その2
「パブセンス家? 確かにそう言ったわよね。なぜ、今、こんな場所に!?」
昨晩、黒鳩から知らされたばかりの名を耳にし、サリスの警戒心は急激に高まった。屋根裏部屋から音も立てずに廊下へ飛び降りると、そのままの勢いで階段を駆け下りる。
(大富豪の息子が、こんな下層地区に足を運ぶなんて。やっぱりケドラスさんはパブセンス家とつながっていたの!?)
一階の階段踊り場まで一気に駆け下りたサリスは、物陰からわずかに顔を出し階下の様子をうかがう。
玄関口に若い男性が立っているのが見えた。羽根つきの帽子を手に持ち、上質の毛皮を裏張りしたマントには金糸銀糸の刺繍があしらわれ、マントの下に着ているダブレットも珊瑚のボタンや多彩なリボンで飾り立てられている。
(身なりの良さからして、彼がパブセンス家の人間ね。フィロスタス、だっけ? 後ろにもうひとりいるみたいだけど……、顔までは見えないわね)
フィロスタスの背後に立つ人物の服装も似たようなもので、貴公子然としたフィロスタス青年の出で立ちに比べれば控えめだが、それでもこのあたりでは場違いな印象を受ける。
(パブセンス家の従者か護衛ってとこかな?)
再びフィロスタスの方に視線を戻し、その容姿を頭に刻みこむ。見たところ年齢は20代前半、艶のある金髪は肩の高さで切り揃えられ、眉もまつ毛も綺麗に整えられている。
目鼻立ちは悪くはなく、背丈も平均よりやや高い。一見、美男子と言えなくもないが、色白で線の細い面立ちに、サリスは、どこか頼りない印象を抱いた。
当のフィロスタスは、そんなサリスの視線にはまるで気づいた様子もなく、目の前にいるカテリヤに熱心に話しかけていた。
「迷惑などと、とんでもない! 女神エフェナは我が家の守護神。その信徒の方が苦難に遭われていると聞いて見過ごしにはできません。私どもで力になれることがありましたら、ぜひおっしゃってください!」
「は、はい、いえ、あの、恐れ入ります……」
会話の内容から察するにカテリヤとフィロスタスは顔見知りのようだ。
(まさか昨日の今日で、あの家の人間と会うことになるとはね)
黒鳩からパブセンス家の名を聞いたのはわずか半日ほど前のことだ。どうやって探りを入れようか考えていた矢先、相手の方から接触してきてくれた。しかも、その人物はカテリヤの知り合いという。
じつにうまくできた話だ。それだけにサリスは不審感を抱いた。
(どういう関係なのかしら。それによって話は変わってくるわよね)
サリスの受けた依頼は単純な護衛任務であったが、そこに関わる人物たちの関係は、とても単純とは言い難い。
依頼主であるカテリヤとその両親、借金の貸主であるディグエットと、彼の前の奉公先であるパブセンス家。
個々のつながりは明白でも全体の関係は不明で、さらにその中で22万ユアンという大金の存在が話しをより複雑なものにしている。
(でもまぁ、考えようによっては好都合か。あとでカテリヤさんから……、あら?)
サリスは奇妙なことに気づいた。先ほどから熱弁をふるっているフィロスタスとは対照的に、カテリヤのほうはすっかり恐縮し、相手の言葉に相槌を打つのが精一杯のようだ。
緊張と困惑の混ぜ合わさった表情は、その後ろで見守っている老夫婦たちとほとんど変わらない。
(変ね。何かあったのかしら?)
フィロスタスはといえば、そんな聞き手たちの心境などお構いなしと言った調子で、とうとうとしゃべり続けていたが、やがて言いたいことはすべて言い終えたようだ。
「突然押しかけて長居をするのも失礼ですので、今日はこれで御暇いたします。しばらくの間、この街に滞在する予定ですので、ぜひ一度屋敷へいらしてください。そこで詳しいお話をいたしましょう」
いささか芝居がかった挨拶を残しフィロスタスは去っていった。玄関の扉が閉まると、カテリヤと老夫婦は、まるで呪縛から解放されたように深く息を吐き出した。
一方、サリスは、素早く2階に上がり街路に面した窓にかけよる。窓から見下ろすと、建物の前に1頭立て2輪馬車が止まり、フィロスタスが乗りこむところであった。
パブセンス家の紋章が刻まれた黒塗りの車体は鏡のように磨き上げられ、金具には金メッキが施されている。馬車を引く馬も、漆黒の毛並みと色つや、張りのある体つきが美しく、見るからに名馬とわかる。
芸術品のように豪奢な馬車は、周りの薄汚れた風景から明らかに浮いていた。
フィロスタスが乗りこむ間、彼の背を守るようにして、周りに注意を払う人物がいた。踊り場ではよく見えなかったが、フィロスタスの従者は女性であった。
やや赤みがかかった髪は短く刈り上げられ、周囲に向けられた視線は鋭いが、薄く化粧をした顔や凹凸のある体つきは、明らかに女性のものである。
そのとき、不意に女性の視線がサリスのいる窓に向けられた。とっさに身を隠したが、あるいは見とがめられたかもしれない。
(あ~、びっくりした。かなりの腕ね。さすが、お坊ちゃんの護衛を任されるだけあるわ。お坊ちゃんの方は武芸とはあまり縁が無さそうだけど、まぁ商人ならそんなものか)
おそるおそる頭を上げると、フィロスタスを乗せた馬車は何事もなかったように出発していった。
それを見届けたところで、ちょうどカテリヤが階段を上がってきたため、ひとまず彼女と連れ立って屋根裏部屋へ戻ることにした。
屋根裏部屋に戻った2人はベッドの端に並んで腰かけた。
しばらくの間、どちらも無言であった。カテリヤは、廊下を歩く間もずっと視線を下げたまま自分の考えに没頭し、サリスは、それを邪魔しないよう意図的に黙っていた。
やがて、うつむき加減であったカテリヤの頭が、少しずつ前を向き始めたところで、おもむろにサリスのほうから口を開いた。
「今見えられた方、フィロスタスさん、でよかったかしら? さきほどパブセンス家と聞こえたのだけれど、ご当主が元老院を務めている、あのパブセンス家のお身内の方?」
「あ、はい、そうです。私の育った修道院は、パブセンス家の寄付金で建てられたもので、その御縁から、代々ご一族の方々とは親しく交流されているとうかがっています。先ほどお見えになられたフィロスタスさまは、現当主マウセスさまのご次男です」
修道院とパブセンス家との関係については黒鳩から聞いていたが、フィロスタスについては初耳である。なるべく詰問口調にならぬよう心がけながら疑問を口にする。
「ずいぶん親しくされているようなので驚いたわ。ハデルの街でも有数の大富豪とお知り合いだなんてスゴイわね」
「と、とんでもない! 修道院で催された儀式ご参列されているところを、遠くからお見かけしたことがあるくらいで……。ご挨拶したのも今日が初めてです」
「えっ、そうなの?」
「はい。修道院では男性と接することが禁じられていますから」
カテリヤの言葉が真実なら、フィロスタスと話していたときの彼女の様子も納得できる。しかしだとするなら、フィロスタスの熱のこもった話しぶりはなんだったのだろうか。
「そういえば、フィロスタスさまは、しばらく街に滞在されるとおっしゃっていたけれど、普段は何をされているの?」
「確か、3年ほど前に、留学先のリシャルヴァから帰国されて、現在はご一族で所有されている土地の管理を任されているそうです」
(3年前……。ディグエットが出資を始めた時期と重なるわね。仮にパブセンス家とつながりがあるとして、お金の出処はフィロスタスってこと? でも、なぜ彼が?)
サリスから見たフィロスタスの第一印象はそれほど悪くない。上流階級にありがちな高慢さや横暴な振る舞いはなく、カテリヤに向けた言葉にも誠意が感じられた。
気になったことといえば、彼の口調や表情が、どこか高揚しているように思えたことだ。
「……まさかね」
「? どうかしましたか?」
「あ、ううん! なんでもない。それより、そろそろ出発しましょうか。この手帳と本、もう少し調べたいのだけれど、借りて行ってもいい?」
「はい、もちろんです」
今日の目的は、カテリヤを遺跡探索の同行者に引き合わせることにある。話しこんでいるうちに予定の時間がせまっていた。