5 黒川さんの里帰り その12
「さ、赤城さん、これを着てください」
黒川は二枚の羽織のうち一枚、赤いほうを拾って雪子に差し出した。事情がいまいち飲み込めないが、これに袖を通せばいいのかな。言われたとおり、雪子はその赤い羽織を服の上から着た。
雪子がその羽織を着ている間に、黒川ももう一つの黒いほうの羽織をジャージの上から着たようだった。着替え終わった雪子が顔を上げると、すでにそこに冴えないジャージ姿の男はいなかった。羽織を着た瞬間に、鬼の姿に戻ったのだろう、彼女の目の前には黒く長い髪の、美しい青年が立っていた。黒い羽織を着た姿も、実にさまになっている。
「わあ、きれいですね、赤城さん。よく似合っている」
と、その美青年と目が合ったとたん、とびきりの笑顔でこう言われてしまった。雪子はまた気恥ずかしさで顔が熱くなった。このイケメン、唐突に何言ってんだろう。自分の羽織姿のほうがよっぽど似合ってるし、きれいではないか。
「そ、それで、私、このあと何をすればいいんですか?」
黒川から目をそらし、早口で尋ねる。
「ああ、はい。あとはこちらの巻物の最後に、僕と一緒に血判をしていだだければ完了ですよ」
黒川は今度は巻物を拾って、それを雪子の前の床に広げた。何かずらずらと筆でしたためてあるようだが、達筆すぎて読めない……。
「血判はここに、こういう感じで」
黒川は雪子の隣に回りこんでくると、右手の親指を噛んで、巻物の最後の空白にぽちっと押し当てた。一瞬、血の印がつき、すぐにすっと紙に吸い込まれるように消えた。
同じ場所にすればいいのかな? これで終わりらしいので、雪子は素直に黒川の真似をして、そこに血判した。それは黒川のときと同じようにすっと消えた。
「黒川さん、終わりまし――」
「はい! これで僕たち、晴れて夫婦になりましたよ!」
「え――」
雪子は一瞬、自分の耳を疑った。夫婦って何だ!
「あ、あの、今何か、変な言葉が聞こえたような気がしたんですけど……」
「聞こえませんでしたか? たった今、僕たち結婚式を挙げたじゃないですか?」
「いやいやいや! 挙げてないですよ!」
「綺麗な服に着替えて、夫婦初めての共同作業。親族の立会人もほら、この通り」
「一夜お兄ちゃんたち、結婚おめでとー」
聖夜はさもどうでもいい感じでぱちぱちと拍手をする。さらに、「本当は白夜にも来てもらう予定だったんですけどね、あいつ今日も残業みたいだから」とかなんとか、目の前の鬼は口走っている。
「い、いや! おかしいでしょう! 私たち、別につきあってるとかじゃないじゃないですか!」
「そうですか? 僕たち、一緒にご飯を食べたりお酒を飲んだりデートをしたり、親兄弟に紹介したり、裸で抱き合ってチューしたり一緒のお布団で寝たり、だいたいのことはやったような気がするんですが」
「そ、それはそのう、成り行きで――」
小学生の聖夜もいるのに、また何てこと言うんだろう、この男は。しかも後半は厄除けという名目でこの男が一方的にやってきたことではないか。
「はは、そんなに構えないでください。この場合の結婚というのは、あくまで形だけのものです。僕は別に、雪子さんをお嫁さんとしてどうこうするつもりはありませんよ。ただ、厄除けの加護を与えるのに必要だから、こうしたまでです」
「加護を与えるのに必要? 黒川さんと結婚することがですか?」
「ええ。前にお話したことがありましたね。妖怪は、この人間の世界で悪さをするのはいけないことですが、実は、同じくらいいけないことがあります。特定の人間、ないし人間の組織に対し、妖怪の力を使って加護を与えること、です」
「あ――」
そういえば、幽世ハロワに行ったときに、そんなことを聞いた気がする。
「なので、本来、僕が雪子さんに加護を与えるのはご法度、禁忌であり、法務省の特別在留管理室に見つかったら最後、僕という鬼のならず者は討伐対象になって幽世追放処分になるわけですが、実はこれには一つ抜け穴があります。妖怪が加護を与える人間と結婚して身内になってしまえばセーフなのです!」
「そんな決まりがあったんですか……」
驚愕の事実だが、妙に筋道は通っているように思えた。
「じゃあ、この結婚はあくまで厄除けの加護のための形式的なものなんですね?」
「ええ、もちろん。さっき血判した婚姻届も妖怪の世界のものですし、雪子さんの人間の世界の戸籍はそのままでいいですよ。この結婚は、雪子さんの今後の人生に、特に悪い影響を与えるものではないです」
「そうですか、よかった……」
いきなり結婚させられてびっくりしたが、そういうことなら、まあいいか。
しかし、そこでふと、雪子は気になった。
「理屈はよくわかったんですけど、厄除けの加護をしてもらう私はともかく、黒川さんは私なんかと急に結婚していいんですか? 黒川さんにだって、人生の計画とか色々あるんじゃ……」
「いえ、僕はむしろ、雪子さんとの結婚は大歓迎ですよ」
「え、どうして――」
「そりゃあ、雪子さんのこと、大好きだからに決まってるじゃないですか」
黒川は雪子をまっすぐ見つめ、きっぱりと言い切った。その赤い瞳はとても澄んだ、やさしい光をたたえているように見える……。
「な、なんでそんなこと――」
いきなり言うんだろう! こっちをガン見して、さらっと言うんだろう! 雪子は瞬間、頭が真っ白になった。
そして、そんな雪子の反応を見て、黒川はおかしそうに笑った。
「はは、いいんですよ、変に気にしないでください。あくまで僕が一方的にそう思っているというだけの話です。雪子さんは僕のことは、せいぜい、よくしゃべる生ゴミぐらいにしか思ってないのでしょうし」
「い、いや! いくらなんでも、そこまでひどくはないですよ!」
「え、本当ですか? よくしゃべる資源ゴミくらいには思ってますか?」
「いや、だからゴミじゃないですってば……」
そういや、この人と最初に出会ったのもゴミ捨て場だったかなあ。雪子はふと笑った。なんだか緊張が一気にほぐれる気がした。
「黒川さんのことは、一応、一人の男の人としては認識してますよ。べ、別にそこまで嫌いでもないし……」
「本当ですか! うれしいなあ!」
黒川はにっこり笑って、雪子の手を両手でぎゅっと握った。とても大切なもののように。
「じゃあ、これからも、お隣さんとして、名目上の夫婦として、末永くよろしくお願いします、雪子さん」
「は、はい……」
黒川のうれしそうな顔を見ていると、雪子も自然と笑みがこぼれた。




