早見 或いは百
──告白、ねえ……。
その言葉は、どう受け取ればいいのか。
煽動か、忠告か。
或いはただの悪戯か。
一瞬、そんな思考を頭に浮かばせる。
しかし、すぐに部屋の中に声が響いてきたため、俺の考えは中断された。
「……待たせてごめんなさい。相川君、百」
「ああ、唯か」
片づけが終わったのか、唯が部屋に戻ってきた。
必然的に、俺と早見妹の会話は打ち切られる。
さらに部屋の入口に目をやってみると、霧生も戻ってきたのが分かった。
何となく、俺はそちらの方にも視線をやる。
「……あれ、お姉ちゃん、もうお土産無かったっけ?」
そんな中、唯の手元を見て、早見妹がそんなことを言った。
それを聞いて、俺も確かに、と思う。
先程までは、唯がキッチンの方に戻ると、追加の土産の類を持って戻ってきていたのだが、今回は手ぶらで戻ってきている。
もう、食べ尽くしてしまったのだろうか。
そう考えて唯の方を見つめると、彼女は少し困ったような顔をした。
「あー、そのことなのだけれど……ほら、今十二時くらいでしょう?」
「だね」
「そうだね」
「そうだな」
早見妹、霧生、俺の三人が頷くと、唯は何かを提案するように手を挙げた。
「多分、お土産のせいで全然お腹は空いていないでしょうけれど……四人で、お昼ご飯、食べに行かない?」
「今からか?」
流石に驚いて、俺は声をあげる。
実際、今更、と言ってもいい提案だった。
まず、今から昼食先を見つけて食べに行くだけでも、それなりの時間がかかる。
実際に昼食をとるのは、十三時くらいになるのではないだろうか。
また、唯が言うように、今の今まで土産物のお菓子を食べまくっていたため、全く腹が減っていない、ということもある。
俺はてっきり、これが昼食代わりにする──つまり、この集まりの参加者はそもそも昼食を摂らない──方針だとばかり思っていた。
霧生もそう思ったのか、不思議そうに問いかける。
「少し、遅いね。第一、割と無理して食べる形になるよ?」
「そうだけれど、一応昼に何か食べておかないと、変な時間にお腹がすくでしょう、だから……」
──まあ、一理あるな。
実際、いくら色々食べたからと言って、所詮はお菓子なのでどれくらい腹持ちするかは微妙である。
元々が適当な食生活をしている俺はともかく、女性陣としては気になる話なのかもしれない。
だとすれば、今から外出するのも、そうおかしくはない話だった。
そこまで考えて、俺は霧生と早見妹を見る。
彼女たちの決定に従おう、と思ったのだ。
────だが、そうしている内に、俺はあることに気が付いた。
──何か、また早見妹が、何かを面白がっていそうな顔をしているような……。
本当に、今にもふふん、という楽し気な声が聞こえてきそうな顔である。
口元など、ギリシャ文字の「ω」のようになっていた。
そんな、彼女の愉快な口元が、不意に開かれる。
「そうですねー……じゃあ、私、行きたいです!小腹がすきました!」
ぴょん、と早見妹が挙手をした。
それを見て、霧生も肩をすくめる。
「……じゃあ、軽くご飯をとろうか。しっかりしたところじゃなくて、喫茶店とかで」
「そうね、そうしましょう」
唯の表情が、分かりやすく明るくなる。
それを見て、早見妹はまた口元を「ω」にした。
────外に出て行くにしても、俺たちはともかく、部屋着のままの唯と早見妹はそのままでは外に行けない。
流石に着替えたかったのか、姉妹は五分待って、と俺たちに言った。
勿論、断るような理由も無いため、着替える物がない俺と霧生は、とりあえずリビングの方で二人を待つことになる。
そのリビング──こちらも家の印象に違わず、広いわ豪華だわで、随分と落ち着かない空間だった──で、不意に霧生が口を開おた。
「そう言えば、さ」
「何だ?」
微かに、揺らいだ表情。
それを感じながら、俺は彼女の横顔を見つめる。
「いや……君、早見さんの妹さんのことは、下の名前で呼ばないのかなって」
静かにそう言って、彼女は俺の方を見た。
その口調は穏やかだったが、俺はなんとなく、霧生が固唾を飲んで俺を見つめているような気がした。
まあ、ただの勘だが。
……それはともかく、質問の内容である。
何故、早見妹を下の名前で呼ばないの、と来たか。
少し驚きながら、俺はとりあえず言葉を返す。
「……そんなに変だったか?早見妹、と呼ぶのは」
「まあ、変と言えば変だよ。僕が普通を語るのもアレだけど、普通そう言う言い方をする人はあまり居ないし……そもそも、何故『早見妹』なんて言い方をしているんだい?」
前々から思っていたことだったのか、割合に真剣に霧生は聞いている。
その様子を見ながら、俺はあー、と言って頭を掻いた。
「まあ、何というか……下の名前で読んだら、今以上にグイグイ来そうだ、と思ってな。勘だけど」
「可能性はあるだろうけど……嫌なのかい?」
「そうじゃないが……」
何故、俺が早見妹を名前で呼んでいないのか、と問われたなら────例によって例のごとく、勘に従ったまでだ、としか言えない。
ただ、俺の勘が、つまり俺の無意識が何故そう考えたのかは、何となく理解できる。
簡潔に言えば、俺は未だに、早見妹との距離感を掴み損ねているのだ。
何しろ、基本的にこちらが何もしなくても、向こうからひたすら距離を近くしてくるような相手である。
距離感の決定権は必然的に向こうにあり────俺としては、知り合って三か月以上経ってなお、彼女への対応が分かっていない節があった。
最近、霧生や唯との交流が多いために、自分自身ですら忘れかけている節もあるが、俺は原則として、他者とは距離を置くタイプである。
霧生や唯との関係の方が、例外と言ってもいいくらいだったのだ……本来は。
しかし、早見妹を相手にすると、そう言うことも言ってはいられない。
と言うか、俺が何をどうしていようが、向こうから飛び越えてくる感じがある。
そもそも、初邂逅の時からして、「お姉ちゃんの彼氏ですか」と叫びながら手をぶん回してきたのである。
だから、なのだろう。
今一つ、俺から距離を詰めて良いものかどうか、分かっていない。
霧生や唯とは、俺の方から一歩踏み出した経験もある。
だが、早見妹相手にそう言うことをした記憶は、無かった。
この辺りに、俺の本心があるのだろうか。
どう話しかけていいものか、という逡巡。
そして、下の名前で呼ぶことも、本当にしていいのか、という困惑が。
────ああ、それと、もう一つ。
もう少し、情けない理由もある。
「……まあ、何というか、俺は多分、甘えているんだよ。年下相手に情けない話だが……俺は早見妹相手に、ずっと甘えているんだ」
「甘えて……?」
「ああ。俺がどんな対応をしていようが、勝手に向こうが調整してくれているからな。こっちが何かしなくても、良い感じの距離感になっているというか」
ショッピングモールに出かけて、俺が変なことに拘っても。
家出した姉に対して、心配して掛けてきた電話を、強引に打ち切っても。
彼女は、普通に俺との関係性を維持してくれている。
なんだかんだ言いながらも、雑談をしに連絡を取ってくれている。
だから、こちらから何もしなくても、という楽観が俺の中にあるのかもしれない。
その楽観が、呼び方なんて適当でいいか、と思わさせている。
下の名前で呼ぶように懇願されたこともあるが、まあ別にいいや、と。
しかし、それにしても。
唯はかつて、彼女のことを「甘えたがり」という風に述べたが────その理屈で言えば。
もしかすると、俺の方が、「甘えたがり」なのだろうか。
霧生の問いかけは、俺にふと、そんな感覚を抱かせた。
「……しかし、何でそんなこと気にするんだ?」
いつの間にか、随分と真剣なトーンになってしまったことが妙に気恥ずかしく、俺はそうやって話を混ぜっ返す。
すると、気恥ずかしいのは向こうも同じだったのか、霧生は視線を外した。
「別に、興味本位だよ。最近、君が早見さんのことを下の名前で呼び始めた理由が、姉妹の区別のためだったそうだから……妹さんを下の名前で呼ばない以上、その理屈は成立しないな、と思って」
──なるほど。
まあ確かに、矛盾している話ではある。
姉の方を下の名前で呼び始めたなら、妹の方もそうするのが普通だろう。
何が悲しくて、片方だけを名字で呼ぶのか。
相手によっては、悪意を疑われそうである。
──そうだな……要は、俺がヘタレていただけの事なんだ。ここら辺を良い契機として、ちゃんと呼ぶのが筋か。
ふう、と俺は息を吐く。
どちらにせよ、下の名前で呼んで欲しい、というのは早見妹自身からも前々から言われていた話だ。
かなり時間がかかってしまったが、ちゃんと叶えるのが道理だろう。
────そして、そこで丁度、タイミングよく。
早見妹が、自室から出てきた。
「おっ待たっせしましたー!」
ぴょんぴょんと、兎のようにして彼女は廊下を駆けてくる。
その姿を認めて、俺はおう、と手を挙げる。
そして、数秒前の決意を、そのまま実行した。
「早かったな……百」
まさにジャンプ中だった彼女の手足の動きが、ピシッ、と止まる。
そして早見妹────改め百は、その場で盛大に、転んでしまった。