4 黒川さんと星月夜 その2
その店は二人の住むアパートから早足で歩いて十分くらいの場所にあった。
中規模の食品スーパーで、着いたのはちょうど六時だったが、すでにタイムセール目当ての買い物客で人だかりが出来ていた。みな、卵のコーナーに向かって列を作って並んでいるようだ。黒川と雪子もすぐにそこに並んだ。
「へえ、本当に六十八円なんですね」
列から首を伸ばして、前の卵のコーナーのほうを確認すると、確かに卵一パック六十八円と大きなポップが出ている。もちろん、お一人様一パック限定……いや、この店の場合は、一家族一パック限定とある。
「あ、これはちょっとまずいですね」
黒川はそこではっとしたようだった。
「激安卵が買えるのは一家族につき、一つまでです。僕たち、ついうっかり一緒にお店に入って一緒に並んでしまいましたが、これだとまるで夫婦か同棲カップルか何かと誤解されて、二人で一つしか売ってもらえないかもしれません」
「ああ、言われてみれば……」
行列の前のほう、卵の売り場を見ると、店員が並んでいる客相手に一つ一つ卵のパックを手渡している。一家族一パック縛りの鉄のルールも当然遵守されているような雰囲気である。
「今から他人のふりをしても、すでにあの店員に僕たちが会話しているところを見られていては台無しです。なので、僕はいったんここを離れ、最後尾に並びなおすことにします。戦略的撤退です」
「は、はあ」
今から後ろに並びなおして大丈夫かなあと思ったが、とりあえず、去っていく黒川を見送った。
やがてしばらくして、雪子は無事に卵のコーナーにたどり着き、店員から激安卵を受け取ることが出来た。その時点で、激安卵は残り二十パックくらいしか残ってなさそうだった。
黒川は果たして無事に買えるのか……。卵を受け取った後も、少しはなれた場所から卵コーナーをうかがってみた。すると、ほどなくして――、
「はーい、卵のタイムセール終了でーす!」
と、店員が声高に叫ぶ前で、絶望し頭を抱えている黒川の姿を確認することができた。よりによって、ちょうど彼のすぐ前で激安卵の在庫が尽きてしまったのだった。
「残念でしたね、卵、なくなっちゃって……」
「……くっ!」
雪子がなぐさめの言葉をかけると、心底くやしそうな顔でにらんでくる男であった。その目は、すでにすっかり涙目だ……って、まさか卵が買えないくらいで泣くとは。
「そ、そんなに卵のタイムセール楽しみだったんですか?」
「ええ、もちろん! 楽しみでしたよ! 三日前にウェブのチラシで確認したときからワクワクが止まりませんでしたよ!」
「いや、遠足じゃないんだから」
三日も前から狙っていたとは。どんだけスーパーのタイムセールに本気なの、この人。主婦なの。
「やっぱり、途中で列を離れたのが痛かったですね。あのまま他人のふりをして並んでいれば……」
「い、いいんですよ、もう! 今さら何を言っても卵を六十八円で買う権利が僕に舞い降りてくるわけじゃないですし! 僕が買えなかったおかげで、違う誰かが卵を買えた。そんな事実に僕はささかやな幸せを感じていたい――って、そんなことできるわけないじゃないですかっ!」
なんかまた自分の言葉に勝手にキレはじめる男である。
「うう……。他の人がどれだけ幸せだろうと、僕は幸せじゃないんですよ。そんな世界、滅べばいいのに……」
どさくさに世界の滅亡まで願い始めている。卵ごときでどんだけ落ち込んでるんだ、この三十二歳児の男は。しょうがないなあ、もう。
「ほら、私のぶんあげますから、いちいち泣かないでください」
雪子は自分の買い物かごから卵を取り出し、黒川の持つそれに移した。
「え、いいんですか、赤城さん? これはただの卵じゃない、一パック六十八円の超お買い得卵なんですよ!」
「いや、ただの卵でしょう」
雪子は笑った。
「気にしないでください。そもそもこのタイムセールのことは、黒川さんが私に教えてくれたことでしょう。だから、私のぶんは黒川さんが買っても別にいいんですよ。私はモヤシと鶏肉を買いますから」
「あ、赤城さん……」
深い絶望で打ちひしがれていた黒川の顔がとたんに明るくなった。涙で潤んだ目をキラキラさせて、感謝の熱いまなざしを向けてくる。
「ありがとうございます、赤城さん。あなたは相変わらずやさしい人ですね!」
「いや、そんな。おおげさですよ」
雪子はまたしても笑ってしまった。この男、さっきから卵ぐらいで、情緒ゆさぶられすぎである。
「ただ、お気持ちはすごくうれしいのですが、僕がこれをそのままいただくと、赤城さんから幸せをまるごと奪ってしまう形になるので、心苦しいです。なので、僕と赤城さんでこれを半分ずつ買うことにしませんか?」
「半分ずつ? 十個入りだから、それぞれ五個ずつ買うってことですか?」
「はい。お金も半分ずつで」
「いいですね。ちょっと貧乏くさいですけど」
六十八円の半額って。もうこれどっちかの驕りでいいような気さえする。




