5 黒川さんの里帰り その2
ただ、馬頭にそんなことを言われたせいで、次第に黒川のことがちょっと気になりはじめている雪子であった。白夜にも交際していると勘違いされてしまったし。誤解は解けた後も、兄の身柄をよろしくされてしまったし。あんなの押し付けられても困るだけなのに。
黒川とはあの夜以来、特に接触はなかった。アパートの廊下や階段などですれ違うこともなかった。
雪子は勤務先からアパートに帰るたびに、そこらにみすぼらしいジャージ姿の男が転がっていないか、次第に探すようになっていった。まあ、隣に住んでいるわけだし、電話番号も交換済みだし、会おうと思えばすぐ会えるはずなのだが……。
やがて、そんなこんなで十月も半ばになったころ。雪子は唐突に黒川と話す機会を得た。
そこは、いつものようにアパートの廊下や階段ではなかった。なんと、黒川は今回は、いきなり雪子の部屋に沸いて現れたのである。しかも、ちょうど雪子が風呂から上がって、洗面所で髪を乾かしているときに、である。
「赤城さん」
「きゃあっ!」
裸にバスタオル一枚巻いただけの姿で、鏡を見ながらドライヤーを動かしていた雪子は、突如真横から黒川に声をかけられ悲鳴を上げた。見ると、今は鬼の姿で、前と同じ鬼装束を着ている。
「な、なんでいきなりそんなところに出てくるんですか!」
「はは。ベランダの鍵が開いていたもので。不用心ですね」
黒川は悪びれる様子もなく、くすりと笑った。
そういえば、その着ている装束には、人間に見つかりにくくなる効果があったっけ。だから、声をかけられるまで彼の存在に気づかなかったのだろうか。
「実は、このように失礼な訪問になったのは、ちょっとわけがあるのですよ」
「どんな?」
「ここはひとつ、あなたをさらってやろうと」
「え――」
その妖しく光る赤い瞳に、一瞬、雪子はぞくっとした、が――、
「あ、でも、その前に、髪はちゃんと乾かしたほうがいいですね。体が冷えてしまいます」
「は、はあ」
「服も着たほうがいいですね。僕、いったんベランダに出てますから、その間に適当に何か着てください。これから山のほうに行くので、寒くなさそうな服がいいですね」
と、すぐにいつものノリになって、さっさとベランダのほうに行ってしまう黒川だった。
さらうって何だ。それって、有無を言わさず誘拐することじゃないのか。髪を乾かし、着替える時間はくれるのか。困惑しつつも、雪子はとりあえず、言われたとおりにした。
「あの、黒川さん、いいですよ」
「あ、はい。じゃあ改めて、お邪魔させていただきます」
黒川は雪子が部屋から声をかけると、再びベランダから室内に入ってきた。もう完全にただのご近所さんモードである。さっきの、妖しくも美しい鬼の男はどこへ行ったのか。
「で、これから私をどこに連れて行く気なんですか?」
「ふふ、それはヒミツなのです。着いてからのお楽しみですよ」
「さっき、ちょろっと山のほうだって自分で言ってましたね?」
「え、えーっと」
「ちゃんと説明しなきゃ、ついて行きませんよ」
「いや、それは困る! こっちはこの通り準備万端なんですよ!」
黒川はずっと携えていた風呂敷包みを掲げた。何が入っているのか、包みはパンパンだ。
「それに僕は羅刹で、それなりに悪いほうの妖怪なので、赤城を勝手にどっかに連れて行くぐらいのことはやったっていいじゃないですか!」
「それ、先月もうやったでしょう」
「……ああ、そういえば」
ぽんと手を叩いて、何か納得してしまう黒川だった。
「じゃあ、もう無理してかっこつけて、悪ぶる必要もないですね。いやあ、よかった。本当に連れ去り案件とかやらかしちゃったら、後で恨まれちゃいますもんね」
「かっこつけてるつもりだったんですか」
一応エリート妖怪なりに見栄を張ってみたのだろうか。よくわからんが。
「まあ、それはともかく、早く具体的な説明をしてください。何で、これから私を山のほうに連れて行くつもりなんですか?」
「一つ、赤城さんの厄除けをしようかと」
「厄除け?」
「ほら、赤城さんが前に僕に話してくれたでしょう。ストーカー男につけまわされたことを。あれは結局、僕が霊と成り果てたストーカー君を食べちゃって、解決したことですけど、赤城さんの心の中では、とてもいやな思い出として残っていることなのでしょう? だったら、僕なりになんとかしてあげたいな、と。二度とあんな怖い思いをしないように」
「それが厄除けですか?」
「はい。僕の、妖怪としての力を使って赤城さんに加護を与えて、今後は悪い人間や妖怪が近づけないようにするんです。そうすることで、きっと今よりずっと安心してお仕事ができるはずですよ」
「え、そんなことできるんですか。本当に?」
それは雪子にとっては願ってもない話だった。やはりあんなストーカーにつきまとわれる経験は二度とごめんだった。
「お願いします。ぜひその厄除けとやらをやってください」
「はは。僕からの申し出を喜んで受け入れてくれて光栄です。ただ、その厄除けはここでは無理なのです。一度、僕の実家に帰らないと」
「実家? 黒川さんの、羅刹一族の家ってことですか?」
「いえ、今から行くのは僕の父の実家です。羅刹ではない」
「え――」
雪子はちょっとびっくりした。まさか、この男自らの口から父の話が出るとは。話したがらないことなんじゃなかったのか。
「そもそも羅刹のような邪気まみれの妖怪では、人間に加護を与えることなど、とうてい無理なんですよ。だからまあ、違う妖怪の力を使うわけです」
それだけ言うと、黒川はすばやく動いて、一瞬で雪子の体を懐に抱きかかえてしまった。
「まあ、そういうわけなので、これから僕の実家まで来てください」
「はあ。わかりましたけど、いったいどこにあるんですか?」
「長野県の山奥ですね」
「な、長野県?」
また東京からはずいぶん遠い! 樹海より遠い!
「大丈夫ですよ。僕の足ならすぐ着くはずです」
黒川はにっこり笑うと、そのまま雪子の部屋のベランダから外に飛び出した。




