虚飾 或いは動転
瞬間、不味い、と思った。
恐らく、それは霧生としても同じ気持ちだったのだろう。
眼前で、霧生の目が分かりやすく白黒と色彩豊かに変化する。
──ここで、早見にこの紙を見られるのは……。
さすがに、早見からすればあまり聞き心地のいい話、とは言えないだろう。
何しろ、自分の周囲で仲良くいるはずの友人たちの関係図である。
冷静な心境で見られる方がおかしい。
もっと言えば、これを早見に見られた場合、先程心配したことを、もう一度心配しなくてはならなくなる。
これのせいでいじめが起きるかもしれない、もめ事が起きるかもしれない────というあれだ。
傍から見ていても分かる。
あのグループの中心人物は、早見だ。
彼女を中心に、あのグループは回っている。
その中心人物に、取り巻きが書いたこれを見せる、というのは、何というか、色々アレだろう。
別に、早見がこれを使って誰かをいじめるかもしれない、とまでは思っていない。
ただ、別段知らない方が良いだろう、と思ったのだ。
そんな思考が、早見が入室した瞬間、ぐるぐると頭の中で駆け巡った。
早見の登場に、頭が追い付いていない。
霧生もおおよそ同じ状態だったのか、俺の隣で押し黙る。
勿論、俺も押し黙った。
結果、部室内は先程とは違った意味で沈黙に包まれる。
「……何かしら、私、何か変?」
不思議そうな口調──話し方は女子間の物ではなく、上品なそれに戻っている──で、早見が眉をひそめながら問いかけた。
彼女からすれば、当然の反応だろう。
しかし、こちらとしても、どこまで話せばいいのか分からない。
とりあえず、紙片を後ろ手に回し、彼女の視界から隠すのが、精一杯だった。
俺たちはこの「ひま」や「さつき」というのが誰か分からない。
だが、早見なら、当然一発でわかるだろう。
恐らく、これは友人のあだ名なのだから。
そう考えれば、少しでもこれを見咎められるわけにはいかなかった。
「……本当に、どうかしたの?」
「いや、別に……」
「何でも、無いのだけど」
俺と霧生は、ごにょごにょと訳の分からないことを述べる。
そして、互いに助けを求めるようにして、もう一度顔を合わせた。
無論、その動きに早見は再び眉を顰める。
まあ、今の俺たちの態度は、あからさまに隠し事があります、と言っているようなものだから、仕方ないだろう。
というか、最早これは不愉快の域に達しているかもしれない。
そう思うと、気が急いた。
「……どうする?」
小声で、霧生に問いかける。
悩んでいられる時間は、短い。
早々に決断する必要があった。
霧生は、それを自覚してか、一度強く目を閉じる。
そして、静かな声色で言葉を絞り出した。
「……見せよう。彼女の性格上、大騒ぎにはしないだろうし、ここで誤魔化す方が不可解に映るだろう」
そう言うや否や、霧生は俺の手の中にあった紙片を、つい、とつまんだ。
さらに、止める間もなく早見の方に向かっていく。
「すまない、早見さん。実は相川君が、こんなものを拾ってね……」
そこから、霧生による怒涛の説明と、俺たちがなぜ困っていたかの説明が行われたわけだが────。
早見は、意外なことに、顔色一つ変えなかった。
何というか、心配したのはなんだったのだろう、と拍子抜けするほど、彼女の反応は薄かったのだ。
ただ一言、そう、と呟いただけ。
そして、軽く頷きながら、経緯を聞いていた。
本当に、それだけだった。
──まあ、意外とこんなものか?
そう思い、俺は少し無理矢理にだが納得する。
考えてみれば、自分の預かり知らぬところで、友人が勝手に関係図を書いていたと言われても、極端な話、「それで?」という感想になるだろう。
基本的には、彼女とは関係のない話なのだから。
案外、もめ事にもならないのかもしれない。
──霧生が言おうって決めたのも、こうなることを感じていたからか?
ふと、そんなことを思った。
「……そうやっているうちに、君が来たんだ。……説明、大丈夫だったかい?」
「ええ、ありがとう」
さらり、と早見は言葉を返す。
その表情からは、今一つ感情が読み取れない。
元々、友人グループの中に入る時程、この部室では感情を見せない彼女だが──本を読んでいるだけだから当然ではある──今も尚、それは崩れていなかった。
それを見て、霧生は僅かに目を細める。
そして、少しだけ口調に力を籠め、霧生は一つ、疑問を投げかけた。
「確認のために、一つだけ聞いておきたいんだけど……これを書いたのは、君じゃないね?」
すっ、と部室の空気が冷たくなったような気がした。
同時に、早見の顔が、さざ波だったようにも。
まあ、ただの勘なのだが。
「……私じゃないわ。あの時、私は五人の友達と一緒にいたから。多分、紙に書かれている人数からしても、書き手はその五人の内の誰かだと思うわ」
淡々と、早見が言葉を返す。
一度、霧生はその顔を見つめた。
だが、すぐに視線を外す。
そして、霧生は突然、今までとは違うことを口にした。
「仮にこれを捨てても、ごみ箱を漁るような生徒がいないとも限らない。だから、相川君の言う通り、もめ事を避けるためにこれの本来の書き手を何とか推理して、書き手に返すけど……いいかい?」
傍で聞いていた俺は、霧生の言葉に密かに驚く。
つい先ほどまで、霧生は推理には乗り気ではなかったはずだが、いつの間にか意見が百八十度変わっている。
早見に知られたから、というのもあるのだろうが、あの躊躇いは何だったのだろうか。
そんな違和感が、俺を包んだ。
しかし、生憎とその違和感が言語化される前に、早見が口を開く。
「ええ。それが、一番いいと思うわ」
早見の言葉は、少しだけゆっくりと放たれた。
まるで、言葉を一文字ずつ選ぶかのように。
それを受けて、霧生はこくり、と頷く。
これまた、酷くゆっくりとした動きだった。
どうにも、話しかけられる雰囲気ではなかった。
だが、いつの間にか話は、推理の方向に決まったようだった。
そして────少し、いや、かなり微妙な雰囲気で、俺たちはもう一度席に着いた。
最初に、元々の原因である段ボール箱を机の上から床に下ろす。
さらに、机の上に転がっていた物を適当に片づけた。
片付けたと言っても、置き場所に困ったため──この部屋は机が一つしかない──とりあえず俺の鞄に放り込んだだけだが。
そうやって綺麗にした机を前にして、三人で座ると、ようやく話し合い、という感じになった。
「……はい、考えましょう?これを書いたのは誰なのか」
雰囲気を変えるように、早見は明るい口調で言い出した。
さらに、パン、と軽く手を叩いた。
不思議なことに、それだけで部室の空気が爽やかになった。
彼女の言葉一つで。
──この辺りが、中心人物になった理由でもあるのか?
ある種の感心を覚えながら、俺は早見の顔を見つめる。
それと同時に、霧生が机の中心に紙片を置いた。
「……じゃあ、まず聞いておきたいな、早見さん。この名前、誰を指しているんだい?」
ああ、そうか、そこからか。
霧生の言葉を聞きながら、俺は頷く。
先述したが、早見ならあだ名くらい知っているだろう。
寧ろ、知っていなければおかしい、と言えるほどである。
だから、まず彼女にこのあだ名が誰を指しているかを聞き、その後書き手の正体を特定して────。
そう考えた俺の耳に。
信じられない声が響いた。
「ごめんなさい。それは知らないわ」
「……え?」
思わず、声に出す。
正直、意味が分からなかった。
それを受けてか、早見は俺の方を向き、申し訳なさそうな顔をする。
「何というか、私の前だと、皆少しだけ行儀良くなっているというか……あまり、あだ名で呼ぶことは無いの。だから、ごめんなさい。本当に申し訳ないのだけれど、私はこのあだ名が誰のことなのか、分からない」
呆然と、俺はその言葉を聞く。
予想外の話だった。
というか、これなら紙片を見られても良かった気すらしてくる。
「えーと、女子って、そう言う物なのか?あまり、あだ名で呼んだりしないのか?」
「いえ、どちらかというと、私だけというか……その、まだみんな硬さが解けていないというか……」
説明に困った様子で、早見が言葉を重ねる。
──要するに、学年でも特に目立つ存在である彼女の前では、友人ですら居ずまいを正している、ということか?
率直に言えば、理解に苦しむ話だった。
あれだけフレンドリーに、いかにも友達、という感じで話しているのに、まだ探り合っている、というのか。
尤も、友人知人の類がかなり少ない俺が分からないのは、ある意味当たり前だが。
「なら、代わりに本名の方を教えてくれないか?手掛かりになる」
一方、そこまで驚くことも無く、霧生が淡々と問いかけた。
「ええ、それは分かるわ。あの時いた五人は……」
そう言いながら、早見はゴソゴソと足元の鞄を漁る。
そして、一冊のノートを取り出し、その中にさらさらとシャープペンシルで名前を書いた。
「福山 凛」
「浅野 鈴」
「雪野 咲良」
「佐藤 陽葵」
「川園 芽衣」
「これが、あの時一緒にいた五人よ。ちなみに、全員バスケ部」
「へえ、つまりこれらがそれぞれ、『ひま』、『プリン』、『さつき』、『リンリン』、『チェリー』に対応する、という訳か」
返事をしながら、霧生はその紙を見つめる。
その瞳は、既に探偵のそれに変わっていた────。




