2 黒川さんは売れてない その3
「で、まあ、一応、気が進まないながらも、たいして期待していないながらも、それぞれに電話して頼んでみたわけなんです。兄さんの普段のお仕事ぶりを見せてあげるから、ちょっと一緒に来なさい、みたいなこと言って」
「オブラートに包みすぎですね」
そもそも、実の弟に打ち切り宣告される現場見せ付けてどうするんだ、この兄は。
「それで、その二人に断られたから、最終的に私に頼んでるってわけですか?」
「ええ、まあ。下の弟には『めんどい』とだけ言われて断られました。まだ小学生だから、出版社への社会科見学はちょっと早かったかなっていう? そして、上の弟のほうには、一瞬で僕の事情を看破された上に『三十二にもなって、取引先と契約を切られるのを怖がってどうする。兄さん一人で行けよ』と、鼻で笑われ、断られました。二人ともひどい言いようだ」
「いや、それは上の弟さんの言い分が全面的に正しいですよね?」
というか、この男、外見は年齢不肖なところがあるが、三十二歳なのか。いい歳して、なんでこんなにチキンハートなのだろうか。
「黒川さん。やっぱり、こういうのは勇気を出して一人で行くべきですよ。部外者である私が一緒に行ってどうこうできるわけでもないし」
雪子はきっぱりと言いきると、うずくまっている黒川をそこに残して、再び自分の部屋に向かった。
しかし――またしても彼女の前に回りこんでくる男であった。
「お、お待ちください! 僕をこのまま一人で菱田出版に行かせると大変なことになりますよ!」
なんか妙ちきりんなこと口走り始めるし。
「大変なことになるのは、黒川さんの今後の進退だけでしょう」
「いえ、そうでもないのです。実はココだけの話、僕はとても気持ちが落ち込むと、体に溜め込んでいる邪気を残らず周囲に放出してしまう性質があるらしいのです」
「え」
なにその嫌過ぎる機能。
「邪気を放出すると、近くにいる人はどうなるんですか?」
「もれなくとても不幸せな気持ちになります」
「……菱田出版でそれをやると?」
「菱田出版の社員全員のメンタルに大ダメージです」
「な、なんですか、それ!」
迷惑すぎる!
「大手出版社なんて半分ブラック企業みたいなもんですから、日ごろの激務でストレスマックスなところに、僕が撒き散らした邪気による鬱パワーが加わると、そりゃあもう、みなさんえらいことになるんじゃないでしょうか? もしかすると、自殺者続出かも……」
「何言ってるんですか! たかが連載打ち切られたぐらいで出版社の社員全員を道連れにするとか、いくらなんでもひどすぎますよ! 鬼ですか!」
「はい」
ああ、うん。そういえば、そうだった……。
「ただ、僕としても、そういう事態になることだけは避けたいのです。だからこそ、赤城さんに同行を頼んでいるのです。僕が編集部で編集さんと話をして落ち込み始めたら、すかさず僕をそこから運び出して、どこか人気の無い場所に僕を捨てて欲しいのです。それで、菱田出版の社員の安全は守られるはずです」
「いや、運び出してって言われても。私、そんなに力持ちじゃないですよ?」
「台車と紐を用意しますので、それでなんとか」
「はあ……」
その場合、紐は首に巻きつけていいのかな?
「というか、邪気を放出中の黒川さんを運び出す間、私に何か悪影響は――」
「あるかもしれませんが、何か楽しいこと、幸せなことを考えて、気持ちをハッピーにしていればたぶん大丈夫だと思います」
「ようは気合で乗り切れってことですか」
やだなあ。何この人。たった五円でどんだけ人にリスク押し付けるの。
「お願いします! 人助けと思って僕と一緒に菱田出版に行ってください!」
「しょ、しょうがないですね……」
この男のことはともかく、出版社の社員のことはさすがに心配だ。雪子はしぶしぶ黒川の頼みを聞くことにした。