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26.時のらせん階段(1)

 ふと手足が軽くなった。金縛りから開放されたように。

 だが辺りは依然として闇に包まれたまま。

 頭痛がおさまってくると、行き先の時間を念じなかったために、時空の狭間に落ちてしまったのではという恐ろしい疑念に指先が震えた。

 樹葵(ジュキ)はなんて言っていたろう……

 「行き先を設定し、そこまでの道――輪虫洞(ワームホール)――を作り出すために、激しい魔力消耗に襲われる」

 だが今のあたしに魔力を使い果たした疲労感はない。

 ――ということは……

 帰り道は同じ道を通るため、行きほど多く魔力を使わない―― 樹葵(ジュキ)はそうも言っていたはずだ。

 もしかしたら一ケ月前に樹葵(ジュキ)が通ったのと同じ道を通り、同じ時間・同じ場所に来てしまったのかもしれない!

 目が慣れてくるにしたがって、ここが夜の森であることが分かってきた。渡る風が、単衣(ひとえ)を着た肩には冷たい。

 手には湿った土の感触が残っている。

 あたしはゆっくりと立ち上がる。林立する木々の向こうが見えた。

 ――町だ!

 見慣れた町の明かりが散らばっている。かまどの煙が月の隠れた秋の夜空へ、幾筋も立ちのぼってゆく。

 帰りたい!

 唐突に強い衝動に襲われる。

 ここは白草(シラクサ)だった。あたしの住んでいる町だった。

 後ろに草を踏む音を聞いて、あたしは振り返る。

 ――樹葵(ジュキ)

 危うく声をあげるところだった。

 だがあたしは声をかけられなかった。黙ったまま向こうを向いたその背中が物語る何かと、この場の雰囲気が、あたしにそれを思いとどまらせたのだ。

 あたしは、進行している物語の途中に降ってわいたような、何の関連もない落とし物なのだ。自分が現れる前、ここで何があったかなどまるで知らない。

 それを見極めようとして木々の間から、立ち尽くす樹葵(ジュキ)の向こうを覗いてみて、一瞬言葉を失った。

 そう、これは、二年半前のあの情景だったのだ。

 月の隠れた闇夜でも、背を向けた樹葵(ジュキ)の向こうに、十三才のあたしの「憧れの先輩」がこちらを向いて立っているのがぼんやりと分かった。

 一瞬にしてあざやかに、夢だった魔道学院に入学した頃の記憶がよみがえる。木の葉が舞う秋風の匂い、通い慣れない通学路、古びた学び舎、上級生が使い古した教科書―― すべてが輝いて見えたあの日々。そして後ろ姿を追いかけた名も知らぬ先輩。まるで花魁(おいらん)のような極彩色の着物に、さらに目を引く緋色の髪をツインテールに結い、唇には紅をさして、それから――

 そう、彼のエメラルドグリーンの瞳。

 今までなぜ忘れていられたのか。あたしが先輩に心惹かれたのは、あの奇抜なファッションでも、ゆるくカールした長髪のせいでもなく、南の海を思わせるエメラルド色の瞳を美しいと思ったからだった。

 樹葵(ジュキ)の猫のような目を見るたび、どこかで会ったような気がしていた。それもそのはず、二年前、白草魔道学院一の変わり者とうたわれた先輩が、他でもない樹葵(ジュキ)その人だったのだ。印象的な瞳をのぞいて、彼の姿はほとんど変わってしまったから、ずっと気付かずにいたのだ。

 先輩の後ろには、露骨に怪しい動作で彼を尾行する一回生の頃のあたしがいた。先輩が足を止めると、木の陰に身を隠すようにして立ち止まった。彼の前に今の樹葵(ジュキ)の姿をみとめて、太い幹に両手でしがみつき、両目を大きく見開いたまま震えている。

 樹葵(ジュキ)が二年前の彼自身――先輩のほうへ、静かに一歩あゆみ出た。

 そして抑揚をおさえた低い声で呟いた。

「俺を―― 殺してほしい」

 赤い月が厚い雲から顔を出す。遠くの木の後ろであたしがぱたんっと倒れた。気絶したらしい。情けねえ。

 樹葵(ジュキ)は手に握っていた何かを先輩に手渡す。「この剣で――」

 あたしはゆっくりと木陰から移動して目を凝らした。

 先輩が鞘から抜いた剣を受け取る刹那、(つか)の意匠がシルエットになって見えた。

 ――龍の剣。

 振袖を着た先輩の両手が柄を握ると、樹葵(ジュキ)はゆっくりともろ肌を脱ぐ。先輩の目は剣に向けられることはなく、静かにみつめる樹葵(ジュキ)の両眼に吸いつけられていた。

「そうだ、それを俺に向けろ」

 先輩の両腕は、悪夢に操られた人のようにそろりそろりと動きだす。

 ――いけない、何か魅了(チャーム)のような幻術をかけられているんだ。

 人を惑わす幻術のたぐいは、犯罪につながる恐れがあるから魔道学院では習わない。ゆえにあたしは詳しくないし、九字を切って防御できるのかも分からなかった。だから慎重に、木々の陰に身を隠しながら歩を進めた。

「そのまま俺の左胸を刺すんだ」

 つぶやく樹葵(ジュキ)の斜め前まで来たとき、彼の胸の真ん中に眼のような文様が、赤い光を放って浮かび上がっているのが見えた。きっとあれが幻術の正体。摩弥(マヤ)が生み出した術を彼の体に埋め込んだのかも知れない。

「そうだ、もう一息――」

 恍惚とした表情で樹葵(ジュキ)が続ける。

 蛇に魅入られたかのように(まばた)きさえせぬままで、先輩は剣の切っ先を樹葵(ジュキ)の左胸にぴたりと押しあてた。その肌は異様に青白くはあったが、鱗に守られてはいなかった。

 刃先から丸い血の雫がこぼれ落ちるのを見たとき、

「やめて!」

 あたしは反射的に声をあげていた。

 ふたりが同時にこちらを見る。

 そして――

「うわぁぁ!」

 幻術から我に返った先輩が声をあげた。腰を抜かすと同時に、魔術剣が地面に落ちる。光の戻った瞳で樹葵(ジュキ)を見上げ、

「なんなんだよ あんた……」

 と、あえぎながら後ずさりしてゆく。

 ちっ――

 樹葵(ジュキ)が小さく舌打ちした。

 あたしは努めて穏やかに、恐怖におののく先輩に声をかけた。「もう大丈夫だから。家に帰んな」

「ひぃぃ、化けもん……」

 小さな悲鳴をあげながら立ち上がろうとして、高い下駄につまづき転ぶ。

「今日のことは忘れて」

 あたしの言葉が聞こえているのかいないのか、緋色のツインテールを振り乱して田圃(たんぼ)のほうへ一目散に逃げ出した。

 樹葵(ジュキ)はゆったりとした動作でひざまずくと、龍の剣を拾い上げた。

「あんたでいい。あんたでいいから俺を殺してくれ」

 差し出された剣を、あたしは無言で受け取った。彼の鎖骨の下で不気味な光を放つ眼に()()()()()()()()()()しながら。

「本当に? いいのか、殺してくれるのか?」

 歪んだ歓喜に、その声はうわずる。

「ずいぶん物分かりがいいじゃねぇか、あんた。俺とは大違いだよ」

 「俺」とは先輩――二年前の自分のことだろう。

「さあ、今すぐ」

 威勢のいい言葉とは裏腹に、彼の唇は色を失い小刻みにふるえていた。そりゃそうだろう。本当に今すぐ死にたいなら、自分で剣を頸動脈に突き立てているところだ。

「目を閉じて」

 あたしは乾いた声で言った。「目を閉じたら何も話さないで。あたしにも心の準備がいるからすぐには刺せないけど、目を開けたり喋ったりしてはだめよ。分かった?」

「ああ、分かった」

 樹葵(ジュキ)は素直に頷いて瞼を閉じた。(おり)しも雲間から顔を出した月明かりが、彼の白いまつ毛を銀色に照らし出す。

 あたしは片手に剣を携え、静かにその場をあとにした。

単衣(ひとえ)=裏地のついていない着物。初夏や秋の初め頃に着用する。

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