1 お隣の黒川さん その7
その日、彼女が目を覚ましたのは正午過ぎだった。
こんな時間まで眠ってしまうとは。自堕落な自分にちょっと罪悪感を感じつつ、それを払拭するように前日と同様にスマホで職探しを再開した。
しかし、結果はやはり前日と同じだった。そう、何かよさそうな求人情報があっても、その連絡先に電話することができなかったのだ。彼女の心の中にはやはり、前の職場での恐怖体験がわだかまっていた。
結局その日は、家でそんなふうにスマホを抱えて悩んでいるうちに日が暮れた。
「ま、まあ、仕事探しは明日からでもいいわよね……」
自分に言い訳するようにそう独りごちると、一人で夕食を済ませ、入浴し、床についた。明日こそは何か仕事を見つけよう、と、固く決意しながら。
そして、その夜もまた、彼女は前日と同様の悪夢にうなされた。そう、またしてもあの男に追いかけられる夢を見てしまったのであった。しかも、前日よりいくらか鮮明な夢のようだった。
「きゃあっ!」
やがて夢の中でその男に捕まったところで、彼女は悲鳴とともに飛び起きた。
「ま、また同じ夢……」
額ににじんだ冷たい汗を手でぬぐいながら、ベッドから起き上がり、スタンドの灯りをつけ、部屋の中の様子を確認してみた。
時刻は午前三時半。昨日と同じように未明のまだ暗い時間だったが、昨日とは違い、謎の足跡は部屋のどこにもなかった。
よかった。昨日のアレはやっぱりただの見間違いだったんだ。ほっと胸をなでおろす雪子だった。
と、そのとき、
ドンッ! ドンッ!
突如、玄関のドアが外から激しく叩かれたようだった。その音が部屋中に響いた。
「な、なに……?」
こんな時間に誰だろう。
恐怖と不安がたちまち胸のうちに湧き上がってきた。そして、そんなふうに身を萎縮している間にも、玄関は再びドンッと強く叩かれたようだった。
「ど、どなたですか?」
おそるおそる玄関のほうに近づき、外に向かって声を出してみた。すると今度は、
「……雪子」
と、低い、とても小さな声が聞こえてきた。それも、どこかで聞いたことがあるような……。
「だ、誰なの!」
「……」
返事はなかった。声もそれ以上何も聞こえなかった。
そこで彼女はさらに思い切って、玄関ののぞき穴から外の様子をうかがってみた。すると――外には誰もいないようだった。
「え? なんで……」
直後、そのまま玄関を開けてアパートの廊下に出てみるが、やはりそこに人影はなかった。ただ、アパートの廊下のかぼそい照明が、殺風景なコンクリート造りの廊下を照らしているだけだった。
「どういうこと?」
玄関を叩いていた人物は、叩くだけ叩いて急にこの場から立ち去ったってこと? いったいなぜ? 誰が何の目的でこんな時間に……?
ひたすら不気味なものを感じ、彼女はたちまち震えおののいた。これではまるで、前夜と同じような怪奇現象と呼ぶしかないではないか。
と、そこで、今度はアパートの廊下の突き当たり、階段のほうから足音が聞こえてきた。彼女はとっさにびくっと身を震わせ身構えた。しかし、それは一瞬で解除された。その足音の主は、鼻歌まじりで階段を上がっていたのが聞こえたからだ。しかも、その声には聞き覚えがあった。
そう、その人物とは――、
「おや、赤城さん。こんな時間にどうしたんですか?」
と、階段を上がって廊下に出たところで、その人物、黒川は雪子に気づいて声をかけてきた。
「く、黒川さんこそ、こんな時間に外出ですか」
と、若干声を震わせながら答える雪子だったが、内心はすごく安心していた。よかった、階段を上って現れたのが怪奇現象じゃなくて、生きた人間で。
「まあ、僕は夜行性なので、ちょっと散歩をね」
そう答える黒川は昨日までと同じジャージ姿だった。ただ、顔色は昨日までに比べてずいぶんいいように見えた。さっきまで鼻歌を歌っていたし、なんだか機嫌もよさそうだった。
「こんな時間に散歩? いったいどこに?」
「とある拘置所の近くまで」
「なんでそんなところに」
「そりゃあ、つい最近、死刑囚の死刑が執行されたからに決まってるじゃないですか」
「え」
「いいですよね、死刑執行って。僕、そういうの大好きで、ニュースとかで、かかさずチェックしてるんですよ」
黒川はにっこり笑って言う。とても生き生きとしたいい笑顔だが……。
「いや、あの、黒川さん? 言っている言葉の意味がよくわからない――」
「ああ、それから繁華街のほうにも足を運びました」
「繁華街? お酒とか飲んで、夜遊びですか?」
「いやいや。そういう街に渦巻く人間のただれた欲望や穢れた情念を、散歩しながらたっぷり吸い込んできたんですよ。いいですよね、邪気邪気して心が洗われるようでした」
黒川は目を輝かせながら言う……が、やはり言っていることの意味がわからない。ジャキジャキって何だ。どんな表現だ。