2 黒川さんは売れてない その1
さて、黒川の捕食によりストーカー男の悪霊は消え、雪子は平穏な生活を取り戻した――というわけではなかった。なんと、悪霊は消えても、翌晩から別の霊が次から次に沸いてくるのだった。さすが家賃二万の格安オカルト物件である。
ただ、いずれもストーカー男の霊に比べると、穏やかで無害そのものだった。おそらくはどこか行き場を求めてさまよっている霊たちで、雪子の部屋はただの通り道にすぎない様子だった。そもそも本当にタチの悪い霊なら、隣に住む男が食いにくるはずだし。
そんなわけで、雪子はとりあえずそれらを気にしないことにした。格安家賃の代償なのだから仕方の無いことだし。
何より、一度本気の悪霊に怖い思いをさせられて、オカルト的なものに対して耐性ができていた。次第に、悪霊でないなら、悪さをしないなら、霊はむしろいてもいいんじゃないかなという気持ちにすらなってきていた。
それはもちろん、ストーカー男が死んだこと、その悪霊が完全消失したことによる精神的余裕も大きかった。
さらに、そのことによって、彼女は無事元の職場に復帰でき、先の生活についてあれこれ不安を抱くことはなくなったのだ。これはもう、安心するしかない、どんと構えるしかない。部屋に時々沸いて出てくる無害な浮遊霊なんて、気にしてもしょうがないというものだ。
ただ、悪霊の引き起こしたポルターガイスト現象による被害は相当痛かったわけだが。壊れた家電製品を新しく買いなおすのにかなり出費がかかるわけだが――。
「……どこかに壊れた家電を修理してくれる妖怪はいないかしら?」
お盆すぎの夕暮れ、とぼとぼと職場のレストランからアパートに戻りながら、雪子はぼんやり考えずにはいられなかった。悪霊を食べる妖怪がいるのだ。そういう都合のいい、人にやさしい妖怪がいてもいいじゃあないか。働けど働けど、まだまだ絶賛金欠中である。
やがて彼女はアパートにつき、重い足取りで階段をのぼって二階の自分の部屋に向かった。
と、その途中、何かが足元に転がっていた。見ると、ジャージ姿のやせぎすの男、黒川だった。今はもちろん人間に化けた姿で、膝を抱えて座り込んでいる様子だ。
「はー、困ったなあ。どうしたらいいかなあ……」
黒川は雪子が近くに来たとたん、こうつぶやいた。独り言のようではあるが、妙にわざとらしい。その胸と膝の間には分厚い漫画雑誌と白い紙切れがはさまれている。
「うーん、どうしたもんかな、これは……」
黒川はいかにもこれ見よがしに重くため息をついた。まるで雪子に話しかけられるのを待っている様子だったが、彼女はそれを無視し、部屋に向かった。なんか関わるとめんどくさそうだし。
だが、彼女が黒川を追い抜いた直後、彼は座り込んだ体勢のまま足を高速で動かし、彼女の前に回りこんできた。まるでカニのように。
「な、なんですか、黒川さん、急に?」
「おや、赤城さん、奇遇ですね、こんなところで出会うとは」
「いや、奇遇も何も」
どう見ても待ち伏せされていたのだが?
「なんかさっきから、いかにも話しかけて欲しいオーラ出してましたよね? 何か私に用なんですか?」
「いやあ、特別赤城さんに何か用事があるわけではないのですよ。ただ、今、ちょっと困ったことがあったので――」
「ちょっと、ですか。それぐらいなら私の助けは必要ないですね。じゃあ」
「いえ! もうちょっと! もうちょびっとは困ってるんですよ! 赤城さんに頼みたいことがあるくらいに!」
黒川はやけにしつこく絡んできた。ならとっとと用件を言ってほしい。最初に会ったときもそうだったが、めんどくさい男だ。
「いったい何なんですか、その困りごとって?」
「……実は原稿が思うように捗らなくて、ですね」
と、そこで黒川は胸と膝の間に挟んでいた漫画雑誌と一枚の紙を雪子の足元に差し出した。見ると、紙は描きかけの漫画の原稿のようだった。下書きの鉛筆の線が残った状態で、ほぼほぼペン入れが終わった「ひょっとこリーマン」の一ページのようだ。そして、その下に敷かれている漫画雑誌は「月刊サバト」のようだ。
「そこで、赤城さんに少しお手伝いをして欲しいわけなのです」
「手伝い? いったい何を?」
「コレを使って、今ここで下書きの線を消してください。さあ」
そう言って、黒川はジャージのポケットから消しゴムを取り出し、雪子に手渡してきた。
よくわからんが、この場でこの原稿の下書きの線を消せば、この男は満足するらしい。とりあえず、反射的に、特に何も考えず、その消しゴムで目の前の原稿の下書きの線を消した。まあ、ちょっと手を動かすだけのことだし。
「はい、消しましたよ」
「おお、どうもありがとうございます。お礼です」
と、黒川は今度はジャージのポケットから五円玉を出して、雪子に差し出してきた。
これは何だろう。五円とご縁をかけた、何かの儀式だろうか? また反射的にそれを受け取ってしまう雪子であった。まあ、拒否するとまたリアクションがめんどくさそうだし。
「じゃあ、私はこれで」
雪子は五円玉をスカートのポケットに放り込むと、そそくさと黒川の前から立ち去った。
だが、そこで、彼は再びカニのような動きで彼女の前に回りこんできた。