2 黒川さんは売れてない その4
その後、二人はすぐにアパートを出発して菱田出版に向かった。折りたたみ式の台車と紐を紙袋に入れて携えて。
時刻はすでに午後六時半になっており、八月の終わりのまだ暑い季節とはいえ、日は落ちかけていた。ただそれでも、日光が苦手だという黒川は、日傘をさして雪子とともに並んで歩いた。
日傘男子というとなんだか最先端のオシャレ民族のようだが、日傘に貧乏臭いジャージ姿なのでオシャレもクソもなかった。単に日光に当たりたくないモヤシ系男子であった。まあ、正確には闇属性の妖怪なのだが。
「でも、こんな夕方に会社に行って大丈夫なんですか? 明日の昼間のほうがいいんじゃ?」
駅まで歩きながら、雪子はふと黒川に尋ねた。
「ああ、そのへんは大丈夫ですよ。僕の担当の編集さんはだいたい毎日、正午すぎに出社して、日付けが変わる前後くらいに退社するのが勤務スケジュールらしいですから。むしろ、夕方の今のこの時間が、勤務時間のゴールデンタイムでしょう」
「なるほど……」
大手出版社の社員の勤務時間って。やはり普通じゃない業界なのか。
二人はそのまま、電車を乗り継ぎ、都心からやや離れた場所にある菱田出版の本社に向かった。
雪子は、途中、電車の中で黒川が持っていた「月刊サバト」を読んでみたが、普通の少年漫画雑誌のようだった。少なくともマニア系ではない。ただ、「ひょっとこリーマン」は巻末に四ページしか掲載されてなかった。月刊誌でたったの四ページて。刺身のパックに入っているツマみたいな存在の漫画ようだった。
やがて、電車は目的の駅に着いた。着いたころにはすでに日は落ちていて、黒川は日傘を折りたたんで紙袋におさめていた。
「……い、いよいよですね」
黒川は会社のすぐ前まで来ると、いったん足を止めて、社屋を見上げた。そして、急に近くの植え込みに腰を落としてしまった。
「黒川さん、早く中に入りましょうよ」
「……いや、まだ心の準備が」
見ると、その痩せぎすの体は小刻みに震えており、顔は真っ青で、目も落ち着きなく泳いでいる。どうやら、完全に怖気づいている様子だ。
ここまで来ておいて、いまさらそれは無いだろう。
「ほら、行きますよ!」
と、雪子はその肘をつかんで、強引に立たせた。彼女にしてみれば、黒川の心情などどうでもよく、ただ早く用事をすませて帰りたいだけだった。
と、そのとき、出版社の正面出口から一人の男が出てきた。社員ではなさそうで、ラフなポロシャツとジーパン姿の地味な感じの若者だった。その表情はひどく暗く、姿勢もネガティブ全開の猫背だ。
男は、雪子たちの存在にはまったく気づいてなさそうで、会社を出て数歩歩いたところで重くため息をついて立ち止まり、ポケットからスマホを取り出して、誰かと電話し話し始めた。
「……うん。やっぱ無理だった。ボツくらっちゃったよ」
どうやら、彼は菱田出版に何かの原稿か企画を持ち込んで、出版を断られた帰りのようだった。なるほど、それであんな暗い表情を……。
と、そこで、
「はっはっは。ボツを食らって、あんなに落ち込んでいるとは。なんてかわいそうな人なんでしょうね!」
雪子と同様に男の事情を察したらしい黒川が、急に口を開いた。その口調は実に楽しげで、顔つきも、さっきまでとはうってかわって、生き生きとしている。目なんかもう、すっごいキラキラ輝いている。
「なんですか、その顔? 人の不幸がそんなに楽しいんですか?」
さすがに軽蔑せずには入られない雪子だったが、
「いやあ、あの人の人生の幸福とか不幸とかはどうでもいいですよ。そんなもん、考え方や気の持ちようでどうにでも変わるものですからね。それよりも、今、あの人が放っている、とてつもない暗鬱な空気。マイナスパワーの感情。それが実にすばらしい! 僕、ああいうの大好物なんですよ!」
なんか、ますます悪趣味なことを口走っている暗黒妖怪である。しかも、とてもうれしそうに。
「赤城さん、この場合、僕がそれを食べちゃっても別に問題ないですよね?」
「え? この場合って?」
どの場合? つか、食べるって何?
「いいですよね。どうせすぐに他の感情で上書きされて消えちゃうものでしょうし」
黒川は舌なめずりをしながら言うと、直後、何やらその場で大きく息を吸い込んだ。いや、吸い込んでいるのは空気じゃなくて、なにかこう、くらーい感じのもやっとしたものだった。そう、近くの男の体から放出されているそれを吸い込んでいるのである。
やがて、
「……あ、あれ? なんだか気持ちがすごく軽くなったような?」
落ち込んでいたはずの男の表情が一変し、とても明るいものになった。
そして、
「まあ、よく考えたら菱田出版なんて、最近ろくにヒット飛ばしてないオワコン企業だしな! 断られてむしろよかったよ。他にも出版社はいくらでもあるしな、ハハハ!」
いきなり超ポジティブになってそう言い放つと、彼は電話を終えて、軽い足取りで去っていった。
「……へえ、黒川さんは人の絶望の感情を食べることも出来るんですね」
雪子は感心した。もしかして、この生き物、すごく人の役に立つ存在なのでは? ちょっぴり見直してしまう。
「いやあ、僕はただ、目の前においしそうなものがあったから、食べただけですよ?」
黒川は男の絶望を食べたことで、すっかり元気を取り戻したようだった。さっきまでの不安はもうどこにもなさそうだった。マイナスにマイナスをかけるとプラスになるみたいな現象だろうか?
「じゃあ、黒川さん、私たちもそろそろ中に入りましょう」
「そうですね」
今度は彼は素直に雪子の言うことを聞いた。二人はそのまま菱田出版の正面玄関から中に入った。




