に腰を下ろして、あたしは尋ねる。
「俺の外見を魂のままの姿に戻してくれるってぇことさ」
どゆこと……? 困惑するあたしを見て樹葵は笑った。「紫蘭も己稲も理解できねぇって顔するけどな、俺はただ、己の魂のかたちを自分の姿で表現したかったんだ」
彼はいつの間にか灯籠を背に、石段の一番上に腰かけていた。
「画家が絵を描くように、音楽家が作曲するように、俺は自分の身体でもって表現した。俺自身が、俺の芸術作品なんだ。摩弥は俺が求める美の形を一緒に創ってくれた」
そう言いながら彼は、片手を夜空へ向かって高く伸ばした。いまや中天にかかる月に照らされて、腕の外側に並ぶ青白い鱗も内側の雲のように真っ白い肌も、小さな透き通った鉤爪まで、すべてが淡く発光しているように見えた。
「きれい」
あたしは彼を見上げながら、思わず呟いていた。
「だろ? 知ってた」
自慢げに返されて、しまったと思う。ナルシストをうっかり褒めてしまった!
「今の俺の姿は、世界中のどんな男よりどんな女より美しい。だからもう満足して死ねるかなと思ったんだ」
その声に少しだけ憂いがまざる。
「まだまだ死ねないわよ、樹葵」
あたしは言ってやった。「ほとんどの人が他人の言葉や世間の目を気にして、きみのようには生きられない。だけど樹葵が先頭に立って幸せに生きる姿を見せることで、ただ純粋に自らの美を追い求める生き方が可能だって、みんなに分からせてやるのよ」
「そっか、そうだな」
月明かりの下、樹葵はにっと笑った。
やっぱりこの人は、二年前あたしが憧れていたあの先輩なのだ。
魔道学院一の変わり者に近づく学生はおらず、いつも一人で過ごしていた彼。芝居の舞台でもないのに唇には紅をさし、常日頃から奇抜な女物の着物をまとう少年を、街の人も遠巻きに冷ややかな目で眺めていた。それでも傾いた恰好をやめない彼は、とても強い人に見えた。
あたしは若くして天下一と褒めたたえられる摩弥を目指そうとする一方で、変人扱いなど意に介さず我が道をひた走る先輩に惹かれていた。あたしの魂は世間的な評価なんか求めていなくて、樹葵のように自らの信念を形にすることを望んでいたのだろうか。それとも両方?
上の空になっていたあたしの前に、樹葵が猫のようにしなやかな身のこなしで飛び降りてきた。
「じゃあ俺、そろそろ自分の時間に帰るよ」
あたしも石段から立ち上がり、
「それじゃあ三十三日後に会おうね」
「本当に来てくれるんだよな? 必ずまた会えるよな?」
不安そうな樹葵に、
「約束するよ。紫蘭の館のあの地下室で待ってて。それから摩弥がまだ病んでるようだったら、あたしからも説得する。それでもう一度、みんなに喜ばれるような魔道医になってもらおう!」
自分で言ってからあたしは、はたと気付いた。樹葵が言っていた二つ目の約束って、このことだったのか。
樹葵があたしの前で両手を広げた。ちょっと首をかしげたあたしに、
「お別れの挨拶にハグしていいか?」
今度はちゃんとスキンシップの前に許可を取ってきた。さっきのあたしの動揺っぷりがバレていたのかと思うと、また耳のあたりが熱くなる。それにしても樹葵は、衝動的に行動するくせにこちらの気持ちを感じ取るらしい。ならなおさら、人の感情が見えない摩弥との関係は苦しいはずだ。
いいわよ、と小さく答えると、喉を鳴らす猫のように嬉しそうな笑顔であたしを抱擁した。
「俺の姿をきれいと言ってくれてありがとう。自殺を止めてくれて本当にありがとう」
あたしの髪にやさしく触れる彼の背中に腕をまわすと、華奢と思っていたその身体は意外としっかりとしていた。――そうだ、あたしがお母さんとしかハグしたことないから…… 男子ってこうなんだ、と思ってまた赤面する。
「三十三日後にはあんた、現実の人になってるんだな。ちゃんと同じ時間の人として」樹葵が耳元でささやいた。「そのときにはあんたのことも色々教えてくれよ」
彼を強く抱いたままあたしは、うん、とだけ答えた。
両腕に彼の体温が伝わってくる。この熱が、命―― 両手に大きな命の火を抱きしめながら、あたしはこの人を守れたんだと再確認して泣きそうになった。命ってやっぱり、かけがえのないものなんだ。
樹葵はあたしを離すと、いたずらっぽく笑った。「今は謎めいたままにしておこう。そのほうが、三十三日後の楽しみも大きいからな」
そうか……。この時間の樹葵にとって、あたしは不思議な時の旅人か……。
あたしはすっかり熱くなった胸に、大きく息を吸いこんだ。
――秋の匂いがする。
赤く色づいた楓の木の下から細い枝を拾ってくると、樹葵は湿った土に魔法陣を描いた。
「じゃ、またな」
軽く手をあげると、印を組み呪文を唱えだす。
「褐漠巨厳壌、其の大なる力を以て……」
あたしは小枝を拾い、目の前の土に慌てて呪文を書き留める。
「狭まらんとする隧道、現じし時がままにとどめ給え――」
魔法陣のまわりに強い気が集まっていくのを感じる。目には見えぬ磁場が形成され、重力が歪み始める。
「そうだ!」
その中で樹葵が声を上げた。「あんた名前なんてぇの?」
風も起こらぬのに声は途切れがちに届く。
「玲萌! 七海玲萌だよ!」
樹葵の姿がかすみはじめた。
その中で月光を受けて輝く銀髪だけが、光と舞うように際立って見えた。
「玲萌、ありがとう!」
樹葵がそう叫んだのを最後に、視線を向けるだけで目が痛くなるような強い力を感じて、あたしは思わず目を閉じた。
一瞬のちに再び目を開けたとき、既にそこに樹葵の姿はなく、魔法陣と一本のもみじが残されているだけだった。
あたしはその魔法陣の上に立ち、静かに呪文を唱えはじめる。
再び訪れたあの苦痛の中であたしは念じた。出発したときと同じ時間に帰るのでは意味がないのだ。あたしは、摩弥の実験動物と紫蘭の攻撃から逃げるために、時を越えたのだから。
闇は無限の中心へと渦巻いてゆく――
そんな感覚が、あたしをさいなんだ。




