その1
黒鳩と別れ酒場を出たサリスが、街灯の薄明かりに照らされた夜道を通り、自宅に帰り着いたのは真夜中少し前のことであった。
「ただいま。あれからお客さん来た?」
「来たよ、鑑定依頼のご新規が3人ほど。『10日ほどかかる』って言ったら出ていったけど」
棚の上に陣取っていたミアルが顔だけのぞかせる。ビレッサの店に行く前にも同じ会話を交わしていて、そのときの来客は2人だった。
「これで、今日1日で5人のお客さんをよそに譲ったわけだ。景気のいい話だねぇ~」
カテリヤの仕事を受けると決めた時点でこうなることは分かっていたし、ミアルの皮肉も予想できた。しかし、覚悟はしていても落胆しないわけではない。
(おまけに今日に限ってご新規さんばかりって。最初の印象が悪いと、もう来ないわよね)
マントとベルトを壁にかけながらため息がもれる。気を取り直して顔を上げたサリスは、カウンター奥の作業台に、見慣れない小さな木箱が3つ置かれているのに気づいた。
「なにこれ? どうしたの?」
「ああ、忘れてた。夕方、ギルドの使いが来て置いていったよ。何年も倉庫に放置されていたから調整して欲しいんだってさ」
木箱の上に添えられた封書には、ミアルの言葉を裏付けるウィストンの依頼状とギルド発行の発注書が同封されていた。
「料金は問題ないけど納期が書いてないわね。几帳面なあの子が書き忘れたとは思えないし……」
「面倒な仕事ばかり押しつけて、さすがに気がとがめたみたいだね。ギルド長にご機嫌取りさせるなんて、いいご身分だねぇ」
「……ああ、なるほど、そういうことね」
要するにこれは補填金なのだ。サリスの受ける損害を察したウィストンが、その一部を傭兵ギルドからの発注という形で埋め合わせてくれたのだ。
「調査の手配といい、ずいぶん手回しがよくなって」
初めてウィストンと会ったときのことは今でもはっきり覚えている。
仲間と連れ立ってやってきた少年は、線の細い体に不釣合いな鎧を着て、おどおどと落ち着きがなく、傭兵などとても務まらないように思えた。その彼が、今やギルドを背負う人物になっている。
「人間の時間は、私たちよりずっと速く流れている。意識しているつもりだけど、つい忘れてしまう。ウィストンだけじゃない。エイシャも、ルナリアも、彼女だって」
木箱の中身を改めながら、サリスは、知り合ったばかりの幼い神官の顔を思い浮かべる。店を去るときに見せた屈託のない笑顔が印象に残っている。
「あの子は、きっと立派な司祭様になる。そんな気がするのよね。そのためにも何とかしてあげたい」
「いろんな経験をしたほうが立派な大人になれるって言うけどねぇ」
「家でゴロゴロしているだけの猫に言われたくはないわね」
錬素具の状態を確認したサリスは、それらを作業台の横にある保管棚に並べ、扉の鍵をかけた。実際に作業に入るのは、今回の依頼が片付いてからになるだろう。
翌日、昼過ぎに店を出たサリスは、雑踏でごった返す中央通りを抜け、第9区に足を踏み入れた。ここは、ハデルでもっとも整備の遅れた地区であり、サリスの暮らす第8区に比べても雑然とした印象がある。
地区内の奥まった場所にある貧民窟は、物乞いや浮浪者、犯罪者までがたむろしており、役人でさえめったに近づこうとしない。サリスが目指す家は、同地区の外縁部に位置するため比較的安全な一帯とされる。
道路の石畳がところどころ破損していて地面がむき出しになっている。近道しようと路地に入ると、無秩序に建てられた家屋のせいで迷路のように入り組み、なかには人一人通るのがやっとの場所まである。
ふと頭上を見あげれば、道路をまたいで吊り下げられた洗濯物が日光をさえぎっていた。
路地の左右からは、子供を叱る母親の声や乳を求める赤ん坊の泣き声、酔っぱらいの怒号などが絶え間なく聞こえてくる。
道端で話しこんでいる老人や元気に走り回る幼児たちをよけつつ、いくつ目かの角を曲がって表通りに出たところで目指す老夫婦の家にたどり着いた。
ケドラスが下宿していた家は、石とレンガを積み上げた3階建ての住宅で、ケドラスはその屋根裏を間借りしていた。ドアの前に立ち呼び鈴を鳴らすと、しばらくして穏やかそうな老婆が戸口に現れた。
老婆は事前に話を聞いていたようで、来訪の理由を告げたサリスを快く迎え入れ、そのまま正面の階段を上がるよう告げた。
階段に足をかけたところで、廊下の奥から老爺が顔をのぞかせていたのに気づき、サリスは軽く会釈をしてから階段を上がっていく。
役場の記録では、ケドラスの死因は衰弱による病死とされている。亡くなる数日前から何度も咳こむ姿が目撃されており、数年前から体を壊していたという証言もあったからだ。
病気の原因は酒にあるようだが、妻と連絡が取れるようになって以後、生活費のほとんどを探索の費用に充てていたらしく、それも衰弱の一因であったと見られている。
間借り人と家主との間にはあまり交流が無かったようで、カテリヤが老夫婦のもとを訪れるまで、2人はケドラスが結婚していたことさえ知らなかったという。
そのため、間借り人の遺体を発見した家主は、当初、無縁仏として役所に届け出ていた。役人が遺品を調べたところ借金の証文が見つかり、そこからカテリヤにつながったのだという。
ケドラスの遺体は、カテリヤが務めている修道院の好意により、妻の墓の隣に埋葬された。
サリスが2階に上がったところで、カテリヤが迎えに下りてきていた。3階の廊下の突き当りに折りたたみ式の階段があり、そこから屋根裏部屋に上がることができた。
屋根裏に設けられた部屋は、天井は低いものの、道路に面した窓のおかげで閉塞感はない。室内には木製のベッドとテーブル、それに小さな棚が置かれ、床にはケドラスが残した紙束や書物などが積み上げられていた。
「お父さんの遺品はどうするの?」
「衣服や道具類は修道院に寄付しますが、書物は街の学院に寄贈しようかと思っています。修道院にも図書室はありますが、興味を持たれる方は少ないと思いますので」
「ん~、それでもいいけど、どうせなら売って借金の返済に充てない? 見たところ高そうな本が何冊かあるのよ。まとめて買い取ってくれそうな知人がいるから紹介しようか?」
「そうなのですか? そういうことには本当に疎くて。ぜひよろしくお願いします」
「うんうん、いちおう私も専門家だから、そのへんは任せて。……っとこっちのは?」
サリスが目を留めたのは、テーブルの上に置かれた3冊の書物であった。
「あ、それは父の背負い袋に入っていたものです。着替えや道具といっしょでしたので、最後の探索に関するものだと思うのですが……」
「それは興味あるわね。ちょっと読ませてもらっていい?」
カテリヤの承諾を得て、サリスは書物をまとめていた革紐をほどく。3冊あるうち、一番上に載っていたのはケドラスの手帳で、遺跡探索に関する記録や覚え書きが記されていた。
残る2冊は研究書の写本らしく、革張りされた表紙を見ると、一冊目は『南岳巡礼行記』、二冊目には『アドゥラ公遊覧記』と記されていた。
ざっと目を通したところ、どちらも先史文明時代に記された書物を現代の言語に訳したものらしい。ところどころに付箋が挟まれているため、カテリヤの言うように今回の遺跡探索に関わるものと思われた。
なお、一般に古代語と呼ばれる先史文明の言語は、単語や文法など基礎的な部分は、現在の言語と大差ないが、時代を経るなかで文字の形や語句の意味合いが変化し、ほとんど別の国の言語といってよい。
加えて、先史文明では、文章を記す際、過剰とも言える修飾や婉曲な言い回しが好まれていたため、古代語の読解には専門知識が必要となっていた。先史文明の文献の翻訳を請け負う商売もある。
サリスが手帳を詳しく読もうとしたとき、階下から家主である老婆の声が聞こえた。
「カテリヤちゃん、ちょっといいかしら。あの、またお客様がいらしたのだけれど……」
どこか歯切れの悪い口調には、老婆の戸惑った様子が感じ取れた。サリスが不審を感じているうちに、カテリヤは老婆のいる廊下まで降りていた。
「たびたび申し訳ありません。どなたがいらしたのでしょうか?」
「そ、それがね、パブセンス家のご子息だそうで……、カテリヤちゃんのお知り合い?」
老婆から名刺を差し出されたカテリヤは、そこに記された名前を見て驚きの声をあげる。
「まぁ、フィロスタス様が? いったい、どうして……」
「家に上がっていただこうと思ったのだけれど、『ここでいい』とおっしゃられて、今、玄関でお待ちいただいているわ」
「大変! サリスさん、少々お待ちいただけますか? ご用件をうかがってきますので!」
カテリヤは、屋根裏から顔を出していたサリスに声をかけると、急ぎ足で階段を降りていく。やや気が動転した様子の老婆もその後を追っていった。