第5話 ドジとバケツは使いよう
テオドール・ピストリークス様の恋人役兼住み込みで使用人をすることになった、わたしことマリア・ヒュドール。
そんなわたしの一回り上の、使用人仲間のオルガノさん。彼がわたしに、ピストリークス伯爵家の何たるかを教えてくれることになりました。
オルガノさんは、朽葉色の前髪を後ろに撫で付け、髪と同じ色の瞳を持っています。白いシャツに白いタイ、ブラウンの燕尾服と下衣といったいわゆる執事さんがする格好をしている。身長も鼻も高いし、きりっとした顔立ちで、街の女の子たちが見たら、きゃあきゃあ騒ぎそうな男性。
だけど――。
「まあでも、家のことって、特にやることはないんですよね~~」
本人の中身は至ってふわっとされています。
かといって、ピストリークス家の事が嫌いだとか、そういうことはないよう――。
オルガノさんが簡単に説明してくれた。
数年前のわりと有名な事件の結果、ピストリークス家は、元々侯爵家だったのが、伯爵家に降格している。
(この話はわりと街でも有名で、今でも時々街の皆の間では話題になるから、世間に疎い私でも知っていたかな)
爵位が降格しただけで済んだのが幸いで、本当ならおとりつぶしになっていたそう……。その頃に、ピストリークス家の財産の大半が国に没収されてしまい、貴族だけど貧乏になってしまったそうです。
使用人たちの大半が解雇されたが、オルガノさんと彼の祖父母だけが忠義が厚くて、この家に残ることにしたらしい。
「しかしアリアさんは、やはり神に見初められし存在ですね」
突然わたしに向かって、オルガノさんが突拍子もないことを言い出した。彼の瞳は爛々と輝いている。
(しかしながら、わたしの名前はマリアなのですが……)
「神に見初められし……?」
「そうですよ! 洗濯物を干しては突然の強風に見舞われ全て飛んでいき、皿を洗わせたらなぜだか皿の方から割れていき、料理をすればなぜかそこにあった塩がどうしてだか砂糖にすり替わり、書類を集めればなぜか出来ていた墨の海の中に全て落とし……! これはもう神に愛されているとしか言いようがないですよ!!!」
わたしは、どう反応して良いのか分からなかった。
(オルガノさんは、わたしを褒めているのかな? けなしているのかな?)
オルガノさんの言葉は、とにかくわたしの心のぐさぐさ刺さる。
今、彼が説明してくれたように、住み込みで働いて炊事洗濯をこなすことになったわたしだけど、街に住んでいた頃とは変わらずドジの連続だった。
このままだと、ただでさえ少ないピストリークス家の財産を、わたしの存在が食いつぶしてしまいそうだわと悩んでいたので、心が痛い。
わたしはオルガノさんのそばを離れて、モップで廊下の水拭きを始めることにした。
そう言えば、使用人の仕事をするにあたってオルガノさんから作業着を一式渡された。いわゆるメイドさんが着用する、膝丈の黒いワンピースに白いフリルのついたエプロンをいただいたのだけど、これがとにかく可愛い。
(まだこの可愛い洋服を着ていたいから、解雇にはなりたくないよ~~)
そんなことを考えながら、モップを動かしていたからか――。
「――って、ぎゃ~~っ!!!」
うっかり濡れた廊下に足を滑らせてしまった。
つるんと滑って床に突っ込む。そして、なぜかそこにはバケツが――!
そのまま転んでバケツに突っ込んだら、中に入っていた水が顔面に直撃した。
しかも、なぜかバケツは飛んでいく。
「あいたたた……」
金属が鳴る音が響いた。バケツが落ちた音だろう。
どうしてモップをかけるだけで、こんなことになるのだろうか。頭やら膝やらをぶつけて、ところどころ痛い。
(お兄ちゃんと違って、運動神経に恵まれなかった自分が憎い……)
そんな中、中低音の声が頭上から聴こえた。
「大丈夫か――?」
見上げると、そこには肩先までの黒髪に菫色の切れ長の瞳、白いシャツに紺碧のフロックコートを着ている、綺麗な顔立ちの青年。
「テオドール様!」
転んでいたわたしの近くに、テオドール様が近づいてきた。
恋人役をさせてもらっているのが申し訳なく感じるほどの美形である。
(好みじゃないけれど……)
彼に醜態を見られてしまって、わたしは焦る。
うろたえていたら、テオドール様がわたしに手を差し伸べて来た。
「どうした――?」
戸惑っていると、彼に催促される。
わたしはおずおずと、テオドール様の大きな手に自分の手を重ねた。
(男の人の手――)
手を掴まれて、彼に立たせてもらった。
(心臓がドキドキしてもたないよ~~)
自分のほっぺが自然と紅くなっていくのが分かった。顔が熱い。
そしてテオドールの方を見て、はっとなった。
「テオドール様に水が……!」
テオドールの紺碧のフロックコートの腰回りに、水がかかって濡れてしまっていた。慌ててわたしはエプロンの中に入れていたハンカチを取り出して、テオドール様の衣服を拭き始めた。
「拭かなくて良い」
彼に制止されて、またもやはっとなった。
(男の人の腰のあたりをごしごししちゃったわ……!)
また恥ずかしくなって、あわあわと慌てていると――。
「それにそれは雑巾だ」
自分の手に持っていたハンカチだと思っていたものが、本当は雑巾だったと気づく。
「ご、ごめんなさい!!!」
わたしはテオドール様に何度も何度も頭を下げる。
「赤くなったり、青くなったり忙しいやつだな……気にしなくて良い。じいやもお前は頑張り屋だと褒めていたぞ。それと、ドジなところが尊いとかなんとか……」
じいやとは、オルガノさんの祖父兼執事頭のシロフォノさんのことだ。白髪に白い立派な髭をしている男の人で、御年七十歳は超えていられるけど、とっても機敏な動きをしている。
じいやさんにも褒められているなんて、嬉しくなってしまった。
そして、テオドール様がわたしに話を続けて来た。
「私も、アリアがドジでも困りはしない」
「ふぇっ!?」
目の前のテオドール様がふっと笑った。美形の笑顔とはかくも破壊力があるものか、心臓がものすごく速くなってしまった。
ピストリークス家に住み込んでいて分かったことがある。
噂では、テオドール・ピストリークスは、冷徹で恐ろしい人物だと言われていたけれど――。
(テオドール様は、本当は優しい人だわ……)
わたしが満面の笑みになると、テオドール様も心なしか頬が赤くなって照れているように見えた。
(わたしの目の錯覚なのかな――?)
自分だけが彼の素顔を知っているようで、なんだか嬉しくなったのでした。