11.湯けむりと人さらい
檜の香りと湯けむりがたちこめる。頭を洗っている夕露をぼんやり眺めながら、あたしは湯につかった手足を思い切り伸ばした。
夕刻、ここ渓山の宿に着いたときには腹が減って死にそーだったため、早めの夕食後に入浴することにしたのだがそれが正解だったようで、温泉はあたしと夕露の貸し切り状態だった。
湯は透明だが微かに芳香が漂い、部屋に案内してくれたおばちゃんの話によれば、肩こり・血行不良・肌荒れなどによく効くらしい。
「玲萌せんぱ~い、露天風呂のほうは行かないんですか~?」
室内の檜風呂からすぐに展望露天風呂へ行けるつくりになっている。
一階の大浴場の外にある露天風呂がなぜ「展望」かといえば、渓山山中のこの宿が切り立った崖の上に建っているからだ。
「行くよー。きみが頭洗い終わんの待ってんだよーん」
と、そのとき。
からからっと音がして、脱衣所に続く磨りガラスの戸があいた。これから風呂に入ろうというのにしっかりと着物を着こんだ、濃紫の髪の女性が立っている。結わずに垂らした髪と、重ねた袿姿が古風に映る。千年前の貴族のようないでたちだ。
――己稲?
「夕露さんはどちら?」
「あたしだよーぉ」
たらいの湯を頭から浴びながら、のんきに答える夕露。
咄嗟に危険を感じたあたしは手ぬぐい片手に立ち上がった。だが――
「なにこれっ?」
――水から抜けられない!
温泉の湯が高速回転し、あたしの両足を拘束する。
己稲は裸足で浴室につかつかと入ってくると、履物を持っていない方の手でさっと夕露を抱きかかえる。
「では、約束どおり」
「……約束?」
「私の書いた、まあ――挑戦状とでも言いましょうか――読みましたわよね?」
「挑戦状――? まさかあの下手な歌が?」
「そう。歌の意味、解釈できました?」
「全然分からなかったの。説明して!」
あたしはお湯の中でそっと印を組んだ。
「いいことよ。
まず『つきかげ』は、月光……というより、夜を意味しますの」
――青霧透霞鏡
「『檜かぐはし』というのは檜の香りが立ちこめる、この温泉のこと……」
――淙淙たる勢流、今し、収束し
「『ゆふつゆの』は漢字をあてれば『夕露の』つまり夕露さんのことですわ」
――其の大なる圧を以て
「『恵のしづく 受けにまゐらむ』――ここで、わたくしが夕露さんを頂戴するということが分かりますわね?」
「愚かなる魂が炎、吹き消し給え!」
横合いのたらいの水が、己稲めがけて宙を駆ける。己稲は右手に持った下駄を投げ出すと、袿の下から刀を抜く。柄には金色の鳳凰がきらりと光る。
――鳳凰の剣?
ばしゃぁぁんっ!!
気を込めた剣の腹で迫り来る水を打ち砕く。
「無礼な……」
彼女は低く唸るように呟くと、ふところから書状を取り出し、こちらへ投げてよこした。
「この場所へ来い」
あたしの身は、渦巻く水の呪縛から開放される。
彼女の投げた書状に手をのばすが、それは指の間をすり抜け、そのまま水面に着地した。
慌てて掴みあげたときにはもう遅い。紙一枚一枚はお互いにへばりつき、広げようとしたら破れてしまった。
己稲は書状の無惨な運命を知ることなく身をひるがえし、露天風呂に続く木戸の向こうへ姿を消した。
急ぎ後を追う。
木戸をくぐれば、外の風が濡れた体につめたく染み透る。
岩の隙間から湯がこぼれ落ち、白い湯気が立ちのぼる。
そこに己稲の姿はない。岩風呂を迂回し、下を見下ろせる位置まで行くと――
――いたっ!
夕露を脇に抱えたまま木々の枝をつたい、こちらから遠のいてゆく、軽やかな身のこなし。
炎の術で林を火の海にするわけにもいかず、地面に足をついていない以上、大地に働きかけても意味がない。風を操ってこちらに引き戻す案も浮かんだが、夕露もろとも崖下に落っこちたりしても困るし、何よりもあたしが寒そうだ。
こんなとき、凪流のように空を飛べる何かを呼び出せれば便利なのだが、あたしはあいにく召喚魔術を選択しなかった。
しかし、宙を舞う紙すら掴めぬあたしの運動神経で、あんなサルのよーなやつを追えるわきゃあない。――その前に服着てねーし。
そんなことを考えているうちに、己稲はあたしの視界から消えていった。
陽は沈んでいたが辺りはまだうっすらと明るかった。藍色の空の端にひっそりと月が懸かっている。
――あ~ さみぃ。
湯につかりながら改めて今度は落ち着いた心で下を見下ろすと、さすが「展望」だけあって絶景だ。あたしたちが歩いてきた山の表側とは異なり、裏には厳しい自然があった。
藍色の空のもと、そびえる岩山は天を指差し、その所々に松の深い緑がのぞく。奇異な形に切り立った風情ある岩の後ろから、ぽっかりと丸い月が顔をのぞかせる。その向こうに、静かな暗い湖面がのぞいている。斜原湖だ。葦寸の洞窟は斜原湖のそばにあるというから洞窟は近いのだろう。
結局、己稲の来いといった場所は分からぬし、分からぬといえば、そもそも夕露がさらわれた理由が分からない。
――だぁぁぁっ! あいつ、ちぃぃっとも反撃してなかったし。
あっさり連れていかれやがった夕露の姿を思い出し、覚えず頭に血がのぼる。
どーやら、連れ去られるのがシュミになってしまったらしい。だが、囚われの身になるだけなっといて、後はあたしにおまかせってか?
ンな他人にめーわくなシュミもつなよっ! 学院の休み時間に便所付き合うのとは、わけが違う。あれだって、じゅ~~~ぶんめんどいけど、わざわざ下の階からあたしの教室までやってくるのを無下に断るわけにもいかず付き合ってやるものを、時にはいい気になって、ずぅずぅしくも甘えた声で、机につっぷして寝てるあたしを起こしてまでして、つれしょん要求してくるし。
熱い湯につかって脳みそに血がのぼっているのかもしれないが、とにかく今回は、「イイ薬」とゆーことで、放っておくことにした。
何はともあれ今は葦寸の洞窟について、非常に気になるのである。第一、王立魔道学院の用意した剣はちゃんとあるのか? 先程己稲のふりかざしていた剣、柄に鳳凰が付いていたが、まさかあれじゃないよな……
魔術剣は洞窟の奥に封印されている。あたしたちは出発前に師匠から、剣のありかを示した「葦寸洞窟内部図」を渡され、同時に封印を解くための「解呪の術」を伝えられていた。「解呪の術」には封印時に設定された特定の呪文が含まれており、たとえ魔術が使えても外部の者には解けない仕組みになっている。
その後も露天風呂にほかの客が来ることはなかった。この宿、経営だいじょぶかな、じゃなくて―― 岩の隙間から流れ落ちる湯の音だけが心地よく耳に響く。涼しい風が頬を撫でる。体にあたる粗い岩の感覚も快い。あたしはそっと瞼を閉じた。
未だ朝餉の香りが残る宿の一階――
あたしは二人分の荷――誘拐された夕露と自分の分――をかかえて見世の間に立っていた。
「――ってなかんじの人に心当たりありませんか?」
帳場のおっちゃんに、昨夜風呂場で見た己稲の人相を告げる。己稲は普通に脱衣所側から入ってきたのだから、宿の人に目撃されているはずだ。
「昨日の夕方頃にやってきたはずなんですが」
「己稲さんかい?」
いきなり名を当てられてあたしは目を見開く。
「知ってるんですか?」
「ふもとの村で薬売りをしてる人だぁね。こんな山ん中の宿にも時々売りにくるんだが、それが良く効くんでさあ。夕方はあたしゃあ席を外して若いもんに任せてたから知らねぇが昼に見かけたよ。四つの鐘を聞いたあとだねぇ」
あたしと夕露が商店街に入った頃だ。
「うちは食事だけ、風呂だけってぇのも大歓迎でねぇ、泊まってかないお客さんにもよく温泉はご利用いただいてるんでさあ。昨日は珍しく己稲さんが見えてねぇ。あいやでも、本当に湯に入ったのかなぁ。あの着物にしちゃあいやに早かったが」
犯行現場(風呂)の下見だろう。それでなくては檜云々なんて分かるはずがない。
「いつもどういうわけか古風な着物をきっちり着込んでるねぇ、あのひとは。昨日なんか用事が行商じゃないもんだから、いつも以上に動きにくそうな恰好しちまってなあ。丘の上のお屋敷に住んでるっちゅうけど、あそこからじゃ結構歩くのにねぇ」
「丘の上のお屋敷……?」
昨日昼食をとった紫蘭の館だろうか。
「ああ、ふもとの村外れの丘に異国風のお屋敷が建ってるんでさあ」
――間違いない。
それからあたしは凪流の姓名を告げ彼が泊まっていないか調べてもらった。紫蘭の報酬が一部前払いされていたら、昨夜泊まるくらいは可能だからだ。
「汀凪流……汀さんねぇ」
おっちゃんは宿帳をぺらぺらめくっていたが、
「泊まってないようだねぇ」
あたしは小さくため息をついて、葦寸への行き方を尋ねた。
「あそこの洞窟は危険だって言うよ。ここ数年よくない噂ばっかり聞きまさぁねぇ」
「数年?」
「そう。二、三年前からね」
おじさんは声をひそめ、あたしの耳元に顔を寄せるようにして、
「洞窟の奥に誰かいるんだとさ」
会談話のノリで低く耳打ちする。「毎年ちょうど今頃なのさ。若い男女の二人連れが葦寸の洞窟に吸い寄せられて、足を踏み入れたが百年目、しゃれこうべさらすまで出てこられねぇんだと。んで今年のあんたでちょうど三年目よ」
学院側の資料とちょうど一致する。二年前から葦寸に行ったペアは帰ってきていないのだ。
「呉々も気ぃ付けなせぇ。鬼にとって喰われねぇようにな」
「あたしは相手がいないから大丈夫よ」
出てこられないのは男女の二人連れだという。これも王立魔道学院の卒業試験と一致する。
あたしの冗談に宿屋のおっちゃんは迫力ある笑い声をあげながら物騒なことを言った。
「おっちゃんと行っていっちょ喰われてみっか?」
そしてあたしは夕露の荷物(金棒含む)をかつぎ、葦寸の洞窟へ向け宿を発った。
昼四つ=午前十時ごろ




