カムイはハルナギに出会う
魔法の類を見たことは一度もなかった。魔法自体があるのは知っているがどうにもピンとこない。村の中に魔法を使える者がいなかったからだ。
数年前に俺の保護者から「これがあると奇跡が起こせる」と言われて右手の甲に刺青を掘られたことが唯一のそれらしい体験である。
ピンと来なくても腹は減る。正直、魔法よりも今日の生活の方が大事である。
生活に重きをおくと自然に人と接する機会が増える。
彼女は近所の学校のような所で教師をしていた。
お飾りのような低い塀が壊れたので、左官屋の真似事をしていた俺が駆り出された。
「まあ、あなたが」と彼女ーー、ハルナギは言った。
「何のことですか」
ああ、いえ。とお茶を濁して彼女は教室に戻った。彼女を出迎えた二人の子供ーー、男の子と女の子は俺とハルナギを交互に見て、不思議そうに手を振った。
手を振り返すと、満足したように二人は教室に引っ込んだ。
後に訊いたところによると、あの二人の子供は彼女にこう言ったのだそうだ。
「今日、先生に試練が来る。でもそれは運命だから変えてはいけない」と男の子が告げると、その後を引き継ぐように女の子は言った。
「怖い言い方をしないで。先生の未来の旦那様が来たって意味だよ」
塀が出来上がるまでの間に何とか誘い出す口実を考えていると、彼女の方から夕食に誘ってきた。
舞い上がった俺は行きつけの食堂ではなく、町外れにある洒落たカフェバーへ行く事を提案した。
「いつか行ってみたいと思っていた店です」と彼女は言った。
早々に仕事を終えて、「また、後で」と彼女に手を振り、俺は帰途についた。
丹念に体を洗い、使ったことも無い香料を体にふりかけ、持っている中で一番上等な服を見繕い、町外れに出向いた。
彼女は学校で見た格好のまま店の前に立っていた。
「ごめんなさい。トラブルがあって直接ここに来ました」
気にすることはない、充分に素敵だ、と述べると彼女の目が潤んだ。
「手慣れているんですね」
「何がですか」
「女性を喜ばせる事ですよ」
「いや、俺はまだ」
口が滑りそうになるのを抑えると、彼女は屈託無く笑った。「私もこんな事は初めてです」
元の世界で恋愛指南書を読んでいて良かったと思った。初めて役に立った。
「お腹空いちゃった」彼女は砕けた調子で言った。
立ち話が長引きそうになるのを彼女は察したようである。自ら道化を演じて行動を促した。女性に気を使わせてしまう辺りは俺の経験不足のせいだ。
店に入り窓際の席に案内され注文を済ませると、彼女は学校でのトラブルについて語り出した。前述の子供達の台詞を彼女は語り、二人で頬を赤らめた。
「それを隣で聞いていた他の子供達が、放課後になってから今日で私とお別れだと騒ぎ出したの。結婚するから学校を辞めるに違いないと。そんなことはないと全員とハグして満足させるまで時間がかかってしまいました」
「大変そうですね」
「でも子供は好きだから」
束の間沈黙が流れた後に前菜が届いた。ニンジンとトマトのマリネであった。
話題に詰まった俺としてはありがたい。だがニンジンはどうにも苦手である。
「ニンジンが食べられないの」まるで小さな子供に言い聞かせるようにハルナギは言った。
「恥ずかしながら」
すると不意に椅子から立ちあがり、対面の俺の皿にあるニンジンにフォークを突き立てそれを自らの口に運んだ。
「こんなに美味しいのに」と悪戯っぽく笑って座った。
俺は前かがみになった時のハルナギの胸元の残像に目を奪われ、「次までには食べられるようにするのよ」とおどけて言ったハルナギの台詞に「うん」と子供のように答えてしまった。
それを見たハルナギは豪快に笑った。
恥ずかしかったが悪い気はしなかった。
「てことは次も誘っていいの?」と笑い終えたハルナギは言った。
そこで無粋とはわかっているものの、なぜ俺を誘ったのか訊いた。またも経験不足が露呈した。
「あなたが」
その先は聞き取れなかった。
目の前で天井が崩れ、彼女が一瞬にして消えたからである。