春 或いは五月(Case 4 終)
その後、平日であったため、俺たちは当然授業を受けた。
鞄の中から制服を取り出し、少なくとも表面上は、普段通りに。
尤も、殆ど身は入らなかったが。
授業を聞き流しながら、ふと早見のことを思い返して。
それが消えたら、何となく目の前のことに集中し。
またそれが終われば、この一連の騒動に思いをはせる。
こんな流れを、幾度か繰り返しているうちに、放課後はやってきた。
「やあ、早いね」
いつも通りに部室の扉を開けると、霧生の声が降りかかった。
顔を上げれば、普段と変わりのない姿で、本を読む霧生の姿がある。
「……相変わらず、そっちも早いな」
「ん、まあ、僕しか鍵をもっていないからね」
そう言って、彼女はひらひらと手を振る。
部室の開閉が自分しかできないから、必然的に誰よりも早く来るようにしている、という意味らしい。
まあ、仮にそうでなくとも、彼女はこんな風だった気もするが。
そんなことを考えながら、鞄を置いて椅子を引く。
すると、霧生の足元にある物が置かれていることに気が付いた。
「……それは」
「ああ、片付けるの、少し後にしようと思ってね」
言い訳のように告げながら、霧生はコツン、とそれを────昨日運んできた段ボール箱を、軽く叩く。
その箱は、昨日最後に見た時のまま、上面が開かれた状態で放置されていた。
ただ、そのことはあまり重要ではない。
その箱を、霧生が予定通り片付けもせずに放置している、ということの方が、重要だった。
──やっぱり、全部気が付いていたのか?霧生は……。
ふと、そんなことを考える。
まあ、いつもの勘だ。
考えてみれば、霧生の今回の行動は、かなりおかしかった。
例えば、最初は紙片を渡すように言っていたにも関わらず、早見が現れた途端、態度を翻したこと。
また、普段は推理すること自体を嫌がる割に、今回はそれなりに積極的に、あだ名たちを推理したこと。
そして、早見の言葉に乗せられるまま、下書きの紙片を渡したこと。
振り返れば、推理自体も、異常に駆け足だったように思う。
これは、どう見たって、奇妙な行動だ。
だが、こう仮定すれば、謎は解ける。
霧生は、全てを気が付いていた上で、敢えて早見の案に乗っていたのだ、と。
昨日の霧生の言葉には、まるで早見を試すような、或いはその考えを推し量るような言葉が多かった印象がある。
あの中で、霧生は真相に気が付いたのだろうか。
いや、確か俺を交えて推理を始める前に、霧生は早見にこれまでの事情を説明していた。
大方、その時の早見の反応で、察したのだろう。
だが、霧生はその場では、真相に言及しなかった。
理由は勿論、俺がいたからだ。
第三者である俺に、紙片の真の書き手であることを知られるのは、さすがに早見も避けたいだろう、と霧生は推測したのかもしれない。
かといって、適当な理由で早見に返却すれば、一部始終を聞く羽目になっている俺に疑問に思われる。
だから、意図的に間違った推理をした。
幸い、書き手だと断定された雪野咲良は、俺とは面識がない。
つまり、俺がこれから雪野咲良に対して何かを言ってしまって、実は彼女が書き手でないことに気が付いてしまう────などという事態は、まず考えられない。
要は、間違った推理であっても、特に不利益は無いのだ。
とりあえず、傍観している俺を納得させればいいのだから。
今、霧生の足元に置かれてある段ボール箱は、霧生がそう考えていた証拠だろう。
霧生のことだ。あの紙片が下書きだった事にも、清書版の存在についても、気が付いていてもおかしくはない。
だから、霧生はまだあの箱を開かず、中身も整理せず、待っているのだ。
早見が、清書版を回収しに来るのを。
まあ、実際のところ、それは俺が渡してしまったのだが────。
「……くちゅん!」
不意に、部室にくしゃみの音が響いた。
ハッ、となって前を見れば、霧生がいつの間にか本を放り出し、口元を押さえている。
どうやら、くしゃみの元は彼女らしい。
「……風邪か?」
何も反応しないのもかえっておかしい。
そこまで心配でも無かったが、一応声をかけた。
すると、霧生の方も一応、と言った感じで返事をする。
「そうじゃないけど、ちょっと長い間肌寒いところにいたから……、くしゅん!」
言葉の途中で、もう一度くしゃみの波が来たのか、口を覆う。
先程から感じていたことだが、普段の少年の様な態度と違い、やけに可愛らしいくしゃみをする。
なんだか、ギャップを感じる行為だ。
──しかし、肌寒いところ……?
不意に、霧生の言葉が、脳裏で反響した。
今は、五月の始めである。
気温も上がり始め、体を動かしていると熱くなる時間帯もあるほどだ。
要するに、そろそろ春から初夏に移り変わる頃である。
正直、肌寒い、という感覚とは縁遠くなってきている。
強いて言うなら、朝早くや夜遅くは寒くなるが────。
その時、俺の勘が、あることを囁いた。
証拠の無い、一つの妄想。
しかし、場合によってはあり得そうなこと。
それを────俺は、言葉にした。
「なあ」
「……何だい?」
「清書は、今朝、確かに返しておいたぞ」
脈絡もない、唐突な言葉。
だが、聞く人が聞けば、意味の通る言葉。
霧生は、それを聞いて、幾度か目を瞬かせた。
だが、それも一瞬のこと。
その顔は、僅かに微笑みを浮かべる。
そして次の瞬間には、往時の顔に戻っていた。
「何のことかは知らないけど……それは良かった」
それだけ言うと、霧生は眼前でもう一度本を手にとった。
さながら、これ以上の話を拒むように。
──ああ、霧生も今朝、あの場所にいたんだな。
目の前の光景を見て、そう確信する。
霧生が、真相を見抜いていたことは間違いない。
ならば、早見が朝方にここに侵入し、清書の方を密かに盗みかねない、ということだって、気づいていた可能性がある。
では、それに気が付いた霧生は、どうしたのか。
俺のしたように、早見にすべてを告げ、その行動を止める、というのが、一番無難だろう。
だが、それ以外の選択肢を取ったなら。
これは俺の想像だが、霧生は早見の目的を達成させようとしていたのではないだろうか。
その方が、早見が傷つかないから。
あの不法侵入まがいを成功させ、紙片を回収してもらおう、と。
勿論、侵入に成功したところで清書版はそこには無かったのだが、さすがに霧生もそこまでは知らなかったのかもしれない。
何にせよ、侵入を成功させたいなら、一つ、関門がある。
部室の鍵だ。
これは先ほど述べたように、霧生しか持っていない。
もしかしたら他にもあるのかもしれないが、昨日の教師の言葉からすると、そう簡単に持ち出せないと見て間違いない。
つまり、早見の補助をしたいのであれば、それすなわち何らかの形で部室の鍵を早見に渡さなくてはならない、ということだ。
そのために、霧生もまた、今朝は学校に来ていたのではないだろうか。
早見が鍵を使えるよう、どこかに鍵を隠すために。
しかし、実際のところ、早見は俺が連れて行ってしまい、霧生は目的を果たせなかった。
だから、霧生はちゃんと清書版が返却されたのかどうか、判然としていなかった。
そのために、とりあえず段ボール箱を弄らず、ここで待っていると考えれば、説明はつく。
こんな内容のことが、俺の頭の中を駆け巡った。
そして、その激流が終わると────俺の心中では、乾いた笑いが生じる。
──何というか、早見のことをとやかく言えないな、俺たちも。
早見は、人間関係を気にしすぎる自分のことを「おかしい」とまで言っていた。
だが、こうしてみると、俺と霧生だって、そう変わってはいない。
昨日からの一連の流れは、要するに三人が三人とも、この後の人間関係が上手く回るやり方を求めて、嘘を吐きながら走り回っていた、という話なのだから。
これこそ、早見の言う「人間関係を重視しすぎる」やり方である。
自分が、これをこなす側になったことで、改めて感じる。
何というか、これはきっと、酷く重要で。
そして、同じくらい、馬鹿馬鹿しい。
早見が、何故あんなに人間関係に拘ってしまう自分のことを忌々しげに話していたのか、今になって、俺は理解できた気がした。
「……何を考えているのか、知らないけどさ」
そんなことを考えていると、ぽつん、と水面に石を投げ込むように、霧生の声がかけられた。
反射的に顔を上げれば、先程と同じく霧生の読書姿がある。
そして、霧生は視線をこちらに向けないまま、こんな言葉を投げかけた。
「まだ、五月だ。友人も、間柄も、これからいくらでも変わる。その最初期に手探りになるのは、誰にでもあることだ。……深く考えすぎないのが、吉だよ」
言い終わった瞬間、まるで何かを恥ずかしがるかのように、霧生は顔を伏せる。
言い過ぎた、とでも言いたそうだった。
──まだ五月、ね。
なるほど、確かに。
一つ納得して、俺は椅子に座りなおした。
そして、同時に────。
後ろの扉が、コンコン、と鳴った。
一瞬、その音に俺はかなり驚く。
もしかすると、「彼女」はもうここには来ないのではないか、と思っていたからだ。
少なくとも今朝の様子では、そのようにも感じられた。
だが、その音は確かに部室に響き────程なく、扉が開かれる音が響いた。
──確かに、まだ五月……まだ、春か。
最後に俺がそう感じたことは、特に記しておこうと思う。




