女の子の気持ちマニュアル
「ねえ、僕は構わないよ。例え半分の命でも君と共に過ごせるなら」
「やめてくれ!」俺は思わず机を拳で叩いた。「なぜ、それほど献身的になれるんだ?
俺はお前の知らない女を復活させるためにお前の命を削ろうとしているんだぞ!」
ユユリは困ったような嬉しいような顔をしてから不意にそっぽを向いた。
何かを言うのを待っていたがユユリはそれ切り押し黙った。なので俺もまた考えに耽った。だが、いつまでもレの店に居座る訳にもいかない。
拡張薬を懐にしまい、部屋を出てレに黙礼して店を出た。
なんとはなしにユユリは怒っているのではあるまいか、と思った。例え実体が薄くても女の子に対して怒号を浴びせるのは如何なものだろう。
「腹減らないか」と訊いた。
「んー。うん、まあ」とユユリは答えた。
前の世界で読んだ「女の子の気持ちマニュアル」に載っていた反応だった。少し怒っているけれど、機嫌を取るならばご機嫌になるにやぶさかではないという反応である。
だが、一つ問題がある。
方々の程で逃げ出してきたので財布にある分の持ち合わせしかない。家の帰れば亡くなった保護者の遺してくれた財産や左官屋の真似事で溜め込んだ金もある。当然、現状では戻ることは出来ない。
「とりあえず定食屋にでも入るか」
「別にいいよ」相変わらずそっぽを向いたままユユリは言った。
大衆レストランという雰囲気の店に入った。可能ならば個室が良いと伝えると丁度昼飯時を外れていたのか空きがあった。店員の視線が斜め上を向いている事から事情を察してくれたのかもしれない。道中、一部の連中の驚愕の表情に大分頭を悩まされたが、ユユリに命じて地上に降りて手を繋いでもらうと多少視線は減った。それでも、通り過ぎてから「おい、今のは何だ」というような会話が時折聞こえてきた。
個室に通され、定食を頼んだ後にユユリに訊いた。
「ユユリが直接食べることは出来ないのか?」
「見えて触れるけれど、実は違う世界で生きているんだ。少しだけ重なった世界に生きている僕らが交われるのは契約の範囲内に限られるからね」
契約? 何のことだ?
「俺が食べればそれがユユリに栄養として届く、そういう事か」
「今のところはそうだよ」
精霊と話す姿は異様であろう。個室にして正解だった。
「今のところ、とはどういう事だ?」
視線を外しつつ苦笑いを浮かべながらユユリは言った。
「拡張薬を用いると感覚の共有もできるんだ。カムイが美味しいものを食べれば僕も美味しい。カムイが転んで怪我をしたら僕も痛い。逆に僕が精霊の攻撃で手傷を負えばカムイも痛い」
「そうなのか」
「みたいだね。えへへ」
なぜかユユリは照れたように笑った。
「そうか」俺は定食を平らげながらそれらの事について考え続けた。
定食屋を後にしてからリュウシュウハが借りてくれた宿に向かい、部屋を確認した。簡素な部屋で取り立ててどうという印象は無かった。一つきりのベッドと一つきりの書き物机を見て俺は呟いた。
「ベッドが一つか。俺は床でいいぞ」
「馬車にいる時は遠慮したけれど、本当は精霊のベッドは精霊使いの体の中なんだ」
「そうなのか?」
ユユリは悪戯っぽく笑うと俺の胴体に向けて飛び込んできた。一瞬、妙な感覚がしたが、ユユリの体が俺の中に消えた。それからまた妙な感覚がしてユユリは俺の体から出てきた。
「この通り!」ユユリは両腕を広げてから片腕だけ内側に抱え込むマジシャンのような礼をした。「凄いでしょう?」
触れたり透過したり、あるいは攻撃を加えたりできる精霊という存在に今更ながら驚いた。
「カムイの中はとても暖かいよ」とユユリは頬を赤らめながら言った。
「おう、そうか。恥ずかしいな」
「精の循環率も良いから本当はずっとカムイの体の中にいるのが一番良いんだけど」と続けて早口で、かつ目を逸らしつつユユリは言った。
そこで俺は気づいた。「外に出る時は俺の中に入れば人目につかないって事じゃないか」
「そうすると、カムイの顔を見られないよ」
よく分からない事を言い出した。女の子がよく分からない事を言い出した時は、適当に相槌を打って相手の望むようにしろと「女の子の気持ちマニュアル」に書いてあった。
「寝る時だけ俺の中に入ればいい、そういう事か」
ユユリは顔を真っ赤にして頷いた。
「そう言えば、リュウシュウハが“擬態する衣服”とか言っていたな」
「裁縫屋に行けば、きっとあるよ」ユユリは俯いた顔をパッと上げて花が咲いたような笑顔で言った。
「そんな店、あったか。覚えが無い」
「ここに来る途中で看板を見たよ」
宿を出て、ユユリの言う裁縫屋を探しに町を練り歩いた。だがどうにも見つからない。ユユリの事を疑う気持ちはなかった。なので何か事情があるのだろうと察しをつけた。だがそれをユユリに話すのを忘れていたせいでユユリがぐずりだした。
「本当だよ! 本当に見たんだよ! 嘘じゃないもん」
「分かった。分かった。信じているから大丈夫だ」
ユユリの頭に手を乗せると一瞬硬直したかと思うと、不意ににやけた顔を向けて彼女は言った。
「じゃあ、許してあげる」
俺は怒られていたのだとその時になって初めて知った。
過ぎ行く人に道を訊けば話が早い。だが精霊使いにあたった場合はユユリについてあれこれと詮索される恐れがある。
「ともかく、何かカラクリがあると思う」
「カラクリ?」
「どの辺りで見かけたか覚えているか?」
確か、と言ってユユリは水平移動する。「この辺」と言って酒場を指差した。
その酒場には昼間から呑んでいる連中がいる。俺にも覚えがあった。朝一でこの町に来て、目当ての品を見つけた後にする事がなくなってつい昼間から呑んでしまう。トリアルの門は日中はいつでも入ることは出来る。だが出る時間帯は決まっている。朝方と夕方のそれぞれ数時間だけである。防犯上の理由があるらしい。
「あ」と思わず声が出た。
「どうしたの」ユユリは俺の顔を見て言った。
「酒場に巨漢の男がいるだろう」俺は酒場の開け放たれた入り口を指差して言った。「あの男が座っているのはカウンターの端だ。そして、この酒場は少し特殊な作りになっている」
酒場の入り口をくぐり、巨漢の男の後ろを通る。ユユリは不思議そうな顔をしてついていきた。
「そしてこのカウンターの端に来ると分かるが、入り口の反対側にはもう一つ入り口がある」
巨漢の男によって阻まれたもう一つの入り口が見えた。
「この酒場は二つの店を合わせて一つにした。今のこの場は本来は通り道だった。そして向こう側の入り口を抜けると隠された通り道にたどり着ける」
俺は巨漢の男の後ろを通り、もう一つの通り道に出た。後ろを付いてきたユユリは興奮した様子で言った。
「ここ、ここ! この看板だよ!」
酒場を抜けた先には裁縫屋があった。あえて低い位置に看板を掲げているのはこの特殊な地形によるものだろう。
「この通りは酒場の改修や区画整理によって一見さんにはほとんど知られぬ通りとなった、という事だろう」
実際、通りに立って左右を見渡すと、左右ともにすぐに曲がり角が出来ていて、酒場をコの字型に囲う通りとなっている。
「商売あがったりだろうな」俺は思わず呟いた。
「そんな事はない。酒場が繁盛しているせいか、割にトリアルでは知名度はある方だ」
いずこから声がした。
「下だよ、下」という声に従い、視線を下げるとそこにはユユリと同じくらいの背格好の女の子がいて、花がぎっしりとつまった籠を両手で持ち、今まさに裁縫店に入るとしているところであった。
「店員さんですか」取り繕うように俺は言った。
「店主だ。従業員を雇う余裕はない。知名度の割に顧客は限られているからな」
そう言って店主はユユリを見た。
「中に入れ。依頼は大体想像が付く」
ユユリと俺は顔を見合わせてから店に入った。