捜索 或いは真章
──誰か、他にもトイレに行こうとしている人が居るのか?
ごく普通の思考の果て、最初に感じたことはそれだった。
同時に、俺は鉢合わせを避けるために、足をその場で止める。
霧生にしろ早見にしろ、トイレ前で鉢合わせ、というのは少々気まずい。
幸い、俺の方はまだ余裕があり、今すぐにトイレに駆け込まなくてはならない、というほどでもなかった。
ここは、今トイレに向かう誰かが出てくるまで、部屋の中で待っておくのが正解だろう。
そう思って、俺はとりあえず、音にだけ耳を澄ました。
真夜中であることが、今に限っては幸いする。
廊下を歩いている誰かの微かな足音は、周囲が無音であることも相まって、俺の耳にはよく響いた。
ギシ、ギシ。
トン、トン。
……ガチャ。
──ん?
ドアノブに手がかけられた音が響いた瞬間、俺の勘が何かに気づく。
すぐに、それは脳内で言語化された。
──何か、扉が開く音に続いて、風の音がしなかったか?空気の通りが良くなったというか……。
明確な証拠も無い、ただの疑い。
まさしく、「勘」としか言いようのない感覚で、俺はそれに気が付く。
しかし、だとすれば。
この足音の主は、トイレに行っているのではなく。
この時間帯にも関わらず、外に出ているのではないか────?
そんな推測を後押しするように、微かに聞こえていた足音は、その瞬間にパタリと消えた。
足音の主が外に出て、さらに扉を閉めたのだ。
故に、音が響かなくなっている。
──間違いない。外に出ている……こんな真夜中に、何のために?
頭の中で、大きなクエスチョンマークが湧いて出てきたことがわかった。
同時に、出て行ったのはどっちだ、とも思う。
早見か、霧生か。
或いは、まずあり得ないとは思うが、誰か泥棒でも入ったのか。
────妙な不安に襲われ、俺は廊下に飛び出した。
廊下に飛び出た俺が最初にしたことは、微妙に恰好が付かないが、まず、トイレの方を済ますことだった。
悠長に思えるかもしれないが、これを済まさないと話が始まらないのだから、仕方がない。
そして、懸案事項を終えてから、俺は霧生と早見の寝室を覗いた。
最初に、どちらが居なくなったのかだけでも、知りたかったのだ。
本来は早見と早見妹が使う、二人用の部屋。
その中を、入口の方から、そっと覗き見る。
すぐに目に入ったのは、ベッドの片方を膨らませている早見の姿だった。
顔が出ていたのと、彼女の長い髪の毛のおかげで、遠目にも一発で彼女だと分かる。
しかし、その隣のベッド────つまり、本来霧生が使っていたであろうベッドは、もぬけの殻だった。
ただ、やや乱雑に放り出されたブランケットだけが置いてある。
──出て行ったのは霧生か……一体、何のために?
正直なところ、これで出て行ったのが早見なら、まだ納得することも出来た。
というのも彼女の場合、ここに何度も来たことがあるからだ。
だから、例えば個人的に夜に行きたいスポットを知っていて、そこに向かったのかもしれない、とか、そう言う理由を想像することも出来る。
しかし、霧生が一人で外に出た、となると話が分からなくなる。
初めて来たこの場所で、夜更けに、一人、何をしに行ったのか。
さっぱり想像がつかない。
──……いや、そうだ、懐中電灯。
ハッと思いついて、俺は早見を起こさないように注意しながら、玄関の方に歩いていく。
そして、スマートフォンの明かりを頼りに、玄関のすぐ脇にある戸棚を確認した。
ここには、夜中の外出用に、いくつか懐中電灯が置いてある。
例の怪獣騒ぎの時、土宮さんが使ったというのと同様の物だ。
仮に霧生が外に出たというなら────。
「やっぱり、一つ減ってる」
思わず声に出した。
記憶が正しければ、ここに置いてあった懐中電灯の数は、俺たち三人の分と予備を含めて、五つだったはずだ。
しかし、今目の前にあるのは、四つ。
霧生が一つ、持ち出したのだ。
そこまで確認してから、今度は玄関の扉に視線をやる。
すると案の定、扉こそ一応閉まっていたものの、内側から鍵がかかっていなかった。
確か、早見がバーベキューから帰った時に、鍵を閉めていたはずなのだが。
「鍵を早見が持っているから、持ち出して閉めることは出来なかったんだな……。だから、とりあえず扉だけ閉めて、懐中電灯片手に外に出た、と」
自分を落ち着かせる意味も込めて、一々声に出して確認する。
すると、脳の理解が早まったのか、この状況について考える余裕も生まれてきた。
──早見を起こしたくなかったのか……?いや、違うな。多分、誰にも見られずに、何かしたかったんだ。
ただの勘だが、そう思った。
そして同時に、強い不安に襲われる。
中性的な容姿と言動のせいで忘れがちだが、霧生は女子高生だ。
それも、まず間違いなく、非力な方である。
いくら人の少ない別荘地であるといっても、こんな時間に一人で女子が外に出るというのは、色々な意味で危険だろう。
こういった人の少ない場所は、たまに地元の暴走族などがたまり場にしていることがある────とかいう、どこかの本で読んだ知識も、俺の不安を煽った。
「とりあえず、電話……」
不安を誤魔化すように、手持ちのスマートフォンを操作し、以前交換した連絡先から電話を掛ける。
一瞬で、画面が発信中を示すそれに変わった。
────しかし。
「出ないな……」
一分程待っても、その画面が通話時のそれに切り替わることは無かった。
圏外という訳でもないので、通じていない、という訳ではない。
単純に、無視されているらしかった。
ただ、電話が通じないのは、かける前から何となくわかっていたことでもあった。
何しろ、理由は不明だが、霧生は俺たちに気がつかれないようにしつつ、外に出ているのである。
だとすれば、こちらからの連絡など、受け取るはずもない。
こうして、連絡は出来ないことがわかった。
アプリでメッセージを送ったところで、恐らく永遠に既読はつくまい。
ならば────。
「……探しに行くか」
するり、と言葉が出てきた。
同時に、目の前の懐中電灯の一つを手に取る。
早見を起こすか?
一瞬、悩む。
だがすぐに、そうしなくても良いだろう、と結論が出た。
そもそも、こんな夜更けに女子が外に出るのは危険だ、ということで霧生を探しに行くのである。
同じく女子である早見を外に出すのも、何というか、アレだろう。
そこまで考えて────俺は、パジャマ姿のまま、懐中電灯とスマートフォンだけを抱えて外に出た。
外の光景は、本当に、真っ暗闇と言って語弊の無いものだった。
比喩でもなんでもなく、月明かりしか光源がない。
恐らく、自然を大事にした別荘地としては、あまり街灯があっても無粋、という判断からだろうが、こと人探しにおいては、この環境は大きな枷だった。
「……まず、もう一度電話してみるか?」
そう、自分で自分に問いかけてみる。
恐らく先ほどと同じで、出てはくれないだろうが、もし音声を切っていなければ、着信音が鳴るだろう。
出て行った時間からすると、そう遠くにまでは行っていない。
一度音が鳴りさえすれば、聞こえるくらいの位置のはずだった。
「頼むぞ……」
もう一度画面を呼び出し、発信のところを押す。
そして、目を閉じて耳を澄ました。
十秒程、待ってみる。
だが────聞こえるのは、夏の虫のそれだけだった。
「……聞こえない、か」
知らず、舌打ちが自分の口から洩れた。
恐らく、マナーモードにしているのだろう。
これで、位置を知る手掛かりはなくなった。
世の中には、GPSを利用して友人の位置を把握する、などと言うアプリもあるらしいが、生憎と霧生はそんなものは使っていない。
仮に使っていたとしても、俺が知らない。
──要するに、本当に勘で探さなきゃいけないってことだな。
手がかりがない以上、そう言うことになる。
まさかこんなところで、俺の勘に全てが託されるとは思っていなかった。
「ええい……!」
立ち止まっていても、埒が明かない。
その一心で、俺は足を踏み出す。
さらに、山勘を信じてその場から駆け出した。
方向など、あってないような物である。
ただ、湖に落ちないようにだけ注意して、辺りを走ってみる。
懐中電灯の明かりを向ける方向も、勘に頼った、てんでバラバラなものだった。
普通の人にこの光景を見せたなら、正気を疑われたことだろう。
しかし、俺は実行した。
そして────。
「……あれは?」
走り回る中で、何かが、俺の視界の中をすり抜けた。
それを感じた瞬間、俺は反射的に、今までつけっぱなしだった懐中電灯の明かりを敢えて消す。
そうした方が良い、と思ったのだ。
まあ、ただの勘だが。
だが、俺の勘は大抵当たる。
ほどなく、明かりを失った視界に、その「何か」が映ったのが分かった。
「何だ、あれ?……火の玉?」
意図せず、口を開いた。
明かりを点けている間は良く見えなかったのだが、湖の近くに、ポツン、と小さな光源が見えたのだ。
まるで、怪談に出てくる人魂のような、小さな明かりである。
球形に近い光源を中心に、ビームのように明かりの帯が出来ているのがよく分かった。
──……霧生の持ち出した、懐中電灯の明かりか!
光景を把握した瞬間、頭の中で一気に理解が進む。
よく考えれば、分かることだった。
仮にスマートフォンをマナーモードにされていようが、普通、懐中電灯の方は使うだろう。
そもそも、霧生はそれを使うために持ち出したのだから。
そしてその懐中電灯の明かりの位置こそ、当たり前だが、霧生が居る位置である。
こんな簡単なことに気が付かないとは、俺も大概混乱していたらしい。
しかし今は、反省している場合ではない。
とるものもとりあえず、俺はその場所に向かって駆け出した。
さらに、ダメ押しも兼ねて声をあげる。
「……霧生!」
声を出した瞬間、目の前で、光源が小さく揺れる。
何故、という霧生の動揺を示しているような揺れ方だった。
その明かりを見つめながら、俺はただただ走る。
距離にして五十メートルも無いはずだったが、心理的な疲労ゆえか、辿り着いた時には息が上がっていた。
だが、それを気にする間もなく、俺は霧生の姿の確認を優先する。
「霧生……何しているんだ?」
霧生は、寝る前に見た時と大して変わらない様子で、そこにいた。
流石に俺のようなパジャマ姿ではなく、学校のジャージ姿──濡れても大丈夫、と言うことで、全員持ってきている──を身に纏い、無表情で、湖の縁に設置された柵の上に、腰を下ろしている。
そしてその場で、ただフラフラと、足を揺らしていた。
「やあ、相川君。こんばんは。或いはもしかすると、おはよう、かな?」
大して驚いてもいないような口調で、彼女はそう言った。