始終 或いは深層
……先程、部室に置かれた段ボール箱は、蓋を開くぐらいしかやっていない、という節のことを早見には述べた。
だが、これは厳密に言えば間違いだ。
一つだけ、あの段ボール箱の中から外に出したものが、存在する。
それこそが、今、早見に渡した、古いパンフレットである。
最初の最初、霧生が「年度が書かれていないから整理がしにくい」ということを説明するために、一つだけ取り出したものだ。
あの時、俺はそれを受け取って、奥付を見た後────段ボール箱に戻さなかった。
これは、何というか、自然な行動だ。
どうせ、そこから取り出して、本棚の方に並べる物である。
箱にいちいち戻す必要はない。
では、どこに置いたかと言えば、これは単純に、机の上に置いていた。
まだ、そのパンフレットたちを置く本棚が決まっていなかったので──その本棚を探すために、霧生は部室の奥に向かったのだ──とりあえずそこに置いたのだ。
それだけなら、特に問題は無かっただろう。
だが、この後の俺の行動のせいで、この件は決定的にややこしくなる。
「昨日、君が来た後。推理をしようって流れになった時、机の上を片付けたんだが、覚えてないか?」
「していたような気はするけど……」
今一つ覚えていないのか、早見が首をひねる。
まあ、取り立てて目立つ行動ではないので、記憶していないのだろう。
しかし、俺の方は、辛うじて記憶していた。
そのことを、俺は早見に語る。
「あの時、ちゃんと片付けるのも面倒で、俺は机の上にあったものを、適当に自分の鞄の中に詰め込んだ。区別なく、全てだ」
「じゃあ、このパンフレットも……?」
「ああ、箱に戻すのも手間がかかるから、俺は鞄の中に入れていた」
勿論、持って帰る気だったわけでは無い。
あの時は放課後に点検があることを知らなかったので、推理が終われば、その後も普通に時間があるものだと思っていた。
その時に、もう一度戻せばいいか、と考えていたのだ。
しかし、実際には俺たちは慌てて帰る羽目になった。
そのせいで、俺は鞄の中に詰め込んだものを、そのまま家に持ち帰ったのだ。
これが小鳥遊文庫だったなら、さすがに俺も元の位置に返しただろう。
だが、詰め込んだ物と言えば、机の上に転がっていた書類の類と、文房具。
そして件のパンフレットだけである。
パンフレットは、置き場が部室になっているだけで、別に持ち出し厳禁、という訳ではない。
だから、明日返せばいい、と思っていたのだ。
しかし────。
「……そのパンフレットの中に、清書版は入りこんでいた。俺が見つけたのは、昨日の帰り道だ」
そう告げた瞬間、早見がどっと疲れたかのように、肩を落とした。
この一瞬で、フルマラソンでも終えてきたかのような疲れ方だった。
実際、徒労を感じているのだろう。
彼女が早起きし、学校に侵入してまで手に入れようとした紙片は、俺が持っていたのだから。
下校の際、俺に一言言えば、手に入っていたのだから。
「本当は、君を追いかけて返そうかと思ったんだが……君の家を知らないし、連絡するのも変な話だし……。結局、こうやって朝になるまで待つしかなかった」
「……そう、だからあの場所に……」
そうだ。
一つ、俺は頷く。
待ち伏せしてでも、俺は早見を止めなければなかった。
何しろ、早見が仮に侵入に成功し、部室の中の段ボール箱を漁ったとしても、これは見つかるはずも無いのだ。
俺が持っているのだから。
故に、止めた。
慣れない早起きまでして。
さすがにこのままでは、早見があまりにも不憫だったから。
勘違いで、不法侵入まがいのことまでさせたくはない。
そんなことを考えてから、俺ももう一度早見に向き直った。
一応、言って置かなければならないことがあると思ったのだ。
口調を整え、脳内で何度か言葉を反芻し、そして口に出す。
「……俺の不注意のせいで、ややこしいことを起こしてしまって、本当にすまなかった」
そう言いながら、俺は頭を下げる。
突然始まった謝罪劇に、レジの方で店員が視線を向けたのが分かった。
恐らく、かなり注目はされているのだろう。
だが、謝っておく必要はある、と感じていた。
今回の件が複雑化した遠因は────間違いなく俺にあるのだから。
悪意など無かったが、早見はもしかすると俺を恨むかもしれない。
ならば、自分の非は認めるしかない。
勘というよりも、俺の理性が、そう感じていた。
最初、早見は何の反応も返さなかった。
ただしそれは、意図して沈黙しているというよりも、ただ混乱しているだけだったのだろう。
やがて、困惑した口調で、彼女は俺の頭を上げさせた。
「ちょ、ちょっと、止めて……顔を、上げて?貴方に謝られる理由なんて、どこにもないんだから……」
言われるまま、俺は顔を上げる。
そこには、多少血色の戻った早見の顔があった。
そこで一瞬、俺と早見の両方に、弛緩した空気が流れた。
俺は、早見が俺を滅茶苦茶恨んでいる、と言うようなことは無いようだ、という安堵で。
早見は恐らく、注目を避けられたことで。
このイートインスペースに入って初めて、俺たちは気を緩めた。
しかし、次の瞬間、空気は再び凍る。
それは、早見の発言からもたらされた。
「そう、貴方が謝る必要なんてないわ……元々は、私がこんなものを書いていて、しかもそれを隠そうとしたのが、原因なんだから」
その言葉に、俺はビクッ、と肩を小さくする。
また、早見に対して気まずい思いが胸の中に広がったのだ。
────これまで解いてきた日常の謎は、概して、解いても解かなくても、特に影響のないものが多かった。
あくまで、俺が気になるから解いている、とでも言うような。
強いて言えば、前回の盗難未遂事件は、解かれないままであれば、明確に他者に不利益が生じる可能性があった。
だがそれだって、盗難自体は失敗しており、大きな損害ではなかった。
要するに、真相が分かる分からないに関わらず、「俺たちが納得する」以外の影響は無かったのだ。
しかし、今回の件は違う。
これは、解いてしまうことで、むしろ話がややこしくなる話────いや、少し違う。
解いてしまう事で、こちらがいたたまれなくなってしまう話、だった。
今回の真相────特に、あの相関図を早見自身が書いていた、という部分は、本来早見が何をしてでも隠したかったことのはずだ。
だが、俺はそれを解いてしまった。
あまつさえ、俺が真相を知っている、ということを、こういう形で彼女に伝えてしまった。
全てを説明しなければ、俺が清書版の紙片を持っていることを彼女は納得できないだろう。
だから、全て打ち明けたこと自体は、仕方がなかったと思う。
しかし、彼女の方からすれば、これはまた違った光景に見えるだろう。
どんな気分なのだろうか。
虚言を弄してまで隠したかった真実を、部活仲間に全部知られてしまった、という気分は。
その相手と、これからの高校生活を送らなくてはならない、という気分は。
勿論、俺はこの件をあげつらうような気は毛頭ない。
人間関係、と言う物が、特に学校のような小さなコミュニティでは大きな影響力を持つことも。
それを非常に気にする生徒がいることも、俺は知っている。
早見がそう言った生徒の一人だったことは確かに意外だったが、逆に言えばそれ以上の意味は無い。
しかし、彼女からすれば、全てを知っている存在である俺が同じ学年にいる、というのは、それだけで大きな重圧かもしれない。
俺が少し言葉を漏らすだけで、彼女が入学以来、一か月に渡って作り上げてきたキャラクターや、関係性が破綻するかもしれないのだから。
それ故に、俺は声をかけられない。
何を言っても、早見を傷つけてしまう気がする。
慰めても、嫌みにしか聞こえないだろう。
共感しても、疑われるだけだろう。
場合によっては、脅迫のように思われるかもしれない。
そして、早見の方も、俺に声をかけられない。
きっと、俺が思いついているようなことは、だいたい考えているのだろう。
だから、何も言えない。
しばらく、沈黙が続いた。
何も言わないことが、互いにとっての最適解だと、互いが考えている証拠だった。
しかし不味いことに、時間は余り過ぎていた。
まだ、時刻は六時台である。
移動時間を長く見積もっても、もう一時間半もしなければ学校は始まらない。
一度家に帰るのはさすがに不自然だが、学校に向かうには早すぎる。
つまり、気まずさに耐えかねてここを出て行っても、特に行く場所がない。
しかし、さすがにこの雰囲気のまま、一時間以上ここにいるわけにもいかないだろう。
というより、正直、居たくない。
そして、どちらが席を立つべきかと言えば────まあ、男女差別的な意図は一切ないが、俺の方が立つべきだろう。
そう考え、俺はカフェオレの缶を掴む。
一気に飲み終えて、口外しないことだけを早見に約束し、後は特に触れずに出て行こうと────────したところで、俺に声がかかった。
「……ねえ」
「はい?」
意外のあまり、妙な返事をしてしまう。
浮かせかけた腰を反射で戻し、視線を前に戻せば、そこには覗き込むようにして俺の顔を窺う早見の視線があった。
元々の美貌も相まって、その視線はぞっとするほど美しかった。
だが同時に、それ以上の真剣味があることにも、俺は気が付く。
そして、彼女の綺麗な目の下方で、薄い唇がわずかに動く。
「……独り言、聞いてもらえる?」
その口調は。
再び、「素」のそれに戻っていた。
それを聞いた俺は、早見唯という人物に、ここで「初めて」出会った気がした。
まあ、ただの勘なのだが。




