1 お隣の黒川さん その3
「うん、もう一通り片付けは終わったわ」
「どう、新居の様子は? うまくやっていけそう?」
「そうね。部屋も周りの環境もそう悪くは無いみたい」
「本当? ご近所さんに変な人とかいない?」
「そ、それは……どうかしら? まだよくわかんない」
一瞬、隣に住む黒川とかいう男のことが頭に浮かび、微妙に不安になってくる雪子だった。あれはどう見ても変人の類だが、有害なのか無害なのか、まだなんともわからない。
「綾香のほうはどう? 私が急に抜けて大変じゃない?」
「まーねー。もうすぐお盆休みだし、お店は今が一番しんどいかも」
「ごめんね。後で何かお詫びするから」
「あ、いいのよ、気にしないで。事情が事情だしね。あのまま店に残ってたら、あんたが危ないもんね。いまどき、警察はアテにできないし」
「そうね……」
店で働いてきたときのことを思い出すと、寒気がした。もうあんな思いはごめんだ。
「ただ、あの人、ここんとこ店に顔出してないんだよね。前は週三ぐらいで来てたのにさ」
「私がやめたからかな?」
「それもあるんだろうけど、前、あいつが席でスマホで話してる内容、聞こえたんだよね。今度ツーリングに行くとかなんとか」
「ツーリング? じゃあ、あの人、今はバイクで旅行中ってこと?」
「そうそう。だからあんたも、今は店に来ても大丈夫よ?」
綾香の声音には、仕事を手伝ってと言いたげな雰囲気がにじんでいた。
だが、
「ご、ごめん。やっぱ今は無理。引越しのゴタゴタでまだやることいっぱいあるし……」
雪子の恐怖と不安を拭い去ることは出来なかった。旅行とやらが確かな話かどうかもわからないし。
「まあ、そうよね。ごめんね、無茶言って」
「いいの。私の問題だし、綾香は何も気にしないで」
その後、いくらかとりとめのない雑談をしたあと、綾香との電話を終えた。
結局、雪子はその日はそのまま就寝した。
彼女の胸のうちに、引越ししたばかりの新生活への期待など微塵もなかった。一刻も早く仕事を見つけなければならない。けれど、今の自分にそれが可能なのかどうか……。不安でなかなか寝付けなかった。
そして、そのせいかどうか、その晩の夢見はとても悪かった。
暗い闇の中で、彼女はひたすらあの男に追いかけられていた。彼女は必死だった。恐怖で胸が張り裂けそうだった。がむしゃらに走り、後ろから追いかけてくる男の手から逃れた。
やがてその男に追いつかれ、後ろから羽交い絞めにされたところで彼女は夢から覚めた。全身汗だくで、呼吸は荒かった。
なんて怖い夢を見てしまったんだろう……。夢でよかった、と、安心する彼女だった。
ベッドの隣に置いた時計を見ると、まだ午前四時だった。ずいぶん早起きしてしまった。外はまだ暗いが、もう眠れそうになかったので、その日はそのままベッドから出た。
そして、照明をつけたところで、彼女は室内の異変に気づいた。フローリングの床のいたるところに、誰かが土足で歩き回ったような足跡がついていたのだ。大きさからして、男性のもののようだった。
「なにこれ……?」
彼女はぞっとした。寝ている間に誰かが部屋に入って来たのだろうか。あわてて玄関と窓の鍵を確認したが、いずれもきちんと施錠されていた。そこから誰かが入った形跡はなさそうだ。それなのに……。
「も、もしかして、これがわけあり物件の正体?」
やばい。あの不動産会社のホストのような営業の言ってることは本当だった! どう見てもオカルト現象である。家賃が破格の安さなわけだ。なんて不気味な部屋なんだろう。
「どうしよう……。もう引越しなんてできないし……」
午前四時に途方に暮れる雪子であった。まさか生きてる人間から逃げた先は悪霊?の住まう部屋だったとは。このまま我慢してここに住み続けるしかないのだろうか……。
と、そのとき、唐突に隣の部屋からドンガラガッシャーンッ!と、何かが総崩れしたような音と振動が響いてきた。
「あっちって確か、黒川さんとかいう人の部屋だっけ?」
こんな時間に何事だろう。気になり、そちら側の壁に耳を当て、様子をうかがった。
すると、直後、また同じようなドンガラ音が響いてきて、ついでに黒川の「うわあっ!」という間抜けな悲鳴も聞こえてきた。
「まさか、あっちでも何か怪奇現象が?」
さすがに様子がおかしい。気になる。
少しばかりためらいはあったが、やがて雪子は思い切ってそのまま、パジャマのまま玄関から出て、隣の黒川という男の部屋のチャイムを鳴らしてみた。怪奇現象が自分の部屋以外にも起きているかどうか確かめたかった。もしそうなら、なんとなく安心できるからだ。そう、なんとなく。
こんな時間にもかかわらず、黒川はすぐに中から出てきた。ゴミ捨て場で見たときと同じジャージ姿だった。
「あの、今何かそちらからすごい音が――」
「あー、はい。お騒がせしてすみません。さすがにうるさかったですね」
と、黒川は雪子の言葉が終わらないうちに彼女に頭を下げた。その下げた頭ごしに彼の部屋の様子が見えた。壁際に置かれていたらしい棚が二つ、倒れて、中身がめちゃくちゃに床に散らばっているようだ。
「もしかして、さっきのって、あそこの棚が倒れた音ですか?」
「ええ。ちょっと探し物をしていたら、はずみで、つい……」
「そうですか」
なんだ、怪奇現象ではなかったようだ。雪子はがっかりしたようなほっとしたような複雑な気持ちになった。
ただ、部屋で一人でいるよりはずいぶん気持ちが楽になったのは確かだった。