記憶 或いは情熱
「ええと、事情がよく分からないのだけれど……とりあえず、座ってもらえる?」
沈黙を打ち破るようにして声をかけたのは、早見である。
流石と言うかなんというか、絞り出した声のはずなのに、無理矢理な感じを出さない口調だった。
今までも、こうやって周囲の空気をいなしてきたのだろう。
困惑していながら、どことなく慣れた感じすらする。
「ああ、すまない。突然押しかけて……」
手刀を出してから、入ってきた男子生徒は椅子を探して顔を左右に振った。
それを見て、俺はとりあえず隣の椅子──この部屋にある椅子は四脚だが、部員が三人なので、一つ余っているのだ──を引く。
幸い意図を察したらしく、彼はそこにするり、と体を滑らせた。
これにより、俺は改めて、まじまじと彼の姿を見つめることとなった。
──何だか、緊張しているな。
初見で、ふとそんなことを思う。
彼が隣に座って初めて分かったのだが、彼の肩はガチガチに固まっていた。
何故彼がここに来たのか、今一つ分かっていないのだが、どうやら彼としては一大決心だったらしい。
視線も落ち付かない様子で揺れ動き、早見と霧生の間をうろうろとする。
やがて、その視線は逃げ場を探すようにして、隣の俺の方に向いた。
──ん?
その瞬間、彼の目の様子が、少し変わったことに、俺は気が付く。
端的に言えば、何かに驚いたかのように目を瞬かせたのだ。
そしてその勢いのまま、彼は口を開く。
「あ……お前、相川か?」
「……え?」
「ほら、俺だよ。日向だ」
突然話しかけられ、俺は面食らった。
同時に、もしかしたら知り合いか、と思い、頭の中を検索する。
──まさか、同じクラスか?いや、さすがにそれだったら分かるよな。じゃあ、同じ中学校とか……。
こういう風に、「相手は知り合いだと思って話しかけてきているのに、自分は相手のことが思い出せない状況」で焦ってしまうのは、万国共通の真理だろう。
この時の俺も、内心盛大に焦りながら、必死に彼の────日向という人物のことを思い出そうとした。
しかし、瞬時に振り返ってみたが、思い当たる知り合いは居なかった。
そもそも、散々言っていることだが、俺は昔から友人知人の類が少ない。
さすがに、その少ない知り合いたちを忘れている、というのは考えにくかった。
────結局、恥を忍んで、率直に尋ねてみる。
「……君の顔を知らないんだが、俺たち、知り合いなのか?」
小説などでよく出てくる、記憶喪失の主人公のようなことを言ってみると、今度は日向という生徒の方が焦ったような顔をした。
そして今度は、弁明するような口調で声をかけられる。
「あー、すまん。さすがに覚えてないか?ほら、小学生の時、同級生だった日向だよ。まあ、一緒だったのは一年生の時だけだったから、思い出せなくても無理はないが……」
「小学生……三峰小学校の?」
反射的に、俺が通っていた小学校の名前を出す。
すると、我が意を得たり、とばかりに日向は大きく頷いた。
「そうだ、そこそこ。まあ、俺は二年生に上がるタイミングで引っ越しをしたが」
──滅茶苦茶浅い繋がりだな……。
確かに、これは覚えていなくてもしょうがない。
多分、一目見て彼のことがわからなかった俺は、大して悪くないだろう。
というか、それが正しいなら、相手の記憶力が良すぎる。
だが皮肉なことに、そこまで言われた瞬間、俺の頭の中に思い浮かぶ光景があった。
────小学校での、「帰りの会」の光景だ。
いい加減、一年生もそろそろ終わるという、春の頃。
担任教師が、確か、「ナントカみのる」、という生徒が引っ越すことを告げたのだ。
それを受けて、自分を含む生徒たちが、悲鳴のような驚愕の声をあげたような……。
それを起点として、芋づる式に記憶が蘇ってくる。
そうだ。
確かに、日向、という生徒がいた。
対して仲良くもなく、おそらくこの引っ越しというイベントが無ければ忘れていたような存在だが、言われてみれば。
あの帰りの会で黒板の前に立っていた少年は、目の前の彼のような顔をしていた気もする。
記憶によれば、当時の呼び名は────。
「あー……実君、か」
「思い出してくれたか!?」
心底嬉しそうに、日向実が顔をくしゃくしゃにして笑う。
さっきから思っていたのだが、嫌に感情表現が大げさな人物だ。
もしかすると、彼の緊張の反動でそう見えるだけかもしれないが。
「……確か、県内だけど別の校区に引っ越すとか何とかで、転校していってなかったか?」
「ああ、それだ。当時、俺の父親が家を買ったからな。それで引っ越すことになったし、中学校もそちらにしたんだ」
言われてみて、なるほど、と一人で俺は頷く。
小学校の途中で転校していった同級生と高校で再会することになったのには、この辺りの事情があったらしい。
中学校の校区はともかく、高校なら同じ県内であるため、受験ができる。
「いや、しかし懐かしいな!まさか葉君ともう一度で会えるとは……」
嬉しそうに、日向は昔の呼び名──なのだろう、多分。そこまで思い出せていない──で呼びかけてくる。
さらに思い出話でもしたそうに、彼は身を乗り出したが、そこにコホン、という咳払いの音が響いた。
「旧交を温めているところ悪いのだけれど、少し、事情を説明してくれるかしら?」
まるで痛んだ頭を抱えるように、少し苦み走った表情で早見が声をかけてくる。
「まず、その双子が云々、というのも気になるけれど……そもそも、この研究会のこと、どこで知ったの?そして、何故相談事を持ち込める、と思ったの?」
ずっと気になっていたらしく、矢継ぎ早に早見は問いを重ねる。
そう言われて、俺はああそうだった、と最初の疑問を思い出した。
日常探偵研究会、などと銘打っているが、この部活は別にお悩み相談などしていない。
今まで「日常の謎」を解く機会があったのも、基本的には偶然によるものだ。
事実、今までは部員の三人、及びその関係者以外で、謎を解いてください、と霧生に頼んだ人物はいない。
だというのに、部室に入った時の第一声からすると、日向は何故か、ここに依頼を持ち込んできたらしい。
しかも、俺たちとは面識がないというのに(強いて言えば俺とは知り合いだったが、それも今思い出したようだった)。
それ自体、奇妙な話だった。
不思議に思って、俺は日向の顔に視線をやる。
同時に、部屋の奥の方で霧生もまた、無言で視線をよこしたのが分かった。
「……私たち、基本的には読書サークルのようなもので、そんな、依頼の解決のようなことはしていないのだけれど」
「え、そうなのか?俺は、日常の不思議なことを解決してくれる、凄腕の探偵がいる、と聞いたぞ?まあ、俺も妹からの又聞きだが」
きょとんとした表情で、日向が逆に聞き返す。
すると、早見はさらに頭痛が酷くなったような顔をした。
「……一応聞いておきたいのだけれど、貴方の妹さんって、どこの学校に通っているの?」
「ああ、それは……」
問われた日向は、あっさりと近隣にある、私立中学校の名前を告げた。
所謂、お嬢様学校と呼ばれるような学校である。
それを聞いた早見は、いよいよ本格的に頭を抱えた。
そして、吐き捨てるように「百の通っている学校だわ……」と告げた。
──つまり、情報源は早見妹か……。
なるほど、と俺は得心する。
考えてみれば、妥当な話ではあった。
今までの「日常の謎」に関わり、霧生の推理力について知っているのは、ここにいる三人と、早見妹だけである。
そして、日向が依頼を持ち込んだことについて、ここにいる三人が全員驚いた以上、下手人は彼女しかいないのだ。
「……そう言えば、彼女には推理の内容については他者に漏らさないように言って置いたけど、僕の存在について一切語るな、とまでは言わなかったな」
今気づいた、とでも言うように、霧生が声を漏らす。
そう言えばそうだったな、と俺も早見妹が関わった二つの事件について思い返していた。
掛川先輩宅の猫の件では、真相がバレてはならないから、と口止めをした。
「ボボさん」でも、もう少し軽い口調だったが、真相を言って回ることのないように、と言っていた。
だが、霧生が推理に長けていることを隠せ、とまでは、確かに言っていない。
──しかも早見妹は、電話越しにしか霧生と話していないからな……。
つまり、俺が見たような、霧生が推理を嫌がる様も、推理の後、過剰に恥ずかしがっている光景も、見てはいないのだ。
もしかすると、逆に推理を好んでいるようにすら思っているのかもしれない。
それで、友達との会話の中で、姉の同級生に凄い人がいるらしい、くらいのことを言ったのだろう。
早見妹は、二つの推理が終わった後、霧生の推理力に感服しているようでもあった。
言いたくなったとしても不思議ではない。
そこで、彼女は二つの真相については省いたままで、何かしら自慢でもした。
その話したメンバーの中に、日向の妹がいた、ということだ。
そこまで確認して、早見は改めて日向に話題を振った。
「……それで、貴方は何か困ったことがあって、丁度いい、と思ってここに来たのね?」
「ああ、そうだ。何しろこちらも、もう考えても考えても分からなくてな」
しっかりとした調子で、日向は返答する。
そして突如、懇願するような顔になった。
「どうも行き違いがあったらしいが……君たちが、こういったことを解決するのが得意、というのは本当なのだろう?そこは間違いない、と聞いた」
「ああ、それはまあ、そうかもしれないが……」
熱気に押され、つい肯定したのがまずかった。
一気に、日向が俺に向かって頼み込んできたのだ。
「頼む!昔のよしみだ。俺の初恋の人を見つけてくれ……!」
────彼の熱を躱すようにして、俺は霧生の方を見る。
気が付けば、早見もそちらに顔を向けていた。
だが、霧生はただ、無表情で首を横に振るだけだった。




