4 黒川さんと星月夜 その10
いや、本当に「平穏な暮らしを取り戻せた」と、言えるのか? 黒川に出会ってからは、自分はずいぶん奇妙な体験ばかりしている気がする……。
「私、むしろ、お兄さんが普通の人間じゃなくて、鬼の妖怪でよかったです」
ふと、こんなことを口走っている自分がいた。
「助けられたこともそうですけど、普段の人間に化けているお兄さんと違って、鬼の、本当の姿のお兄さんはなんだか頼りになる感じだし、力持ちだし、顔つきだってちょっとはまともになるし、私、彼が人間の姿でいるときより、鬼の姿でいるほうが好き――」
と、そこで、雪子ははっとしてあわてて口をつぐんだ。いきなり自分は何て恥ずかしいことを言っているんだろう。顔が熱くなった。
「本当に、あなたは変わった女性ですね。鬼を怖がるどころか、好きだと言うとは」
白夜はおかしそうに笑った。最後の一言はばっちり聞かれていたようだ。雪子はますます顔が熱くなった。
「びゃ、白夜さんも鬼なんでしょう? 今は人間に化けているんでしょう?」
あわてて話をそらす。
「やっぱり、本当の鬼の姿だと、人間の姿とはだいぶ変わるんですか?」
「……見てみますか?」
「え、いいんですか?」
「かまいませんよ。すでに正体を知られているわけですし」
白夜はナイトキャップを脱いだ。たちまち、その肌の色が変化し、どす黒くなった。髪の長さは短いままだったが、目は赤くなり、額には二本のツノが現れた。薄い唇のはじからは牙も出ている。体つきも、元々巨漢だったのがさらに筋肉が増量したようで、パジャマがパンパンになっている。
「へえ、お兄さんとはまた雰囲気が違うんですね」
雪子はちょっと目を見張った。こちらは兄とは違い、いかにも昔話などに登場しそうな鬼の姿である。トラの毛皮の腰巻とか似合いそうな。
「兄のように線の細い感じではなくて、がっかりしましたか?」
「そんなことないです。白夜さんは白夜さんで、たくましくて、男らしくていいと思いますよ」
「……俺に対しては、何の恥じらいもなく、そのように言うのですね」
「え?」
「いえ、よいのです。ありがとうございます。俺の鬼の姿を受け入れていただいて、ほっとしました」
白夜は再び人間の姿に戻り、ナイトキャップを被った。全然似合ってないが、彼にとっては必要なものらしかった。
「でも、兄弟なのに、肌の色が全然違うんですね。お兄さんは白いのに、白夜さんは色黒で」
「羅刹というのは、本来俺のように肌が黒くなるものなのです。兄さんは純血の鬼ではないので、肌の色も違うのですよ」
「ああ、確か、お兄さんと白夜さんはお父さんが違うって話でしたね。お兄さんのお父さんって鬼じゃないんですか?」
「ええ。人でもありませんが」
「どんな妖怪なんですか?」
「それは俺から話していいものかどうか……。本人に直接聞いてください。まあ、あまり話したがらないことでしょうが」
白夜は隣で寝転がっている黒川をじっと見つめながら言った。彼はやはり、のんきに酔いつぶれているだけの様子だ。
いったい、この男、どんな妖怪が父親なのだろう。色白だから、雪男? 貧乏だから貧乏神? 雪子としては妙に気になるところではあったが、「まあ、それは別にいいです」と、言って詮索を避けた。
「本人が話したがらないことなら、無理に聞くのも悪いですから」
「……はは、それもそうですね」
白夜はふと目を細め、雪子に微笑んだ。いかつい顔立ちにもかかわらず、優しい笑顔だった。雪子もそんな彼に微笑み返した。
「なんだか、話をすればするほど、赤城さんは兄さんにはもったいない女性のように思えます」
「いや、あくまでご近所さん同士のお付き合いですから!」
「そうですね。そういうことにしておきましょう。これからもご近所さんとして、兄さんのことをよろしくお願いします」
「は、はあ」
よろしくされてしまった。いいのかな。
「兄さんのことで何か困ったことがあったら、いつでも俺に相談してください。どんなことでもすぐに駆けつけますから」
「面倒見いいんですね」
「まあ、こんなのでも一応は兄ですから」
白夜はちょっと照れくさそうに鼻の頭を指でさすった。
ああ、そうか、この人、口では相当きついこと言っているけど、内心はすごくお兄さん想いなんだ。だから、兄の家賃を立て替えてあげたりするし、見慣れない人間の女が兄の借金の取立てに来たと思い込むやいなや、即座に自分が払おうとするし、その女がもう一度目の前に現れたときは、妖怪の兄についてどう思っているのか探ろうとしていたんだ。
雪子はようやく彼の本心を垣間見れた気がして、ほっとした。やはり鬼だろうと、怖いことは少しもない。そう、ここにいるのは実にお兄さん想いのやさしい鬼ではないか……。
ん? やさしい鬼って? ふと、雪子は唐突にあることを思い出した。
「あの、白夜さん。鬼って英語でなんて言うか、わかりますか?」
「確か、デーモンとかオーガとかですね」
「オーガ……」
「それが何か?」
「い、いえ、別に!」
やさしい鬼、やさしいオーガ……。「やさしい」は英語で「ジェントル」じゃなかったっけ。つまり「やさしい鬼」を英語で言うと「ジェントルオーガ」? それって、あの通販サイトで不自然に黒川の単行本をベタ褒めしていた人のハンドルネームじゃなかったっけ?
ま、まさか、この目の前にいる男があのレビューを……?
「? 俺の顔に何かついてますか?」
「いえ! 別に全然! なんでもないです!」
雪子はあわてて否定した。そんなことあるわけない。いくら白夜が兄想いだからって、あんな不自然な、関係者のヨイショとまるわかりのレビューを投稿するはずない! ふってわいた考えを必死に頭から振り払った。
ただ、このときの雪子は当然、知らなかった。白夜の書斎の本棚に、兄の漫画が掲載された雑誌、月刊サバトが毎号ずらりと並んでいることを。また、その隣には黒川ミミック先生の単行本が各三冊、保存用、観賞用、布教用とそろっていることを。
そう、ジェントルオーガさんこと、白夜は、兄想いというよりは、ただの重度のブラコンであった。




